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6章 戦後の上富良野 第8節 戦後復興と生活

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3、生活の充実へ

 

 新生活の試み

 24年、経済安定九原則(ドッジライン)が発せられ、1ドル360円の為替レート実施によって、戦後経済が回復のきざしを見せはじめた。生活基盤に目を向ける余裕をもたらし、地域の念願の課題であった飲料水や治水工事、電化とともに共同放送(ラジオ)の拡充によって、地域の生活改善運動の推進とともに、目に見えて生活の質が向上し、また便利さを求めるようになった。

 生活改善は、戦後の混乱期に秩序を取り戻す役割と、日本に新しい文化を育てる役割をもっていた。ただ、生活改善の取り組みは、戦後だけではなく大正9年にも、政府文部省などが推進したものであった。戦後の生活改善は、上富良野の『昭和二十四年事務報告』によれば、同年6月の社会教育法公布により、強力に叫ばれている生活改善を実践するために、全村加入による上富良野村生活改善同盟が発足した。生活改善同盟と称した組織は、生活改善が盛んな他地域に、今のところ見当たらない。

 生活改善の提唱は活発で、衛生的、合理的な生活に改善するための住宅改善、北海道に適した寒地住宅の研究と普及は熱心で、ペチカ、オンドル、小型ペチカ、改良ストーブなどが推奨された。

 上富良野でも28年2月には役場で北海道燃料経済研究所所長が「農村寒地住宅の改善」について講演し普及に努め(『上富良野新聞』昭28・3・11)、改良かまどが28基築造された。29年度は北海道共済農業協同組合の奨励する農村モデル住宅(ブロック造り、30坪)1棟が建てられた(『昭和二十九年度事務報告』)。

 一方、暮らし方を冠婚葬祭の簡素化、農休日の採用など新生活運動として提唱される部分とも重なり生活の改善は、多岐にわたった。冠婚葬祭の催しのなかで、34年には、結婚式の公民館利用が活発で22件(市街地区9、10集落11)、職業別では公務員10、農業8、商業会社員各2名が行なった。参席した人数1,420名、1回平均64人で清富では3組の合同結婚式が行なわれた。こうした新生活運動の結婚式は46年の公民館の新築、農村地区の生活改善普及もあって、50年年代後半まで公民館、農協が活用された。

 また、生活改善の運動とは異なるものの、政府主導による、新しい生活時間帯として、夏季に生活サイクルを1時間早めたサマータイムが23年4月から実施された。しかし、生活に混乱をきたして、不評のなか27年に廃止された。

 21年の日本国憲法の公布により、家族のありようも変化し、個人の尊重と戸籍法の大改革が行なわれた。三代戸籍(親、子、孫)の世帯は、子と孫の戸籍を新しく作る期限が迫り、「戸籍の改製」を促した。上富良野に移住時から継続した戸籍は、大家族から、親子単位の世帯に変わっていった。家族のあり方について、34年には家族常会を開き、家族の中で、働く者全員による話し合いの場を大切にする家庭の民主化を提唱、36年頃は家族会議と言い替えて、より進んだテーマや、生活設計も家族ぐるみの話題とするように『広報かみふらの』(100号まで『町報かみふらの』)などを通して推奨された。

 

 飲料水と電気事業

 飲料水は、上富良野へ移住するやいなや、その確保が住まいとともに重要であった。明治32年に島津農場が開場した時には、富良野川の流域は土地もいいし、飲み水にも困らない、と判断して入植したものの、飲料水に適さないことが分かった(海江田武信談「古老のテープ」昭54)。また、日新地区の佐川団体で生活してきた佐川亀蔵(明治41年生まれ)は、大正4、5年頃までは水に不自由しなかったが、開墾が進み木を切り、畠が出来るようになると大正12年頃から、水枯れが進み戸数も減ったと語っている(『町報かみふらの』第38号昭36年、『かみふ物語』)。大正9年から山本木工場社宅で生活した成田くに(明治36年生まれ)によれば、駅付近の湧水を飲み水に、島津用水を洗い物に使用した。その後、大きな桶の底にシュロ、木炭、荒むしろ、川砂をいれた「こし桶」に汲み上げた水を通して飲料水とした。水質は酸性が強く、製麻工場も操業が続かないほどであった(『かみふ物語』)。

