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6章 戦後の上富良野 第7節 戦後復興と社会

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3、社会福祉と諸団体

 

 社会福祉事業の発足

 敗戦後の復員や引き揚げによる失業者の増大などの社会不安に加えて、昭和20年は凶作となり、食糧確保に国民は必死であった。同年12月厚生省の把握では、戦災者・引揚者・復員軍人や軍人家族、傷痍軍人などの要保護世帯は、約126万人、国内総人口の1.7lであった。戦前は公的扶助として、戦地へ送り出した留守家庭や遺族の保護を重点としたが、戦後は復員・引揚者や、戦死者の遺族などの困窮者に対して生活を平等に保障するという基本理念へ、大きく転換した。

 基本理念の転換は直接的には、21年2月GHQ(占領軍総司令部)が示した「公的扶助に関する覚え書き」の四原則(無差別平等の原則、国家責任による生活保障の原則、公私分離の原則、支給金無制限の原則)によるもので、さらに、24年11月には社会福祉体制について、厚生省の主要目標の六原則(一、民生委員の公的扶助責任よりの除外 二、社会福祉主事制度の設置 三、福祉地区及び福祉事務所の設置 四、公私分離の措置 五、社会福祉協議会の設置 六、従事者の現任訓練)が提案され、実行に移されていった(三吉明『北海道社会事業史研究』昭44)。

 20年12月には援護対策が開始され、翌21年3月に恩賜財団戦災援護会と恩賜財団軍人援護会とが合体して、21年3月恩賜財団同胞援護会が設立され、傷痍軍人互助団体の協助会などの北海道支部が設立されて、戦災者の民間における援護もはじまった。

 やがて、生活保護法(21年9月)、児童福祉法(22年12月)そして身体障害者福祉法(24年12月)が公布されて、福祉の指針となる三法が出揃った。

 

 援護対策の開始

 上富良野の援護対策は、昭和20年度「事務報告」によれば、終戦により援護「事務益々広汎にわたり」、関係方面と連絡をとり、綿密に計画を実施し、戦災者・引揚者・集団帰農者の確認、軍事扶助(19戸)・傷痍軍人(29名)・遺族(113戸)、村葬の執行などを開始した。20年に上富良野で受け入れた戦災者・引揚者・集団帰農者の内訳は別表の通りである。集団帰農者は、いわゆる「戦後開拓者」といわれ、国の食糧増産政策とともに、農業未経験者でもあった都会からの緊急に開墾入植した人々で、上富良野へ19世帯103名が入植した。

 まず、戦死者や遺族対策をみると、20年の前半の援護対策に、戦死者を弔う村葬があり、「戦勝祈願」をこめて戦前から上富良野神社で行なわれてきた。20年には3月20日(2柱)、6月21日(3柱)、9月22日(6柱)、12月20日(12柱)合計23柱を弔った。その後、戦死の報告は「英霊」として、23年に2柱、24年に4柱、25年に5柱の知らせが家族のもとへ届いた。

 さらに、地域での遣家族慰問もはじまり、23年には8月に各校下毎の座談会を開催したり、12月に映画の会を開いた。24、25年は遺家族慰問を年2回(8、12月)にわたって、同胞援護会が主催した。25年ころから8月16日に上富良野神社内で追悼の会が開かれ、25年「殉公祭」(遺族後援会主催)、28年戦没者慰霊追悼協議会が忠魂碑前にて、日露戦争以後の戦没者を追悼、29年に戦没者追悼式を挙行した。

 全国の戦没者などの遺族数は179万世帯に達し、生活の困難さを抱えていたが、その内約2万世帯が生活保護世帯であった(27年1月厚生省調査)。28年8月1日恩給法改正により、軍人恩給の申請受け付けが開始された。上富良野では29年の申請件数が、戦没者遺族扶助料200件、旧軍人恩給6件、傷痍軍人恩給27件であった。

