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6章 戦後の上富良野 第8節 戦後復興と生活

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1、戦後復興

 

 敗戦

 昭和20年8月15日は、昭和6年の柳条溝爆破事件(満州事変)をきっかけに全面戦争に入った15年間に、日本軍220万人、空襲など非戦闘員100万人そして日本の侵略したアジアでは約1,900万人にも達する死者を出して、日本が敗戦の決着をみた日であった。8月15日を、上富良野の人々はどのように生活をしていたのであろうか。特集「私の終戦日」(『郷土をさぐる』第12、13号)などから記したい。

 まず、戦争勝利を信じて、軍用道路の作業を続行していた国民義勇隊である。8月15日は、澄みきった青い空に雲一つない快晴のもと、上富良野村国民義勇隊山部隊(隊長佐藤敬太郎)は東中で、上富良野から十勝へぬける道々旭中線の工事のため、軍手もはかず、間に合わせのズックの短靴や長靴にゲートルを巻き、砂利道の路面直し・拡幅・側溝掘りなどに励んでいた。10時頃に、伝達で正午に重大放送があることを知らされた。隊員たちは、麦と大豆が混じり、梅干しが入ったくらいの日の丸弁当を早めに食ベながら、動揺とともに疑心暗鬼で『やっはり敗けたんだ』『いや最後の本土決戦を決めたんだ』『一億玉砕、火の玉となって戦いを鼓舞するんだ』と話しながら、天皇の御真影が安置されている奉安殿に拝礼して、上富良野小学校の屋内運動場に到着した。

 放送の直前には約100名が集まり、皇居遙拝を終えると、役場のサイレンが鳴った。降伏を告げる天皇による放送は、よく理解出来ないながらも『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、大政を開かんとす』は耳に入った。一瞬の沈黙の後、『敗けたんだ』『本土決戦だ』と言葉が飛び交うなか、人々は蜘蛛の子を散らすように帰宅した。役場では、『戦争が終わったことは確かだ。放けて降伏したのかどうか、終わってどうなるのか、これからの指示を待つことになる。慎重な行動をとるように』と職員に伝えられた。16歳の青年、久保栄司(昭和4年生まれ)の8月15日の1日であった。

 また、出征した男たちはどのような状態にあったであろうか。

 道内の琴似軍衛生材料支廠(札幌)にいた浦島秀雄(大正5年生まれ)は、東京の本廠からつぎつぎと送られてくる大量の薬物の補給業務に追われ、一息ついた14日に「重大なお言葉」があることを知らされた。

 埼玉県の東京第二造兵廠大宮工場に勤務していた山岡寛(大正7年生まれ)は、兵器の製造をしようにも資材が不足し、「敵、広島に新型爆弾」の新聞記事を読んで、言い様のない恐怖感を抱くなかで放送を聞いた。宮城県の松島航空隊に、飛行機整備助手として郡山海軍航空隊から転属した向山安治(大正12年生まれ)は、すでに実戦可能な機体はなく、同隊がグラマン機から炸裂弾の雨のような爆撃をうけて全壊するのを目撃、同僚が犠牲となった。

 そして、戦地の朝鮮で戦闘態勢に入り、独立挺身大隊員として夜間行軍を続けていた水谷甚四郎(大正2年生まれ)は、戦意の高まったところで、『下山せよ』の命令が出されても終戦を知らず、幹部たちが日本刀や拳銃を、惜しげもなく投げ捨てるのに出会って初めて、戦争がすでに終了していたことを知った。

 一方、留守家庭の女性や子どもたちの暮らしそのものが、銃後を支えていた。

 富良野の病院まで舅の薬を受け取りに行った岡和田広子(大正12年生まれ)は、切符の入手困難な汽車に乗るのを待てずに、必死で自転車のペダルを踏んだ。

 農村とはいえ食糧不足は、遠足へ出かけた子どもたちのおやつにも現われていた。田中喜代子(大正12年生まれ)にとっては、援農で引率した小学4年生以上の子どもらが、塩ゆでや妙って醤油をかけた大豆をもらって大喜びをした姿を忘れられない。

 清富の小学生であった原田清(昭和8年生まれ)が8月15日に、遠藤金吾校長の最後の言葉として記憶に残っているのは、「新しい日本の国の建設はお前達の肩に懸かっているのだから、一生懸命勉強して新しい良い日本の国を造らなければならない」であった。

 

 強制買い出し

 敗戦と同時に、退役軍人、引揚者など失業者が増加する一方で、その暮らし振りは、UP通信社長が日本の現状は「どん底の国民生活」で食物があるとなると、ひしめき合っている強制収容所のようであると、全米に放送したほどであった(『北海道新聞』昭20・11・8)。日本国民は、生産物資のほとんどが戦争に投入され疲れ果てていたが、上富良野でも復興のため、食糧の増産に努力を注ぎはじめた(昭和20年「事務報告」)。