 こうした飲料水の安定的な供給は、保健衛生面からも行政が注意を払っていたが、水道事業の開始を待たねばならなかった。水の運搬に馬が橇を曳いた土車や、天秤を用いたり、戦後になって発動機による揚水、そして昭和36年9月21日、無動力自動揚水機を導入して、4d水槽タンクから自然流下による給水で無水地区を解消。かつて23年に水道設置の要望が高まり、32年に上水道建設期成会を創設し、翌年上富良野上水道利用組合に改組、38年に日の出水道組合設立。47年末に市街地の上水道完成をみた(『郷土をさぐる』第7号)。また、日新ダムが起工(41年)され、十勝岳爆発以来、川水の酸性度が増し、水稲の生育に甚大な被害を与えていたことを解消することになった。

 次に電気にふれたい。市街地に電灯が灯ったのは大正9年。富士電気株式会社が火力から水力へ切り替え、富良野から中富良野、上富良野市街に幹線を延ばした時点からであった。したがって、農村の電化はなかなか日程に上らず、戦争終結後に、各集落の結束を見出だしながら、それぞれ独自の粘り強い取り組みが農村電化を実現することになる(『上富良野町史』)。23年には、上富良野村変電所が10月に竣工、12件の農村電化申請ののうち江花、草分、日の出など127戸が許可(『昭和二十四年事務報告』)。

 昭和23年に清富に戻ってきた竹内正夫(大正10年生まれ)が、直面した上富良野の電力事情は、「電灯はローソク送電でランプ位の明るさ、町の種々の工場も十分仕事はできて居らず、精米とか製粉も自分の家でついたり、清富の部落等は各戸といえる程小川の水に水車を架けギッタン、バッタンと麦、稲藁をつき、夜はその水車で自動車のダイナモーを廻して電灯をつけていた」状態だった。そこで、大きな水力施設を備えることによって、動力と電灯に役立ち、経済効果も期待されるのだが、地域で理解を得るのには並大抵ではなかった。24年1月清富水力発電組合(会長原田武夫)を結成し、水利権申請、設置許可、設備機械の注文などに取り掛かった。点灯式は25年5月25日、各家庭に電灯がつくと、「60ワット白熱灯が眩しい」、「山の中で街灯など勿体ない」といわれたものだった。以後11年にわたり自家用小水力発電(受電式)を続け、35年に北海道電力(株)へ施設を譲渡、上富良野一円とともに北海道電力(株)から電気の供給を受けることになった(『郷土をさぐる』第7、8号)。

 

 地域づくり

 20年8月15日の敗戦以後、地域づくりは、銃後を支えていた地域の規範であった、お国のための意識から、民主化の精神を反映したものに変わった。町内会役員は選挙で選出され、会長ではなく世記人と称したが、担当者は戦前、戦後とそう変わらぬ人物であった。第三町内会(現錦町地区)『議事録』によると、地域で生活物資の切符を扱う経済係、衛生面を担当する健民係など、その繁忙ぶりがうかがえるが、生活関連事項が多いなかで、役員など男性がほとんどで、女性の氏名は1、2名に過ぎない。20年は空白ながらも、翌年から町内活動を開始した。簡単にその推移をみたい。

 

  21年度・・3月6日役員に会長(遠藤藤吉)のほか総務、経済、納税、警防、健民、統計部長を選出し、常会、町内対抗野球大会などの活動を開始。

  22年度・・3月町内会長を公選により選出、援護・祭典の係増。5月町内対抗運動会。5月末、「内務省令」により町内会解散、再組織とし、名称は同じ。常会長は村役場出張所駐在員、役員は前任者。新年宴会、町内会年会費100円(40戸)に決定。

  23年度・・会長を廃し世話人、副世話人とし、警防を防災係に、電灯係の新設。

  24年度・・町内大火(見舞い金品募集)

  25年度・・経済部長の報労金は任務が比較的軽くなり、前年度より減少。7月富良野川清掃に全員参加、町制施行反対。3月衛生班員1名、衛生連絡員4名、災害救助隊長など新設、健民部長は衛生を兼務。

  27年度・・町内会備品(膳、椀)の更新、町内会月会費20円に、香典、饒別を定む。固定資産補助員をおく。街頭の装飾話題に。

  30年度・・街頭の装飾に協力を。納税組合設立を決議

  33年度・・連合町内会総会。8月、水道新設に意見一致、1戸1万5千円

  35年度・・塵芥処理の件、納税組合の奨励金の件

  36年度・・行政区設置、区長選出。連合町内会を廃し、連合区長会結成。

  37年度・・役員(世話人兼国民年金推進委員、副会長、各班長、祭典係、統計係、固定資産調査係、散水係、防犯係)選出。6月三町内親睦1泊温泉旅行

  38年度・・鈴蘭灯を水銀灯に改修、街灯増設

 