 一方では、遺族による靖国神社への参拝がはじまり、29年の第一回遺族靖国神社参拝(上川遺族連合会主催)に上富良野から25人が参加、104名分の合祀通知があった。そして、同年の天皇奉迎(富良野市)にも遺族143名が参加した。29年4月1日、傷痍軍人会が設立され、会長三島保蔵、副会長遠藤憲治、会計飛沢尚武を選出した。

 

 引揚者対策

 敗戦とともに、樺太・満州など外地から命からがら日本への引き揚げが始まり、20年の北海道への引揚者は約4万世帯、約11万人であった。引揚者は家族や市町村の援護で落ち着きながら、独自の民間団体として財団法人樺太引揚者団体連合会(所属団体110市町村)、北海道外地引揚者連盟(82市町村に支部)、財団法人満蒙同胞援護会北海道支部が活動し、23年6月に北海道引揚者団体連合会に一本化された。ソ連・中国地区からの引き揚げは政治的な問題で難航し、ソ連引き揚げは24年6月に再開したあと、翌25年に中断し、28年に至って、日本とソ連の赤十字社代表による会談後に再開した。29年3月末までの北海道への引き揚げは約19万1,500世帯、約47万名で、そのうち約60lが樺太から引き揚げてきた。

 上富良野への地域別引揚状況(25年)によると、引揚者は復員軍人378名、一般人564名で合計946名となった。未復員者16名も存在した。また、一般人の約15lが親類縁者のない無縁故者であり、無縁故者は全道的に増加傾向にあった。ソ連地区から上富良野へ帰還したのは、28年、29年に5名であった。

 引揚者援護で、急を要したのは住宅問題であった。道が25年までに用意した引揚者住宅は約6,000戸、集団収容施設約700棟などで建物は腐朽甚だしく、補修が必要であった。また、引揚者は軍隊生活や収容所生活が永く、職業経験に乏しいなどの問題もかかえて、なかなか就職できない事もあり、生業指導や更正資金の貸し付けを受けることもできた(『北海道年鑑』1955年版)。

 さて、上富良野においても、引揚者住宅の確保は難しく、まず23年には引揚者緊急住宅用に、市街地S館(伊藤勝次所有)を75万円で購入した。24年に引揚者収容施設を総工費(国庫補助)42万3,000円で市街地一の二(村有地)に1戸・12坪の広さで2戸建て4棟を建築した。25年には26世帯、141名が引揚者収容施設に入居することができた。

 

 表6−36 昭和20年の戦災者・引揚者・集団帰農者

区分

世帯数

人員

内地、道内戦災者

23

132

樺太引揚者

33

136

その他外地引揚者

2

11

集団帰農者

19

103

   (昭和20年「事務報告」)

 

 表6−37 海外地域別の引揚状況

 

樺太

千島

朝鮮

支部

満州

その他

計内(無縁散者)

復員軍人

62

3

7

99

16

191

378

一般

412

 

20

30

91

12

565(83)

474

3

27

129

107

203

943(83)

未復員

5

 

 

 

11

 

16

   (昭和25年度『村勢要覧』)

 

 生活保護事業

 21年10月1日施行された生活保護法は、救護法・母子保護法・軍事扶助法・医療保護法・戦時災害保護法を一括したもので、GHQが提示した「公的扶助に関する覚え書き」の四原則によって、戦前の救貧法とは異なり、政府が生活困窮者へ平等に救済援護の手を差し延べることを基本とした。道内で21年10月から23年3月末までに、約54万人が生活保護法の援護を受け、22年度における保護人員約28万人の保護内容は道民生部社会課調査によると、生活扶助(約23万人)が82lを占め、医療費(約4万人)、そして生業扶助、葬祭扶助、助産費の順に該当者が多かった。被保護者としては、24年2月の道の第二回被保護者実態調査によると、主に幼児を抱えた未亡人で働けぬもの・病弱者・老衰者・引揚者であった。なお、23年2月の生活扶助基準は、東京など五大都市四人家族の場合3,350円で、基準は改訂されて増額されていったが、諸物価の上昇に追いつくものではなかった。(『北海道年鑑』1949年版・1950年版)。

