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6章 戦後の上富良野 第10節 戦後の宗教

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2、寺院の動向

 

 大雄寺

 曹洞宗の佛国山大雄寺では、29年4月7日に宗教法人の設立登記を行い、法人として新たな出発を果たしていたが、戦後に各種の施設整備も進められていた。まず、24年8月に21坪の納骨堂を建立し、27年には26坪の付属建物を建立し8月3日に落成していた。30年に80坪の庫裡を増改築し7月25日に落成している。

 記念行事では23年9月1日から5日間、寺号公称三十周年記念結成授戒会を行い、38年9月3日には創立五〇周年の記念法要を行った。

 大雄寺には聖徳太子像が安置されている。この尊像を大雄寺に迎えたのは昭和5年であったが、これ以降、太子講が結成されて春、夏の祭りが行われていた。35年から太子講夏祭りを8月から7月1日に練上げ、36年1月に太子講創設三〇年を記念して3年計画で太子堂の建立が決定された。41年7月1日に11坪の堂が落成した。

 住職は前期に続き滝本全應がつとめていた。滝本全應は26年に北海道曹洞宗務所会計、31年に永平寺副監院などの宗務の要職をつとめる一方で、町の民生委員、保護司、人権擁護委員などの公職をつとめ、44年には自治功労賞を受けた。44年10月29日に滝本幸朗に住職を引き継ぎ、その後、48年2月25日に死去している。

 大雄寺の檀徒数は32年に217戸、41年は170戸となっており、40年頃の檀徒総代は山本逸太郎、芳賀吉太郎、守田周一、神谷加津馬、坂彌勇、菅野善作であった。

 

 写真 大雄寺の聖徳太子堂

  ※ 掲載省略

 

 明憲寺

 真宗大谷派の明憲寺では昭和25年6月に、「明憲寺寺院規則」を制定していた。その規則には、

 

 本寺院ハ真宗大谷派ノ教義ヲ宣布シ儀式ヲ執行シ、以テ衆庶ノ教化救済ノ為ヲ目的トス(第五条)

 本幸院ハ阿弥陀如来ヲ本尊トシ、尚本宗弘通ノ恩ヲ謝センガ為宗祖親鸞聖人並ニ聖徳太子、七高僧、伝燈歴代ノ影像ヲ安置ス(第六条)

 

などと、寺院の目約・信仰につき規定していた。また、檀徒・信徒についても檀徒は、「真宗大谷派ノ教義ヲ信奉シ本寺院ニ属シ、之ヲ護持シ一家ノ葬儀法要ヲ委託スル者ヲ檀徒トス」(第一四条)、信徒は「真宗大谷派ノ教義ニ帰向シ、本寺院ノ維持ニ当ル者ヲ信徒トス」(第一五条)として区別を設け、総代については、「総代ハ檀徒又ハ信徒ノ中ヨリ衆望ノ帰スル者ニ付、現任総代ニ諮リ住職之ヲ指名ス」(第一七条)と定め、定員を5名、任期3年としていた。

 明憲寺の戦後期の動向をみると、まず24年には蓮如上人四百五十回忌御遠忌法要に合わせて梵鐘慶讃法要が行われていた。

 明憲寺の梵鐘は戦時中、仏具と共に供出しておりその後は代わりに石を吊るしていた状態であった。ちなみに、同年の恒例布教は65回で7,000人の檀信徒を集め、臨時布教は5回で750人となっていた。

 戦後期における明憲寺の課題は、なんといっても本堂の新築であった。本堂新築は昭和4年に建築設計書を作成して計画されていたものであるが、果たせずにのびのびとなっていた。27年11月の役員会にて建築五カ年計画の方針を決定し、28年から建築材料の選定、建築業者の決定、資金の手当などを行い、29年9月6日に起工式を行って準備に入っていった。そして30年には旧本堂を解体し、8月12日に上棟式を行い建築を進めていった。本堂は404平方bの面積をもち、806万円の建築費をかけて完成し、31年9月8日に本堂竣工法要が盛大に営まれた(明憲寺編『法流』昭63)。

 43年には明憲寺の創立七〇周年を記念事業として納骨堂が新築され、44年7月4日から6日まで納骨堂落成法要、宗祖上人(親鸞)七百回忌御遠忌法要、創立七十年記念法要などが行われていた。

 檀徒数は32年の場合、200戸とされており(『町勢要覧』)、総代は戦前期に引き続き高畠正信、高松由平、荻野幸次郎、岡田勘太郎、道井太十即、野原助七がつとめていたが28、29年に新たに橋本与一、奥野忠治、北野豊、勝井栄太郎、浦島与三之、伊藤富三、葛本利八が就任した(前掲書)。住職は14年に就任した近藤信行がつとめており、教法や寺観の整備に尽力していた。

