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6章 戦後の上富良野 第9節 戦後の町民文化

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2、新たな文化の発祥

 

 さまざまな邦楽

 昭和20年代から30年代にかけて、上富良野ではさまざまな邦楽の愛好が進んだ。

 昭和28年には千秋薫を会長とする「上富良野民謡愛好会」が結成された。同会は美瑛町の中川作太郎を講師に迎え、旭川に本部をおく中部北海道追分民謡連盟に加入し、他市町村との交流をはかった。

 3年後の昭和31年には中部北海道追分民謡争奪戦大会に出場し、追分の部、民謡の部ともに1位を占め、総合1位の成績をおさめ、しかもその後6年連続優勝という快挙をなし遂げた。また町の盆踊り、祭礼などに参加し、町内での活動も目立っている。

 ちなみに昭和42年には、民謡会の伴奏として活動していた葛本武志が「三絃孝真会」を発会した。

 一方昭和34年に赴任してきた自衛隊上富良野駐屯地警務隊長の国分勤次郎は、余暇を割いて隊員に詩吟の普及に努め、35年8月24日には青年研修所で第1回発表会が行われた。そのためこの時の参加者は自衛隊員が大半であったが、これをきっかけとして昭和36年10月「国風流詩吟吟舞会上富良野支部」が発足し、初代支部長に加藤清が就任した。またその後は毎年大会や温習会に参加する一方、会員も自衛隊員から一般の主婦が主体となっていった。

 昭和35年4月には「都山流尺八同好会」が発足した。また昭和28年から箏曲の教授を行っていた滝本ミヨ子が昭和35年に旭川市へ移住すると、同年9月には永山に居住する大塚美保子(雅州)により「生田流正派大塚社中」が誕生した。

 また昭和37年5月には松本紘子(雅絋)が琴の弟子をとり、それを契機に昭和39年「箏曲まさひろ会」が創設された(『文化の歩み』、上富良野町文化連盟『創立20周年記念誌』)。

 

 写真 箏曲の発表会

  ※ 掲載省略

 

 菊花盆栽愛好会

 昭和30年、二口正次郎を会長として「上富良野菊花盆栽愛好会」が発足した。同会は自然を愛し、豊かな心を培うことを目標に結成され、二口正次郎のほか、畠山司、丸藤正、菅原敏らが中心となっていた。翌31年には第1回菊花展を上富良野中学校学校祭にあわせて展示し、会員も10数名となった。

 その後は中富良野町や芦別市の菊花会とも技術交流や親睦をはかり、講習会などにも積極的に参加した。34年には旭川市が主催する北海道中央・北部総合菊花展に出品し、数点が入賞した(『文化の歩み』)。

 

 写真 上富良野での菊花展

  ※ 掲載省略

 

 囲碁のはじまり

 囲碁は大正年間から愛好者の間で行われていたが、昭和30年頃には天狗会と称する団体が富良野線沿線大会を開催し、34年頃には信金の階上でも大会が行われた。

 一方、昭和39年2月28日には「日本棋院上富良野支部」が結成され、本間庄吉が会長となった。会員は31名で有段者も13名ほどいたという。ちなみに天狗会はその後自然消滅したという(『文化の歩み』)。

 

 新聞の創刊

 戦前、上富良野には地元の新聞社がなかったが、戦後は昭和25年9月に岩田悌四郎を主幹とする『上富良野新聞』が創刊された。また31年12月には会田久左ヱ門を主幹とする旬刊新聞『あゆみ』が発行されたが、『上富良野新聞』が33年3月25日243号をもって廃刊となり、同年4月にはこれら2つの新聞を合併して『上富週報』が発行された。ちなみに『あゆみ』は合併までに71号を発行した。

 『上富週報』の編集人は会田久左ヱ門で、自らが経営する上富印刷所を発行所とし、毎週金曜日に発行され購読料は1部10円であった。ただし確認できる現存紙面は昭和38年1月1日のものまでであり、いつまで発行されていたかはいまのところ不明である。

 また昭和40年10月8日には上富良野新聞社が創設され、創刊号を発行した。初代社長は和田松ヱ門で宮野孫三郎を主幹としていた。

 

 劇場の落成

 上富良野では戦前いくつかの劇場の盛衰があったが、終戦直前には「上富良野劇場」があった。その後昭和25年12月25日、中町1丁目に「日本劇場」が落成し、営業を開始した。同劇場は伊藤七郎右衛門を資金提供者とし、穴田裕二が社長、山田由郎を支配人としていたが、後に宇佐見利治が経営することになった(『上富良野町史』。)一方、昭和38年には「上富良野劇場」が閉館している。

 

 写真 日本劇場の会館記念

  ※ 掲載省略

 

 歴史の保存

 敗戦後、人々は戦前の軍国主義的、国家主義的な価値観を否定され、生きる指針を失った。そんななか戦後の混乱から再び立ち上がり、復興に取り組もうとするときに上富良野の人々に見直されたのが、「開拓の歴史」や「泥流災害からの復興」であった。昭和21年4月12日には開拓の発祥を記念して「憩の楡」の碑が建立され、24年6月には吉田貞次郎の「頌徳碑」が上富良野神社の境内に建立された。29年6月29日には「岡本三男の碑」が十勝岳中腹の泥流地帯に建立されている。また昭和30年6月12日には「沼崎重平翁彰徳碑」が美馬牛駅前に建立され、翌31年11月10日には江花・山形団体開拓50周年記念の「開拓記念碑」が建立された。

 このような「歴史の保存」事業は、「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代にも行われ、昭和35年9月には旧上富良野村役場庭内の松が「いしずえの松」として、町の保存木に指定された。この松は初代戸長の松下高道が役場前に植えたといわれ、上富良野町最古の植樹であった(『広報かみふらの』第26号、昭和35・11)。また37年6月15日には「憩の楡跡記念碑」が草分青年団の手によって建立され、39年9月にも江花地区の開拓60周年を記念して「開拓碑」が建立された。

 

 町史の編纂

 昭和42年に上富良野は「開基七〇周年」をむかえ、その記念事業として式典が開催され、大正8年から48年間使用した役場庁舎が新築された。また70年間の歴史をまとめた『上富良野町史』の編纂が行われた。

 『上富良野町史』は、上富良野で編纂された初めての本格的な町史で、執筆者は中富良野町に在住し、『中富良野町史』や『南富良野町史』を手がけた岸本勇(翆月)であった。

 内容は、自然環境から先史、原史時代、拓殖以前の状況や殖民地の選定や区画の設定、開拓のはじまりから明治、大正、昭和にかけての上富良野の政治、行財政、産業、司法・治安、消防、土木、保健・衛生、宗教、教育、文化、社会、十勝岳噴火など全領域を網羅したものとなっている。編纂作業は昭和36年より開始され、編纂にあたっては町の古老から郷土の資料を集め、旭川市や芦別市、歌志内市などの周辺市町村の資料を幅広く収集した。発刊されたのは昭和42年8月15日のことである。また「開基七〇周年」をきっかけに、開拓に関する資料や町史につながる史跡の存在が年々散逸していく現状を憂い、教育委員会が主催して郷土の歴史的文化財を保存する動きもでてきた(『町報かみふらの』第99号、昭42・6)。

 ちなみに同年8月10日には日刊富良野新聞社編『上富良野開基70周年記念写真集』も発行されている。

 

 写真 昭和42年刊行の上富良野町史

  ※ 掲載省略