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6章 戦後の上富良野 第10節 戦後の宗教

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3、天理教と教会

 

 上富良野分教会

 天理教兵神大教会(神戸市)の夕張分教会(岩見沢市)に所属していた上富良野分教会は、佐藤ユキエが教会長をつとめていたが、29年9月12日に死去し、後任の第4代教会長には佐藤道信が10月27日に就任した。道信は第2、3代の教会長であった正信、ユキエの長男であり、天理中学校に遊学するなど教会の継承者として与望をになっていた。31年に青年会夕張分会委員長、43年に富良野支部長(3期9年間)をつとめるなど上級教会の役員、教区役員としても活躍をみせていた。

 32年の信徒数は156人となっていた。

 

 旭江分教会

 天理教南海大教会(和歌山県新宮市)の雨竜分教会(深川市)に所属していた旭江分教会では、33年4月に現在地である字富良野原野347番地の8に教会を移転することに決定し、早速工事に着手し、5月5日に上棟式を挙げ、11月には竣工して静修から23日に移転した。鎮座祭は34年10月12日に行われ、翌13日には落成奉告祭が執行されている。

 第3代会長の大串直平は45年6月に死去し、46年1月26日に台丸谷正則が第4代会長に就任した。32年の信徒数は89人となっている。

 

 上富分教会

 天理教北陸大教会(福井県小浜市)の高台分教会(旭川市)に所属していた上富分教会では、31年3月に市街地1454番地(現栄町2丁目)から西2線北27号(現在地の北町2丁目)へ移転している。

 会長は森久八が大正9年の開教、15年の教会設立以来つとめていたが、34年11月26日に森久一が第2代会長に就任した。32年の信徒数は41人とされ、41年の総代は森義雄、宮下久幸となっていた。

 

 北鎮分教会

 天理教撫養大教会(徳島県鳴門市)の河陽分教会(徳島市)に所属していた北鎮分教会は、東中の東8線北18号105番地に所在していたが、冬期はバスもなく参拝する信徒にとって交通が不便なところであった。このために移転のことが協議され、杉本高三郎の土地寄付もあって28年6月末に、日の出(現在地の新町3丁目)に移転を行った。

 会長は狩野留治が昭和13年からつとめていたが、28年に狩野善則が第2代会長に就任した。善則は留治の娘婿(婿養子)であり、河陽分教会で修行を修め、昭和4年に来道して布教に当たっていた。32年の信徒数は70人となっている。

 

 甲富分教会

 天理教秩父大教会(埼玉県秩父市)の武光分教会(埼玉県)、瀬棚分教会(瀬棚町)に所属していた甲富分教会は、この時期、顕著な事跡は伝えられていない。会長は佐藤初吉が大正15年の教会設立以来つとめており、32年の信徒数は75人となっている。

 

 江花布教所

 江花布教所は中富良野町西中にある富原分教会に所属し、松田サツが板垣フジノ、山中トキなどの協力を得て昭和31年3月22日に開所した。松田サツは天理教校の別科を昭和5年に卒業し、農業のかたわら布教に従事していたが、31年に「教祖七十年祭という時期に一層の成人をさせて頂きたい所存から」布教所を設置したという(『上富良野町史』)。

 41年の責任役員は松田佐市であった。

 

 神道大和教結社

 『上富良野郷土誌』によると神道大和教結社は、「小林キノの創立。昭和13年10月1日、新潟市で扶桑教の免許を受け昭和27年10月21日、大和教の独立によってその傘下となり、32年権少講義となって宗教活動開始」と記述されている。

 神道大和教結社は市街三町内に所在し、教師は小林キノで信徒数は115人であった。