 この時期の年次法要については、「明憲寺寺院規則」にて以下のように定められている。

 

 イ 四大節其の他国家の祝祭日に於ける奉讃法要

 ロ 修正会  一月一日より三日間

 ハ 報恩講

 ニ 先住上人祥月法要

 ホ 蓮如上人祥月法要  三月二十五日

 テ 法然上人祥月法要  一月二十五日

 ト 先住職祥月法要

 チ 彼岸会  春季及秋季彼岸中

 リ 開宗記念会     四月十五日

 ヌ 盂蘭盆会

 ル 永代経会

 ヲ 歳末昏時法要    十二月三十一日

 

 写真 明憲寺新造営建前作業

  ※ 掲載省略

 

 聞信寺

 浄土真宗本願寺派の聞信寺は、24年7月21日に門上美義(旧姓池上)が副住職に付き、住職の門上浄照を補佐することになった。美義はもと築地本願寺法務主任の職にあり、坊守信子と結婚し聞信寺を継ぐことになったのである。上富良野の仏教界に数々の軌跡を残した浄照は、32年1月31日に死去した。

 浄照は教法のかたわら12年9月から21年11月まで方面委員を委嘱されて福祉の面に尽力し、戦後は21年6月に社会教育委員、22年11月に共同募金会委員長などをつとめ、各種の公職を歴任していた。32年5月1日に門上美義が第三世住職として就任をみることになる。

 寺院の整備では25年7月に納骨堂が落成していたが、45年に庫裡の新築と本堂の改修を行っている。この事業は44年1月8日に総会にて、開基五〇周年記念事業として庫裡新築の件を決定し、翌45年3月から着工に入り9月に落成となった。

 引き続き本堂補修工事を行い、10月に完了している。そして11月6日から8日までの3日間、開基五〇周年記念法要、報恩講、戦死者追悼法要、庫裡新築落成式などが行われ、『開基五〇周年記念誌』も敢行された。

 その他、寺内の動きでは37年に本尊を納める宮殿並びに須弥檀、開山の厨子・須弥檀が完成したことにより、6月26日より28日までの3日間、御入仏慶讃法要、宗祖親鸞上人七百回忌大遠忌法要、門徒物故総代・世話係・戦没者合同追悼法要が営まれている。また、30年4月3日に昭和16年以来中断となっていた仏教青年会を再興し、発会式を行っている。

 聞信寺にては昭和4年以来、保育所を経営して幼児の福祉と教育に貢献をしていた。24年9月に「保育施設の完成と発展を念願」して村(町)立に移管となっていたが、依然として個人経営の状態が続き園舎の建設にはいたらなかった。この間、本堂の開放による破損も進んでいた。このために39年に門上幼稚園設立委員会もつくられ、園舎建設がはかられるようになる(「幼稚園園舎建設趣意書」聞信寺蔵)。この結果、11月25日に上富良野町立保育所は廃止となり、40年4月にふたば幼稚園として開園し、門上美義が41年12月以降、園長をつとめることになる。

 聞信寺の檀徒数は32年が110戸、41年は237戸となっていた。総代は昭和25年の場合、以下の5人が選ばれている(全員再任)。

 山崎小一郎  一色仁三郎  和田松ヱ門  中田与次郎  西村 常一

 以上のうち、山崎小一郎は富山県西礪波郡西野尻村出身で篤信の北陸門徒であった。大正6年における説教所創立から総代をつとめ、35年9月に死去するまで「総代元老として法義篤信の上から寺門につくせる功績は顕著」であった。彼の永年にわたる総代として尽力した功績につき、門上美義は36年2月に親鸞の七百回大遠忌に際して本山に対して褒賞授与者として推薦をしていた。

 『上富良野町史』は最近の総代として以下の10名をあげている。

 一色仁三郎  和田松ヱ門  一色 正三  広川 由蔵  村上幸次郎

 久保 栄作  竹内幸一郎  多田 弥平  手塚 輝一  水上 甚松

 

 写真 昭和45年当時の聞信寺

  ※ 掲載省略

 

 専誠寺

 浄土真宗高田派の専誠寺は、昭和24年にいたましい事件に襲われ、悲痛のうちに沈むこととなる。その事件というのは11月21日に発生した強盗・放火事件であった。第三世住職の内田是心、坊守てつは寺に押し入った強盗により殺害され、寺も放火されて本堂、庫裡が焼失するという痛ましい惨劇であった。後継者がいないために小樽市浄暁寺の僧員であった増田義秀が、25年1月20日に第四世住職に迎えられて就任したが、寺の「再建復興」という大きな難題が待ち受けていた。同年2月に総代会にて専誠寺の再建が決定され、草分から将来の発展を見越して市街地へ移転することとなる。移転先は先に吉田貞次郎より寄付を得ていた現在地であり、ここの1,000坪の敷地に本堂(間口6間半、奥行7間半)と庫裡(約40坪)を新築し9月10日に竣工となった。そして11月6日に高田派の法主である常盤井堯祺を迎えて入仏法会を執行し、念願の「再建復興」をはたすことになった。