 上富良野における対策は、戦後の食糧増産と、悪性インフレのなかで「民生安定の社会状態」をもたらすために、国の施策に準じて実施された。生活保護件数を各年度の「事務報告」から取り出すと、表6−38の内訳で、26年度、27年度は不明である。なお、生活扶助の内数で一般というのは、海外引揚・遺族・留守家族の世帯以外であって、24年度25年度ともに約70lが一般世帯の困窮者であった。

 また、生活保護のほかに生業資金貸付が、自ら生業を営み自立するための資金融資として25年(1口3万円)から道として制度化し、28年には5万円に引き上げられた。上富良野における生業資金貸付決定数は、25年に29件(61万2,000円)、28年には1件のみであった。しかし、・全道的には、生活の困窮さが軽減してきたということではなく、被生活保護数は26年月平均を100とすると、29年3月は、118.4の指数を示し増加した。経済不況、冷害凶作など29年以降デフレ経済の深刻化により、扶助別では医療扶助の増加が目立つようになった。

 

 表6−38 生活保護件数(単位件)

 

生活扶助

医療扶助

薪炭扶助

24年

68(内一般46)

 

 

25年

54(内一般38)

 

 

28年

38

16

53

29年

39

25

54

   (各年度「事業報告」)

 

 母子福祉事業

 戦後の物価高騰のなかで、戦地からの男子の復員により、女子は働いていた職場を失うなど、働くことができる条件のある女性であっても、働く職場は限られていた。まして、幼い子どもを拘えた女性たちは、母子世帯などの困難さを抱え込みながら生活せねばならなかった。

 昭和23年2月厚生省調査によると、全国の未亡人数140万人であった。すでに21年10月には旧母子保護法が生活保護法に一括されて援護対策は始まり、24年の道民生部による未亡人調査では総数約4万7,000名で、子どもは約7万2,000名(内乳幼児約2万名)であり、同年の道衛生部の調査では、被生活保護者の内で、幼児を抱えた母子世帯数は約30lを占めていた(『北海道年鑑』1949年版)。

 一方、労働省でも24年11月に戦争未亡人や離婚婦人などの女子世帯の家計を調査し、前年には児童福祉法が施行され、国連総会での世界人権宣言採択など、児童・女性をはじめ社会的な弱者の人権擁護は世界の流れとなっていた。そして同23年に遺族団体の全国総会で未亡人の窮状が訴えられたり、28年には全国日雇婦人協議会が結成され、翌29年に婦人少年問題審議会では未亡人などへの職業対策についての建議が労働大臣に提出されるなど、官民ともに母子世帯対策が大きな課題となっていた。

 母子世帯への対策として、27年12月に公布された「母子福祉資金の貸付等に関する法律」によって翌年から、生業資金(5万円)・支度金(1万5千円)・修学資金などが貸し付けられた。

 上富良野の母子福祉資金貸付申請の決定件数は、28年に1件、29年には3件であった。

 29年度「事務報告」よると、全国調査の「母子世帯実態調査」が29年9月1日に母子福祉事業の資料とするために民生委員が各地区を担当して実施された。上富良野では、45世帯の状況を生活保護を受けているもの(13世帯)・要保護とされるもの(6世帯)・どうにか生活しているもの(23世帯)・生活に余裕があるもの(3世帯)と把握し、母子住宅困窮者収容件数は3世帯22名となっていた。

 全国調査に先立ち、上富良野では「母子住宅設置の件」が29年8月15日に陳情された。丁度、母子住宅や総合アパートを要望することが全道社会福祉大会(室蘭市)で大きく取り上げられたばかりで、陳情は母子世帯簡易住宅を1棟5戸35坪(1戸7坪・堀立丸太・長柾葺き)で要望したが、19日不採択となった。ただ、台風15号(10月28日)の被害にあって廃棄する教員住宅を母子住宅に払下げること、また緊急を要する世帯を引揚者住宅の一部へ入居させるように陳情し、採決された(『昭和二十六年陳情書綴』)。