 ところが、20年は、低温続きで9月の気温回復も間に合わず10月には凶作年と確定した。『北海道新聞』(昭20・11・10)の社説は、戦後日本がなすべき事として、国民自身が生産、供出、配給消費を計画的に進める食糧危機打開の国民運動を提唱し、「都会人と農民との間の感情的対立」を放置すると社会不安が生まれる畏れのあること、闇買い、買出しを規制しなければ食糧事情を一層困難ならしめると警告した。また、11月15日の戦後初の道議会で、長官は所信表明の第一番目に食糧確保を取り上げてもいた。

 しかし、食糧危機の事態は政策よりも先行して、飢餓状態の札幌など都市部から農村部への買出しを取締ることは、酷な状況にあった。食糧危機は農村部の富良野沿線へ、炭礦地帯(芦別・赤平・茂尻など)から大挙して押し寄せる「強制買い出し」となって、人々を脅かした。農業倉庫、澱粉工場へ押し掛けて、各自が思い思いの金額を支払って、現品引渡しを要求するもの、また強引に持去るものもいた。11月14日朝には各駅に上富良野へ70名、中富良野に300名、美瑛に1,300名が下車した。農村側では警防団、自警団などを繰り出し警戒にあたり、旭川警察署からトラックに60名の武装警官隊が出動し、美瑛で取締りにあたった(『北海道新聞』昭20・11・15)。

 食糧確保の止むに止まれぬ状況とはいえ、生産物の強制的な買出しを受けた富良野沿線の農家にとっては、食糧を供出する寸前に奪い取られたという意識であった。また、買出しの隊長格であった三井芦別鉱業所の労働者が語るには、8人家族で澱粉50`の配当に対して、実際には30`程度しか当たらず、それは中国人・朝鮮人労働者への配当分と比べて「天地の差」があり、日本人の当たり分が抑えられて入坑できないほど食糧危機は窮迫した状熊にあった(『北海道新聞』昭20・11・16)。

 16日に至り強制買い出しは、ようやく下火になりながらも、上富良野など沿線に500名ほどが押し寄せた。判明した澱粉の横流れの被害は、上富良野520袋、中富良野1,200袋、美瑛2,000袋であった(『北海道新聞』昭20・11・17)。富良野町では11月末に、強制買出しに反対する町民大会が開かれた。

 

 食糧増産

 農村部上富良野は、都市部に比較して、食糧があると思われていた。事実、生産地としての優位さから、村民自身の食糧を賄う自己防衛策が可能であった。また、20年は凶作であったけれども幸いなことに、畑作では平年作を獲得し、供出することが出来た(昭和20年「事務報告」)。

 しかし、生産力が低下していたことは上富良野とて、他町村と同じで、戦後の食べ物の苦労や工夫をしないで過ごした村民は、いないに等しかった。たとえば、静修地区の増山トシ子(大正11年生まれ)の回想によると、川に水車を作り、トウキビを挽いてお粥にしたり、家畜用の人参を味噌汁や漬物、おやつに生で食べたという。また、義弟が復員した21年3月は米もなく、2升の米をもらってお粥にしたほどであった。その頃、近くの澱粉工場には、澱粉粕と着物などを交換する「街」の人々が行列をなしていた(『かみふらの女性史』)。

 そして、栄養源を確保するために、家の回りに綿羊や鶏など家畜を養い、たんばく源とする一方で、牛乳、卵、肉や毛皮、毛糸などは換金性があり、家計にも役立った。戦後25年までの家畜などの傾向は、馬・牛ともに若干の減少をみたが、豚は3分の1に激減。綿羊は1割強の増加で、毛糸をとり、セーターなど手編みが可能なホームスパンの普及となった。山羊は乳をとり、兎は子どもたちの愛玩動物というよりも毛皮として売った。鶏は、村民の数を上回るほど普及され、各家庭では産み落とす卵が楽しみであった。ほかに、アヒルや七面鳥、チャボなども飼育され、養蜂も行なわれた。

 

 食糧危機と供出

 一方、全国的な食糧危機は、凶作の翌年21年には深刻な事態となることは明らかとなり、農林省は21年1月に米の供出不振を打開するために食糧の管理強化を強め、2月には食糧緊急措置令を発して即日、強権発動が実施された。そして、食糧調整委員会が各自治体に構成されて、供出割り当てなど、主要食糧の需給調整にあたり、1人あたりの米や麦の携行を2s以内とするなど、農家は飯米を差し引いて米を全量供出することになった。しかし、5月には、食糧メーデーが実施されるなど、食糧の遅配が続出した。

