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6章 戦後の上富良野 第10節 戦後の宗教

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1、神社

 

 戦後の宗教状況

 敗戦後の昭和20年12月に、連合国軍総司令部(GHQ)の指示により国家神道(神社神道)に対する政府の保証・支援・保全・監督及び弘布が廃止され、国家神道は廃止され神社と国家との分離がなされた。また、宗教団体法も廃止され宗教法人令の公布により、信教の自由が保障されるようになり、信教の自由は21年11月に公布となる新憲法にも明記された。永い間、国家の統制と監視下に置かれていた宗教教団・団体は、布教・活動の自由を得て活発な展開をみせるようになるが、特に神々のラッシュアワー≠ニ呼ばれたように新興の宗教教団の教勢拡大は目をみはるものがあった。

 上富良野における戦後の宗教界の動向、変化をみると第1には、上富良野神社や諸寺院では宗教法人化をはかり法人として管理運営の民主化を行ったこと、第2には、これまで諸規制によって寺号公称ができなかった説教所が、寺号公称を果たしたことであった。その他については、あまり顕著な変化はみられず、戦前期の状態を保ったまま推移していたといえる。

 

 上富良野神社

 国家神道の廃止は「村社」という社格を有していた上富良野神社には、大きな打撃ではあったが昭和21年6月21日に、神社本庁の承認を得て「上富良野神社規則」を制定して、戦後の新しい出発をはたしていた。「上富良野神社規則」(上富良野神社蔵)によると、

 

 本神社ハ惟神ノ大道ニ遵ヒ普ク同胞ヲシテ神恩ヲ奉謝シ神徳ヲ奉体セシメ、淳厚ナル民風作興シ以テ世界人類ノ福祉ニ寄与スルヲ目的トス。

 

としており、「神徳ヲ奉体」して「世界人類ノ福祉」に寄与することが目的とされていた。また、27年には宗教法人化を行うが、「宗教法人上富良野神社規則」(27年3月4日神社本庁承認、28年3月5日北海道認承)には、

 

 本神社は天照皇太神を奉斎し公衆礼拝の施設を備え、神社神道に従って祭祀を行い祭神の神徳をひろめ、本神社を崇敬する者及び神社神道を信奉する者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための財産管理、その他の行務を行うことを目的とする。

 

とし、「社会の福祉」に寄与することが目的にうたわれていた。

 施設の面では36年に鳥居の新設が行われている。これは鳥居が老朽化していたことにより、42歳の厄年を迎えた申酉会が新たな鳥居の奉納を決議し、神社鳥居奉納期成会さるとり会(会長長瀬勝雄)を結成し、広く町民に寄付を呼び掛けて新設に至ったものである。これには昭和10年にもとの鳥居を奉納した旧鳥居組(明治26、27年生れ)も後援し、新鳥居は鉄管製で55万円の経費をかけて6月18日に建立となり、7月16日に奉納式が行われた。その他にも、厄年を迎えた各会から内玉垣、外玉垣、神宝、調度品の奉納が毎年行われていた。

 広報活動の面では、42年12月に社報『雲雀ケ丘』を発行していた。

 当時の宮司であった生出宗明は大正13年生まれであり、昭和18年に京都国学院を卒業し、同年3月より19年11月まで上富良野国民学校の助教を勤めるが、19年11月に上富良野神社社掌に就任する。その後、21年8月に禰宜[ねぎ]、23年11月に生出柳治の跡を継ぎ2代目宮司にとなった。しかし、生出宗明は34年6月14日に死去し、富良野神社宮司である西川仁之進が上富良野神社宮司代務者となる。また、宗明の妻である生出邦子が9月7日に禰宜に就任していた。

 総代は確認できる範囲であげると鹿間勘五郎、高坂新三郎、河村重次の3人が21年からつとめ、26年3月にも再任となっている。責任役人は25年5月1日に神社規則を改正して佐藤敬太郎、山本逸太郎、高坂新三郎、河村善翁が就任していた。

 34年8月には佐藤敬太郎、山本逸太郎、菅野豊治、河村善翁が選ばれている。

 

 写真 改築前の上富良野神社

  ※ 掲載省略

 

 上富良野神社の祭事

 上富良野町の夏を彩る上富良野神社例大祭は、この時期もいっそう賑やかなものであった。みこしは御神輿献納奉讃会により昭和27年7月に1基35万円、付属品など含めて70万円で整えられ、31年1月に奉納されたという(『上富良野町郷土史』昭41)。また、35年1月には御輿車が奉納となった。

 例大祭には上富良野神社祭典委員会が当たり、35年の場合、祭典委員長、副委員長のもとに総務、社前受付、演芸、武道、相撲、馬事、渡御、御旅所、賽物、先導、御神馬、衣裳、樽御輿、以上の各係が設けられていた。43年の場合、7月31日は宵宮祭、8月1日の本祭は御神事式、武道(柔道・剣道・銃剣術・弓道)奉納試合、演芸、2日の後祭は演芸、子供相撲、輓馬競争、野球などが行われ、町内を始め富良野線沿線から多数の人を集めていた。