 続いて26年6月26日には「一光三尊仏」を迎えて開扉法要を執行し、38年8月5日には幼児教育と福祉の発展のために季節保育所である高田育児園を開園していた。

 しかし、「再建復興」に挺身・尽力した増田義秀住職が39年12月22日死去し、住職代務として旭川市真高寺の倉田諦道が就任するようになる。住職不在という難局に再び直面することになったのであるが、44年6月1日に増田修誠(修一)が第5代住職に就任し安定をみるようになる。

 32年の檀徒数は70戸とされ、総代については『上富良野町史』に「復興時代」の総代として以下の10名があげられている。

 吉田吉之輔  橋本宇三郎  鹿間勘五郎  高田 利三  亀島久太郎

 布施 正一  落合 幸助  酒谷 寅尾  伊藤七郎右衛門  中沢忠三郎

 38年頃の責任役員は田中勝次郎、池田唯雄、総代は稲垣万吉、高田多三郎、鹿間富二であったが、40年に改選し責任役員に稲垣万吉、鹿間富二、総代に高田多三郎、分部倉三、久野専一郎、伊藤誠市、伊藤鶴丸が就任している。なお、専誠寺にて功労者として奉祀しているこの時期の総代関係者は、

吉田貞次郎

23年7月25月死去

鹿間勘五郎

30年5月27日

吉田吉之輔

31年5月28日

亀島久太郎

31年8月29日

布施 正一

35年12月4日

池田 唯雄

40年5月27日

田中勝次郎

40年7月8日

稲垣 萬吉

43年8月28日

以上の8人である。

 

 写真 復興新築された専誠寺

  ※ 掲載省略

 

 専妙寺

 東中にあった真宗興正派の専妙寺は、昭和15年に宗教団体法により上富良野教会と改称していたが、21年6月に専妙寺と待望の寺号公称をはたしている。しかし、39年7月31日をもって専妙寺は解散・廃寺となった。これは住職の長尾乗教が老齢と病弱により、後継者もいないことから決定されたものである。7月31日に解散法要を行い、明治40年以来の弘法の歴史を閉じた。

 昭和32年の檀徒数は130戸、37年の門徒数は40戸となっており、創寺以来の総代は『上富良野町史』に以下のように記録されている。

 井上 庄吉   松尾佐平次  井上清五郎   伊賀 伊八  長尾松太郎

 福家登代次郎  福家美代次  福家次郎兵衛  三好 米次  広瀬七之丞

 奥田 亀蔵   長沢達次郎  岩部 春次   池田 秀蔵  太田 トラ

 

 大昭寺

 真言宗醍醐派の大昭寺は日ノ出二下に所在し、西条宥伝(誡祐)が昭和3年に創立した修験道上富良野教会をもとにしており、26年に本堂を建立して27年7月10日に大昭寺と改称し寺号公称を行った(宗教法人の登記は29年3月26日)。しかし、西条宥伝が高齢のために寺を維持することができず、41年11月に遂に廃寺とされた。

 32年の檀徒数は100戸であり、総代は西条常雄、佐藤敬太郎、村上覚蔵、穴田祐二であった。

 

 源照庵

 真言宗所属である源照庵は島津一西の上富良野墓地に所在し、中富良野弘照寺出張所となっていた。住職は尼僧の寄谷源随であったが、昭和34年4月22日に病没し、その後、源照庵は町へ寄付されて墓地寺となる。後任の住職には山本了照がなる。

 

 上富良野仏教団

 町内寺院の連合組織である上富良野仏教団は、毎年5月24日に十勝岳爆発横死者追悼会及び釈迦降誕会の花まつりを主要な活動としていた。花まつりは毎年6月に行われ、白い象を引いた稚児行列は町内の名物となっていた。

 昭和36年の花まつりは6月25日に行われ、専誠寺から大雄寺まで華やかな行列を繰り広げこの日、町内の銭湯では甘茶風呂をたててお祝いをしていた。24日の前夜祭には野外映画会、ブラスバンドの演奏会も行われていた。

 花まつりの実施・運営は上富良野仏教団と上富良野花まつり奉讃会の協賛となっており、奉讃会は39年の場合、会長、副会長のもとに総務、会計、前夜祭、仏前、準備、楽隊、接待、稚児、行列、余興などの係が置かれていた。39年には会長に山本逸太郎、副会長に金子全一、一色正三が選ばれていた。