 北海道は全国一の食糧難で、道内消費地の食糧遅配は、同年7月末で平均60日以上となった(『新北海道史』)。供出に対する強権発動の実施後、1年が過ぎても大都会では20日間の遅配は免れない状況で、配給だけの生活水準では成年軽労働者でも2,000iから2,400iが必要なところ、やっと1,100iをまかなうに過ぎなかった(『朝日新聞』昭22・7・3)。

 さて、供出する側からみてみると、上川管内の産米の供出は予想外に進捗せず、21年12月末で21年度の目標の50lに達したところであった。上富良野の状況は種籾・粳米・玄米を合わせた供出量は2万2,067俵、供出の割当てに対して約51lと平均的拠出量であった(『北海日日新聞』昭22・1・6)。22年12月末では上川管内米雑穀総合で97.9lの成績で、雑穀地帯の上富良野は美瑛、富良野と競って供出した(『北海日日新聞』昭22・12・30)。

 また、23年には主要食糧、米101l・麦類102l・馬鈴薯114l・雑穀112l、総合的には108.4lと目標を超える成績で、翌24年は全体として23年を上回る供出をした(昭和23、24年「事務報告」)。

 ところで供出の強権発動には供出推進を図るため供出農家への確配(肥料・農機具)や、道独自の報償制度による特配(酒・たばこ・ゴム長靴・自転車タイヤなど生活必需物資)を徹底した。

 上富良野でも、馬具、糸、靴などの特配を受けた農家は営農にも大いに助かったものであった。こうした報奨の制度に加えて、供出優秀な支庁や、実行組合や個人に対してもリヤカーや自転車を与えた(『朝日新聞』北海道版昭22・12・10)。

 また、マスコミによる供出関連の報道も盛んで、供出米を出していない村名を掲載することもあった。興味深いのは、富良野沿線調査をもとにした記者による、主要食糧の供出についての紙上座談会の連載である。上富良野など比較的成績が良い部類に入る組織の強力な所は、「社会連帯責任感」に目覚めており、簡単に横流しをして、米を肥料や着物と物々交換するようなことはない、と評している(『北海日日新聞』昭22・3・5)。

 

 写真 米穀類購入通帳

  ※ 掲載省略

 

 職業構成

 ここで、戦後復興を担った上富良野における職業構成をみてみよう。

 戦後の20年11月1日人口調査によると、1万2,484人(男6,003・女6,484)、世帯数2,006戸であった。また、同年12月末の国民登録による産業別申告者では、申告者5,887人で、農業者は約40lを占めていた。無業者の計が合わないが、そのまま掲載した(表6−41)。1世帯における就労者数を概算すると、人口調査による世帯数約2,000と、申告者総数約6,000から、約3人の働きで1世帯を賄っていたことになる(昭和20年『事務報告』)。

 次に、27年の業態別の就労人口を、同年10月の「地域支給地域に関する請願書」(26年『陳情書綴』)から引用すると、農業(5,145)・製造(235)・サービス(274)・運輸通信(144)・建設(103)・商業(257)・公務(171)・他(36)・無職(7,074)・金融保険(49)を合計すると1万3,488名であった。先の20年と27年の統計を比較すると、農業者は全人口の約40lで20年当時と変わらない。大きな変化は統制経済の解除を反映して商業が3倍に増加、サービス業も商業とほぼ同数に達し、職業の幅が広くなってきたことがうかがえる。金融保険も経済活動の活発化を反映した。

 なお、28年度農業基本調査によると、農家戸数は1538戸で、83lが専業農家(1,277戸)、第一種兼業(151戸)、二種兼業(110戸)である。家族の人数は4〜9人家族が74lを占め、3人以下は188戸。農業は親子の世帯と、二世代世帯で家業を継いでいたといえる。この構成は、30年代の高度成長の到来まで続く。

 

 表6−41 国民登録による産業別申告者(20年12月末)

 

農林業

学生生徒

鉱業

運輸業

工業

商業

公務他

無業

申告合計

2,389

64

1

137

210

60

157

192

3,110

2,437

63

 

39

45

29

85

79

2,777

4,826

127

1

176

255

89

242

171

5,887

   (昭和20年度「事務報告」)

 

 物資と物価

 戦後の逼迫した生活のあらわれは、食糧難と物価高騰であった。物価高騰によるインフレは、戦後1年間に通貨は2.5倍、物価は3.1倍、また20年9月から23年10月を比べると、通貨は6.4倍で戦前の昭和9年から11年の240倍、公定とヤミ価格を総合した実効価格は10.3倍と、うなぎ昇りの上昇であった(『朝日新聞』昭23・1・24)。

 生産力の低下のなかで、戦時の配給制度が崩れると、北海道にはなかなか物資は回ってこなくなり、物価高に拍車がかかり、いわゆるヤミ値が横行した。旭川では、敗戦時米1升35円であったのが、21年2月には60円から75円に上昇、旭川商工会議所統計によると、小売物価指数は15年を100とすると、21年8月は834を示した。政府も、米価の「大幅引き上げ」を行い、石(150`)当り92円50銭から、150円に決定した。だが、ヤミ値では1俵(60`)1,000円であった(『北海道新聞』上川版昭53・6・2)。22年10月からの新衣料切符による配給制度が復活し、生活必需品も統制下におかれた。