 34年の上富良野の住民組織は合計144(市街地・町内会38 農事組合106)、環境衛生面から薬剤の散布、ゴミ箱消毒を進めるのに効果を発揮していた。35年から各学校区単位で町政懇談会を開催。36年には青少年問題協議会が中心となって結成した子供会は、行政区と連携を図り、小学生、中学生、高校生を会員に、地域ぐるみ運動を展開、すべての児童の福祉の増進と健全育成を目的として活動した。青少年は、家庭の太陽であり、社会の宝であった。

 同36年7月15日「愛の鐘」が役場の屋上に設置され、朝6時、夕方5時、夜9時のなる鐘の音に、親は子を思い、子は親を思う心を託した。中央婦人会が中心に、建設委員会がつくられた。女性たちの活躍はこの頃から、活発化する。

 町では、41年に市街地区の婦人会への全戸加入を呼びかけた。翌42年11月21日に連合婦人会が地方自治法20周年事業の「一日町長」に参加、一日町長に赤川トイ、一日助役に田中喜代子のほか一日課長では総務課長服部千枝、企画室長細川フジ子、建設課長三島笑子、産業課長奥野千枝、民生課長加藤千夜子、税務課長千田ミユキを配し、模擬決裁や公共施設視察を行なった。

 また、41年11月22日、町民憲章の必要性を訴えていた町長は開基70周年を機に起草委員会をつくり、町民のアンケートを実施して「みんなでつくろう。みんなの約束」を合い言葉とした。

 

   上富良野町民憲章

   わたしたちは、雄峰十勝岳のふもと、富良野平原の母なる地、上富良野町民であることに誇りをもち、この憲章をかゝげて先人の偉業を継ぎ、明るく豊かな郷土をつくることにつとめましょう。

   一、正しい心と健やかな体で、希望に生きましょう。

   一、いたわりあって、楽しい家庭をつくりましょう。

   一、きまりを守り、明るい社会をつくりましょう。

   一、文化を高め、豊かな郷土をつくりましょう。

   一、勤労をよろこび、自然の恵みに感謝しましょう。

 

 なお、戦後復興期の地域づくりに、26年頃から始まった警察予備隊の演習場の用地買収に伴い、汗水たらした農地を手放した人々の思いも忘れられない。藤井農場跡地に自衛隊弾薬庫が敷設されるなどのため、立退いた藤井農場の古老たちの集いが58年頃まで続けられた(井内大吉「少青年時代を過ごした故郷の変遷」『郷土をさぐる』第2号)。

 

 農協婦人部と生活改善

 さて、女性たちは、戦前の大日本婦人会上富良野支部(17年約2,100名)を敗戦直後に解散した後、どのように取り組んだのであろうか。各地域の婦人会は、21年1月の日新婦人会を皮切りに再編成された。23年1月に江幌婦人会、2月江花婦人会、3月草分婦人会、旭野婦人会、24年3月に清富婦人会が発足し、27年2月に東中婦人会、27年4月富原婦人会、29年4月日の出婦人会、9月島津婦人会と続いた(『上富良野町史』)。

 また農業協同組合(農協)の組織化は、23年に東中農協と上富良野農協が設立され、上富良野農協青年部(26年)、東中農協婦人部(28年部長西谷キミ部員350名)、上富良野農協婦人部(29年部長林下フサ部員796名)も近隣町村と同様にすすんだ。先の各地域の婦人会がそのまま移行する形で、経営の健全化を図り、ついで強化することが農民生活の安定である、と考えて上富良野農協婦人部は結成された(上富良野町農協婦人部『三十年のつどい』)。さらに32年7月、市街地の中央婦人会(25年発足後に休会、30年再発足)と8つの婦人会(農協婦人部)を結集して上富良野町連合婦人会(初代会長伊多波コト)ができた。

 全国的にみると、労働組合を中心に新生活運動が26年から開始され、農林省主催の第1回農村生活改善実績発表大会が28年に開催されるなど、家計簿、かまど、作業衣、栄養料理、台所改善、共同炊事などの推進と、経験交流が盛んであった。

 上富良野では農協婦人部の発足当時から、洗濯講習会、食生活の講習会、漬物コンクール、「家の光」家計簿の普及、羊毛の一元集荷、クミアイマーク愛用運動、野菜種子取りまとめ、家庭衛生綿共同購入、国の子寮や静和園の慰問、舞踏講習会、婦人部積立貯金、農協理事者との懇談会など、その後の取り組みの基本となった各事業に着手した。32年には全国農協婦人部推奨映画「荷車の歌」や、36年「開拓母の像」の作製資金に1人10円のカンパも実施、幅広い活動の一翼を担っていた。なかでも、41年の共同炊事の開始は富良野地区でも取り組みは早かった。37年に生活改良普及員として多胡(鈴木)千恵が配置され、食生活分野の生活改善が容易となっていた。