 やがて、36年10月になって、ようやく低家賃住宅として4畳半2間、とくに、母子世帯・身体障害者世帯・引揚者集団疎開世帯・低額所得世帯を対象に、家賃1,700円で8戸が用意された(『町報かみふらの』昭36・10・5)。

 すでに、30年3月に母子世帯の要求を束ねる北海道母子福祉連合会が結成され、同年5月に上富良野町母子会(会長北村フジノ)は結成された。こうした運動を背景に、母子家庭の生活の安定を図る目的で母子福祉対策が一本化した母子福祉法が、39年7月1日に公布、即日施行された。

 

 その他の諸策

 児童福祉は戦後福祉政策の重点の一つであった。児童福祉法は、従来の少年救助法・児童虐待防止法を吸収したもので、23年の施行にもとづき、保育所や母子寮の新設が始まり、富良野町に創られた国の子寮(北海道共立愛子会)などの児童保護収容施設、里親制度、旭川などの児童相談所が創設されて、翌年児童福祉審議会が発足し、やがて「児童は、人として尊ばれる」の精神を生かした児童憲章を26年5月5日に制定した。児童とは18歳未満を対象とし、31年5月に第1回「子どもの日」が設定された。

 さて、上富良野の児童福祉事業は、昭和4年から季節的保育事業が継続され、19年上川支庁調査(管内43カ所)では2カ所存続していた。その一つ楽児園(聞信寺)は、23年まで休園、24年から村立として再開し25年に5カ月間、95名を保育、27年から年間保育となり28年4月1日に保母は4名体制で、夏季120名・冬季40名を保育した。しかし、昭和29年には有資格保母を採用したが、施設を更新しないと、認可が下りないことに苦慮しながら、夏季147名(最高)・冬季46名(最低)を預かった。なお、上富良野児童福祉審議会が結成されたのは、25年で委員15名を選出して、すべての児童に対する児童福祉の観点が行政に反映されることが望まれた。

 さらに、身体障害者対策は24年12月公布、翌年4月施行の身体障害者福祉法により、身体上の障害のある18歳以上の者を対象に、身体障害者手帳を交付して、援護してきた。障害の内訳は視覚障害・聴覚障害・言語障害・肢体障害で、全道的には(約二万人)肢体障害が七〇lを占めていた。障害者の更正を図る更正施設や道の巡回相談・指導も行なわれた(『北海道年鑑』一九四九年版・一九五五年版)。身体障害者手帳の交付申請件数は同二十九年に上富良野では一五件で、交付済一三件で、二五名の身体障害者が日本赤十字の奉仕による無料診断を富良野保健所で受診する機会があった。三十年には身体障害者福祉協会上富良野分会(会長本田茂)が結成された。

 次に、高齢者福祉対策としては、二十六年から九月十五日を「としよりの日」として、敬老をあらわすようになったが、三十八年施行の老人福祉法から「老人の日」と改めて、四十一年から「敬老の日」と改称して国民の祝日として祝うようになった。上富良野では「としよりを敬愛し、福祉の増進につとめ、としより自身も若い人たちと協調を」と町民に呼び掛け、三十四年に恒例長寿祝賀会を開催、四五四名(男二〇〇女二五四)が列席した。上富良野の老人クラブのさきがけは三十六年創立の上富良野老人親睦会(会長服部清次郎)で、三十八年に上富良野睦会(会長岩田長作)とつぎつぎと結成された。