 24年4月から公式為替レートが1ドル360円に設定されるにあたり、道商工会議所は輸出産業の受ける影響を調査し、上富良野の産業でもある木材業では、350円ならば、ナラ・インチ材・合板などは維持できるが、ベニヤチェストは1割減少で、経営の合理化が要求されると見込んでいた(『朝日新聞』昭24・2・12)。

 24年の上富良野全体をみると、日を追って生産が回復し、主食糧の配給も好転し、物価の状況も良くなったが、すさまじいインフレの進行で、「大衆の購買力は益々低下し、生活も相当深刻化」したと同年の『事務報告』は報告している。ここには、改正した配給事情が詳しいので、生活概況を知るために、一覧とした。

 

石炭

8月16日以降、配炭公団の機構改革により、民間販売業に移管

7月10日以降、配給酒(冠婚葬祭用及び報償用)以外は、自由販売

衣料

綿製品の国内放出量が増加、絹及び毛製品、スフ製品の統制解除

石けん

4月15日以降、小売店は登録制、毎月1人当り1個(予約制)

ゴム製品

10月3日以降、予約制度で購入

みそ、醤油

9月分から、購入切符を使用

 *生産資材(微量需要者用)・板ガラス、カーバイド、にかわ等、5品日の統制

 *主要食糧における加工承認の許可数

  製麺(2)、製麦(2)、製粉(4)、製米(1)、粉砕(1)、搾油(3)、豆腐製造(5)、膨張加工(1)

 

 ここで、上富良野の個人の家計状況を知るために、ある農家の農業経営簿の支出の推移を参考としたい。

 

 

収入

支出

※単位は四捨五入の千円、()の価格は1円未満を四捨五入した。

20年

 

1

(馬630円 リック30円 馬鉄18円 配給米30`9円)

21年

 

28

(馬鉄35〜80円砂糖20斤100円ストーブ450円)

22年

 

94

*馬31・馬橇18・春肥料4(馬鉄80円 染粉2円)

23年

 

372

*馬59・澱粉機9・綿羊6(馬鉄150〜200円)

24年

 

492

(農業支出1,500円 飲食800 円光熱費100円)

25年

306

518

肥料21(鰊3箱1,710円 米糠70円)

26年

823

454

除草機1台4(地下タビ290円 砂糖6斤305円)

27年

821

787

*種子飼料151(地下タビ310円 砂糖6斤204円)

28年

771

553

営農諸費318(新生タバコ30円 砂糖3斤228円)

29年

904

596

営農諸費279(新生タバコ40円 新聞代30円)

30年

892

1,105

*営農諸費669(地下タビ300円 ハガキ1枚5円)

 

 この農家経営薄は、戦前・戦後と数山勇(大正7年生まれ)が小遣い帳を始めとして記し、残された戦後の一部である。馬の価格でみると、20年9月1日は、樺太から復員した時に持ち帰った1,200円を、お金の値があまりにも変動するので「馬に替えた」。2歳馬1頭を630円で買ったが、翌年「譲って欲しい」という人に7,000円で譲った。その後馬1頭の購入価格は22年に3万1,000円、23年には6万円と急騰した。*印は家計の大きな変化の年で、20年は9〜12月までだが、21年以降は1年間である。

 なお、「地域支給地域に関する請願書」(昭和26年『陳情書綴』)に添付された「限定物価価格表」(昭和27年10月1日現在上富良野調べ、表6−42)による価格(円)をみると、足袋(婦人冬物)310円、いわし100匁(600c)30円の値は数山勇の記帳と合致する。ただ、上富良野の購入価格は、衣食住すべて旭川の問屋を通して入荷するので旭川の「市価に交通費を加算した1割高、2割高」であった。

 国民の生活水準は、25年度には戦前(昭和9年から11年の平均)に比べて、8割、農村部では9割を回復したと政府発表されるようになった(『日本経済新間』昭26・10・10)。やがて、28年からは、1円硬貨以下の補助貨幣が廃貨された。

 

 表6−42 上富良野の限定物価価格表(昭和27年10月1日現在調べ)

品名

精米

いわし

白菜

鶏卵

番茶

醤油

ゴム長靴

毛糸

種別

実白米

大麦(押)

4寸以上

結球

地玉

並品

上級

中級

手編中細

単位

1升

1升

100匁

100匁

1個

100匁

2g

1足

1ポンド

価格

140

80

30

30

12

150

140

1,080

2,250

   (「地域支給地域に関する請願書」昭和26年『陳情書綴』)