 共同炊事は、東中で田植や稲刈の時期に農協婦人部の役員を中心に、漬物などの持ち寄りによる昼食のみを行なった(松井みえ談平10・3)。社会教育主事が、珍しいことをしていると聞き訪問した折、ジャガ芋と肉の煮物をご馳走になったことがあったという。また、41年から3食ないし2食を自主的に継続した共同炊事が清富で行なわれた。清富(本流の沢)へ入植した一心生産組合(代表村上国夫)の8軒が共同経営とともに、炊事、物品購入、季節保育などを共同で実施。共同炊事は26年間にわたって行なわれ、生活改良普及員や保健婦らの協力が大きかった(村上君子談、平10・3)。

 

 くらしの変化

 上富良野の生活改善が推進され始めた昭和30年の6月から9月にかけて和田松ヱ門(道農民同盟委員長)が、ヨーロッパ諸国(イタリア・フランス・ドイツ・ソ連など)の農業視察で見たものは、日本の開拓事業とくらべて大きな差があり、各国とも悪条件を克服して、欧州全般では農民(農業労働者)住宅は全部レンガ造り、内部の文化設備を完備し、日本の中流以上の生活であった(『北海道新聞』昭30・9・14)。

 30年代に入ると、政府刊行の『経済白書』は「もはや戦後ではない」のキャッチフレーズを生み出し、経済は高度経済成長政策の道をばく進した。いわゆる神武景気と言われた頃、上富良野の町民の生活は自転車(1戸に1台)、電話(7.3戸に1台)、ラジオ(1.4戸に1台)、電灯(1世帯に7.2灯)、テレビ(223.9戸に1台)であった(昭和32年版『町勢要覧』)。

 34年の岩戸景気の頃、全国ではテレビの普及は50数lに達する。生活に関わる公的な基準の変化も著しい。ここで、上富良野における変化を『広報かみふらの』紙上にみたい。

 36年にメートル法が実施された。それまでの尺貫法から切り替えるために、5月に予備検査を済ませて計量器検査を、6月に2日間、青年研修所で行ない、以後毎年6月はハカリの検査を行なう時期となった。

 41年は7月1日から郵便制度が大きくかわった。定形郵便物(長さ12〜23.50a、幅7〜12a・厚さ1a・重さ50c)、引き受けと配達のときだけ記録扱いをする簡易書留の制度を新設、普通ハガキ7円の時代。また、郵便番号は43年に導入され、上富良野の郵便番号は071-05となり、平成10年改定まで続いた。

 手軽な交通手段として普及しはじめたバイク(原動機付自転車)は、自動車賠償責任保険の加入が義務づけられ、安全性が求められるようになった。

 また、40年代頃から、くらしの変化は多面的な、生活の楽しみの要素も加わってきた。41年8月には、東南アジア留学生(第十回アジア親善全国遊説団)を受け入れ、12ヵ国39人が来町、十勝岳に登り、農協ホールで交歓会、南区子供会主催の花火大会、子供盆踊り大会に参加、子供たち約300人とともに踊った。国民祝日「体育の日」が東京オリンピック(39年)を記念して制定され10月10日に上富良野では町民ハイキングみんなで歩こう会(公民館主催)を深山峠までの約5`を歩き、峠で写生会を開催するようになった。42年からは2月11日「建国記念の日」が国民祝日に加わっている。

 一方では女性たちの活動によって消費者活動も進められた。店頭に並ぶ商品の(小麦粉・茶菓子ジュース・りんご・日用食糧品16品目)の量目検査を中央婦人会15人が5班に分かれて調査。購入した60点のうち、量目超過13点(21.7l)、正確41点(68.03l)、ハカリの狂いによる量目不足6点(10l)。42年には農村集団電話施設の設置のため江幌・静修を皮切りに調査開始、役場新庁舎が落成し、住民係の窓口ではくらしに関わる、戸籍関係、住民登録、国民健康保険、国民年金、主食配給、選挙人名簿、各種証明、転校による入学届け、各種手数料の収納などが一元化された。町民室もつくられ、さまざまな苦情相談にも対応することをめざした。

 新しい祭りも始まった。31年から自衛隊営庭で雪祭が開始され、34年からは規模も大きくなって、沿線町村から約5千人が訪れ、自衛隊の大食堂で、地元有志による舞踏などの演芸発表会も行なわれた。39年からは噴火口まつり(町、十勝岳観光協会主催)が十勝岳で開かれた。42年6月10、11日には一般参加者のために臨時便を運行し、10日前夜祭には近文アイヌ15名による火まつりなどもあった。

 

 写真 町民ハイキングみんなで歩こう会

  ※ 掲載省略