 七五三まつりは10月15日であったが、当日に参加できない家庭、また他の都府県では11月が一般的であり、自衛隊の家庭では11月の開催を望んでいた。そのために42年から10月15日、11月15日の2度行われるようになっている。

 3月3日に還暦を祝う行事は40年から始められていた。この年、還暦を迎えた明治38年生まれの和田松ヱ門、中西覚蔵の呼かけで42人が参加して行われ、参加者たちによって巳年会が結成された。巳年会では彼らが42歳の厄祓は終戦時に当たり、厄祓も神社への奉謝もできなかったので、社務所改築の寄進運動をおこすことになった。43年に還暦者たちは記念にと御帳台を奉納したが、これ以降、毎年記念品を奉納するのが慣例となっていった。

 

 招魂祭

 戦没者の慰霊を行う招魂祭は、町内からも第二次世界大戦中に多数の戦死者を出した結果、258柱の英霊を奉祀するようになっていた。

 招魂祭は当時、8月16日に行われていた。上富良野神社境内にある忠魂碑での慰霊祭が中心であるが、祭事のあとに数多くの余興が催されて人気、人出を集め上富良野神社の例大祭と並ぶ、町内での大きな祭典となっており、8月は上富良野町の祭シーズン≠ナあった。

 34年の場合、慰霊祭の後に上富良野中学校・自衛隊音楽隊の行進と野外演奏会、民謡と舞踊大会、相撲大会、柔道・剣道・銃剣術の武道大会、それに33年から始められた社会人野球チームの交流試合があり、この年は三井芦別鉱業所、旭川鉄道管理局、旭川協会の3チームが招待されていた。日本劇場前の通りには多数の露店も立ち並んでいた。

 しかしながら、39年から7月1日に例祭日が変更となった。変更の理由は従来の8月16日は農家の繁忙期に当たっており、また家のお盆行事とも重なり遺族の出席もよくないということであった。そうした声は既に36年中から指摘されており(『上富週報』昭36・8・18)、39年にいたって変更が実施されたのであった。

 招魂祭の実施、運営は招魂祭協賛会が行っていた。35年の場合、招魂祭協賛会長、副会長のもとに庶務、式典、祭事、接待、余興、会計の係が設けられている。39年には救護の係が置かれ、会長に中西覚蔵、副会長に山本逸太郎、一色正三が選ばれていた。

 39年の音楽パレードは上富良野中学校のブラスバンドを先頭に、上富良野小学校と東中小学校の鼓笛隊、東中中学校の女子鼓笛隊、自衛隊音楽隊が続き、「本町はじまって以来の賑かさ」であり、おおいに人目をひいたという(『上富週報』昭39・7・3)。

 40年から連合青年団でも奉納行事として体育大会を開くようになっていた。

 

 写真 招魂祭

 写真 招魂祭音楽行進(昭和34年)

  ※ いずれも掲載省略

 

 丸一山の稲荷神社

 町内や十勝岳連峰を一望する景勝の地丸一山には、31年5月1日に佐藤敬太郎、一色正三、笠原重郎などにより丸一山公園期成会がつくられ、公園化が図られることになった。丸一山の公園化には自衛隊も協力して歩道も布設され、農協がツツジを植栽するなどして公園整備が進められ、天理教上富良野支部でも33年から笹刈り、清掃などの奉仕活動を行ない、次第に町民の憩いの公園となっていった。その丸一山に正一位上富良野稲荷神社が移されることとなる。

 稲荷神社は、「大正の初期、七町内の牛馬商近藤政房が氏神として祀ったのが起源」とされているが(『上富良野町郷土誌』)、もと亜麻会社守護神であり七町内の近藤宅に鎮座していた。稲荷神社は35年に、佐藤敬太郎が上富良野稲荷神社奉賛会長となり、有志の寄付を募って丸一山へ遷座することとなった。拝殿と本殿が完成し、7月16日に遷宮祭が行われた。遷宮パレードと女性による樽御輿が町を練り歩き、余興として餅まき、子供相撲、手踊り、富良野沿線民謡競演会、野外映画などが行われた。

 10月23日に秋祭りの豊穣感謝祈念祭、37年から5月の春祭り、9月の秋祭りが行われるようになった。そして37年6月の総代会にて例大祭を7月1日に決定し、例大祭が実施されるようになる。総代会には区長、町内会長、商工会、料飲店組合の代表が参加し、総代会長に佐藤敬太郎、副会長に村上国二、菅野豊治、総代に山本逸太郎、金子全一、鹿間富二が選ばれていた。

 

 地区神社

 戦後期の町内における地区神社の動向をうかがってみると、まず東中神社では28年に31万9,265円の費用で本殿を新築している。9月2日に上棟式を行い、同時に渡り廊下の土台上げも行われた。42年には参道を整備している(『東中地区開拓誌』)。東中神社には39年12月に倍本にあった熊野神社が合祀された。あわせて社殿も移設されたが、この社殿はもと東中小学校の奉安殿であり、大正4年9月に建設されたものであった(旧社殿は48年6月15日に町指定文化財に指定となる)。

 その他の地区神社では、旭野の半鐘山にある八幡神社は33年に半鐘山下へ移設され、東中の金比羅神社は38年に社殿が造営されていた。

 

 写真 東中金比羅神社

  ※ 掲載省略