 また、道は、三十三年から道条例により北海道老齢者福祉年金を支給し、対象は在道三年以上、八八歳以上(明治四年以前の出生)などの該当者で、上富良野では三名が受給した。三十六年には老人クラブ用に旧登記所を改装した「いしずえ荘」が、おとしよりの福祉施設として開放された。六五歳以上を対象に、とかく消極的な暮らしになりがちなことから、精神的な士気高揚のために娯楽用具を備えて、毎週土曜日の九時から十七時まで開所、七月八日が第一回であった。(『町報かみふらの』昭36・7・8)。

 

 写真 昭和36年頃の町立保育所

  ※ 掲載省略

 

 社会福祉協議会の結成

 社会福祉が、戦後の憲法や関連法案によって、公的保護の基本理念にもとづいた制度として整えられ、二十五年には生活保護法が全面改正されて、社会福祉主事の制度が確立し、翌二十六年の社会福祉事業法施行によって福祉事務所が設置され、福祉事務所に母子相談員も配置されるなど各担当機関も明確となり、社会福祉協議会の結成となった。

 社会福祉事業法は、対象者の独立心をそこなうことなく援護・育成・更正・援助を行なう事業の基本を示したもので、社会福祉協議会は社会福祉事業にかかわる公私の機関・団体・民間有志によって構成した。北海道社会福祉協議会は、二十六年三月に北海道民生委員連盟・同胞援護会北海道支部・北海道社会事業連盟が中心となって結成され、各支庁町村にもつくられた。なお、民生委員は二十一年の民生委員令により生活保護実施の市町村長の補助機関として発足し、議会の議員や地方公共団体の職員との兼務を禁じ、一般民間人に委嘱され、二十一年には全日本方面委員連盟は二十一年十月に全日本民生委員連盟と改組した。

 上富良野町社会福祉協議会は、28年3月18日に設立され、民生委員20名・児童福祉審議会・同胞援護会・遺族後援会・共同募金委員会・婦人会・青年団・保護司で結成され80名の会員となった。会長海江田武信、副会長山口梅吉・廣田信一が就任。

 各団体は全国の社会福祉事業に連動し、上富良野の住民会組織などの協力をえて、戦後の混乱期に町民の生活を福祉の側面からカバーした。

 ここで、社会福祉協議会の恒例の事業となっている共同募金について、触れたい。戦後間もない22年秋から国民助けあい共同募金運動、中央共同募金委員会が創設され、札幌ではすぐに歳末救済が始まった。社会福祉施設の整備が社会的に急務であったことから21年から公私による設置が進んだが、政府の補助金に依存していた民間施設は、公的扶助の四原則(国家責任による生活保障の原則、公私分離の原則など)の影響もあって、打撃をうけて、財政難、食糧や物資難で閉鎖するところがでた。そこで共同募金が22年秋から始まった(『北海道社会事業史研究』)。

 上富良野の「赤い羽根」の共同募金は24年から取り組まれ、目標29万に対して27万円の募金を完了。翌年は25万6,302円で目標の9割完了。また、28年から始まった、歳末たすけあい運動の実績は、表6−39のとおりである。

 さらに、上富良野町社会福祉協議会は、44年に家庭奉仕員(のちにホームヘルパー)の派遣、福祉運動会などを開始して、広い活動範囲の人々による協議体の性格を強めていくことになる。

 

 表6−39 歳末たすけあい運動の実績

 

義捐金

義捐物資(米)

(衣類)

酉己布戸数と人員

29年

44,297円

8斗

435点

 

35年

58,252円

3石3斗

2,830点

104戸、483名

38年

80,990円

2石5斗

1,140点

64戸、323名

42年

172,148円

1石8斗

1,241点

207戸、289名

 

 戦後の息吹きと労働組合

 戦後の民主化は、20年12月労働組合法の公布によって、労働者の権利(団結権・争議権・団体交渉権)が確立し、女性の参政権が認められ婦人代議士が21年4月に39名が誕生し、戦前には閉されていた人権を大幅に認めることになった。戦争からの解放感も手伝って、食糧危機から生活を守るために男も女も団結し、雇用主と交渉することを、あたりまえの権利として行使するようになった。

 上富良野にも、こうした労働組合法に依拠した組合づくりが始まった。労働組合だけではなく、自作農家が比較的多かった上富良野においても、21年から農地改革が進み、農民組合がつくられていった。地区労及び農民運動については、第1節に詳しい。

 その他本、日用品、豆などが寄せられた。42年末、義捐をうける人々全員を3日間無料で映画に招待(日本劇場)した。(『広報かみふらの』抜粋)

 表6−40は、上富良野で戦後の労働組合が創立された状況を示している。労働組合を21年にいち早く組織したのは、教職員であった。続いて逓信従業員、23年に入って木工関係・日雇労働者が団結した。全体として表Bには、上富良野に存在した営業所などに勤務した労働者の数は含まれてはいない場合もある。

 たとえば、労働組合が結成されていた日本甜菜製糖株式会社・ビール株式会社・日本通運や、北海道拓殖銀行上川支部、国鉄労働組合富良野地区委員会に所属した労働組合員がいたので、明らかに組合員数は、24年の時点でも300名(うち女子は31名)は超えていた。

 また、全逓信従業員組合南上川特定郵便局支部の前身となる全逓信従業員組合上川支部(代表赤坂勇)が21年8月1日設立(昭和27年『北海道労働年鑑』)とあるが早い時期の組織人員を参照するために、ここでは1950年度『北海道労働年鑑』を引用した。いずれにしても、草創期に全逓信従業員組合上川管内の支部事務局を上富良野が担当していたことになる。

 なお、39年に発足した全日自労道地本(全日本自由労働者組合北海道地方本部)上富良野支部は町失業対策事業従事者で組織されたが、39年以前には上富良野支部の名称は『北海道労働年鑑』に記載されていない。

 40年代に入ってから結成した上富良野町役場職員組合(24名)は、上富良野地区労働組合へ43年に参加した。しかし、役場職員の間では、22年4月に労働組合法に続いて労働基準法が公布されると、村との労働協約をいかにすべきか検討を加えていた。そして、26年6月19日、地方公務員法に基づいて「職員団体の交渉に関する条例」を「上富良野村条例」第10号として定めた(昭和26年度『条例発布報告』)。道は24年に、公務員が行政の民主的能率的運営を図るために、「新吏道」の確立を職員にうながし、通達は上富良野の役場でも回覧された(道訓令第3号「北海道行政考査委員会規則」)。戦後における公務員の緊張感が伝わって来るようである。

 

 表6−40 上富良野戦後の労働組合創立状況

組合名

設立年月日

代表者

組合員数(内女)

北海道教職員組合上富良野支部

21・5・6

金子  淳

77(17)

全逓信従業員組合南上川特定郵便局支部

22・7・7

高橋正三郎

476(134)

〈〃上富良野分会〉

22・・

佐藤 義春

43(5)〉

大成木工製作所労働組合

23・4・21

石川 国一

9

北日本木工従業員組合

23・4・24

河原太市郎

17(4)

株式会社山本木工場労働組合

23・4・30

福田 義光

24(4)

上富良野土建一般労働組合

23・5・31

山崎  栄

75

伊藤木工場労働組合

24・12・5

小林 正男

14(1)

上富良野町農協職組

28・3

川久保 光

50(12)

東中農協職組

28・1

田浦 寅一

19(5)

全電通労組上富良野電話中継所分会

29・5

今野 邦雄

9(1)

全日自労道地本上富良野支部

39・

西  甲三

31(26)

   昭和24年設立までは1950年度『北海道労働年鑑』を引用、以後昭和29・34・39年版『北海道労働組合名鑑』参照。特定郵便局支部は上川管内の事務局が上富良野に存在したために総数が記載され、上富良野分会数は〈内数〉となる。

   なお、『上富良野町史』には、昭和34年自由労働組合上富良野支部(支部長千葉伴浩)の結成が明記されている。