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6章 戦後の上富良野 第7節 戦後復興と社会

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1、衛生と医療

 

 衛生事情

 昭和20年8月15日以降、第二次世界大戦中はとかく不十分であった清掃を、各家庭や地域で徹底的して行なうようになった。

 それは、戦争直後の数年に「伝染病がはやる」という危機感があり、腸チフス・パラチフスの伝染病には予防注射、発疹チフスの予防に「蟲(しらみ)の退治」を奨励した。衛生の諸課題は、21年5月5日の上富良野の村常会の重要案件であった(村常会記録『庶務例規』)。

 政府は、20年に春秋清潔法を施行し、23年には保健衛生関連法を整え、5月には児童福祉法に基づいて妊産婦に母子手帳が交付され、6月に改正国民健康保健法の公布、7月農薬取締法や優生保護法の公布・予防接種法施行、そして汚物処理法などを施行した。

 また、道民の栄養摂取状態は、23年の道衛生部調査によると、インフレによる生活難や栄養知識の欠如などから全国平均を下回り、酪農村地帯においても自家生産物から栄養を摂取するため、栄養の偏りがみられた。さらに、結核は戦後、低下傾向にあるものの、死亡原因の第1位であった。結核罹患者が青年層から壮年層に移り、都市部から農村部へ蔓延し始めていた(『北海道年鑑』1949年版)。

 衛生保健の対策の先頭に立つのは、各管轄保健所であった。しかし、保健所の状況は「弱体化する保健所」と報道されるほど、医師や保健婦が不足している上に、待遇などの良い炭鉱関係の一般病院へ転職する傾向にあった(『北海道新聞』昭24・3・27)。

 24年の結核追放五カ年計画のスタートを前にして、旭川保健所がモデル保健所に指定されるにあたり、視察にきた連合国軍総司令部(GHQ)衛生課長らは、保健所の積極的な活用を奨励した(『北海道新聞』旭川版昭24・1・28)。その後、30年に至っても医療施設の充実は、重要課題であった。

 

 環境衛生の対策

 保健所が設置されていない、人口1万3千以上の市町村には、23年5月から、それまでの鼠(ねずみ)族昆虫駆除班に代わって、衛生班が設けられた。さらに、同年10月には環境衛生監視員設置要綱にもとづいて各保健所に環境衛生監視員、翌24年に人口1万3千以下の市町村に環境衛生補助監視員が配置されて、鼠・衛生害虫駆除のほか、汚物の清掃など一般住宅衛生、上下水道の衛生管理のほか理容法、公衆浴場法、興業場法、旅館業法などの実施について指導、監視を強めた(『北海道年鑑』1950年版)。

 上富良野でも23年から、市街や各集落ごとに1名を選出して衛生班(村内自治衛生班)を組織し、「衛生思想の普及と強力な予防接種」を勧奨した。春秋季の1回以上の清掃、村内一斉の衛生検査などの環境衛生に努めたが、ここで事業内容について各年度の「事務報告」から列記したい。

 

二十四年

防疫器材薬剤の入手、配布。リゾール・ピレトク乳衛生剤・DDT・ダスター・AD四号の背負噴霧器による「昆虫[ママ]駆除」、伝染病媒介昆虫の発生防止。

二十五年

衛生班の協力で、DDT配布、「昆虫[ママ]駆除」、その他・下水流尻塵芥処理などの整備指導。また、共同便所の設置が議会で論議された。

二十六年

不明

二十七年

不明

二十八年

衛生班活動は、部落一、四五四戸、市街地六五〇戸、東中五二戸の下水、排水、池、そして住宅を含む各小中校一三校の学校便所などへ、DDT・BHCの薬剤散布。ネオメッソ(鼠駆除薬)を町内の希望者へ無料配布(約二斗)。狂犬病対策は毎年登録替をしているが、注射済の成績があがらず、保健所係員が戸別訪問をして督励した。

二十九年

前年度と同じく、各戸に薬剤散布や鼠族駆除薬を希望者へ無料配布。さらに、安全ネコイラズを希望集落に有料で斡旋した。狂犬病対策として、上富良野野犬掃討条令を四月に制定し、富良野保健所・上富良野獣医師・役場の三者協力で、畜犬登録(三五二頭)、狂犬病予防注射(二二一頭)、野犬掃討に成果をあげた。

 

 なお、衛生班について、昭和29年度「事務報告」は、28年度に設置をみた「町衛生班」に衛生班長(竹内計次郎)を採用して、環境衛生指導に効果を収めたと明記している。23年に設置された村内自治衛生班に町行政の衛生指導が強化されたとみることができる。

 

 結核撲滅の対策

 伝染病のなかでも結核の予防として、23年予防接種法の施行によりBCG接種が国民に義務づけられた。道は24年から集団検診・患者の早期発見・治癒指導などを推進した結核撲滅五カ年計画を図り、26年改正結核予防法によるBCGの強制接種、公費負担が導入され、計画は前進した。結核は、20年に全道の死亡原因の第1位を占め、その対策に苦慮していたものが、26年頃には対策の成果により急激に死亡は減少し、28年に至って、死亡原因の第1位を脳溢血に譲り、結核は2位に下がった。28年には結核の発生約3万5,000名に対して、死亡は約4,000名、(25年の発生約4万名に対して、死亡約8,000名)と、死亡者は大幅に減少した。しかし、道衛生部では届け出がなく、自覚症状のない患者は届け出の2.5倍の約10万名とみていた(『北海道年鑑』1955年版)。

 上富良野の結核対策(23年から28年)は、実施人員では結核撲滅五カ年計画の徹底により、25年に一気に跳ね上がり、要注意者の早期発見が顕著である(表6−30)。上富良野の結核死亡者は29年までに急激に減り(表6−31)、全道の傾向と同様であった。しかし、罹患者の壮年層への広がりは上富良野にも出ていた。28年の全国結核実態調査の対象として草分・日の出地区から100lに近い548名が検診し、30歳以上と老年層の罹患者を発見し、翌29年度には30歳以上の定期結核検診を推進して、1,619名が受診した。

 また、結核患者は、療養生活を続ける困難さをかかえ、撲滅五カ年計画終了後も生活扶助を受けざるを得ないこともあった。農村における結核の要因は、有馬英二『北海道農村の結核対策』(昭25年)によると、第一に主婦の労働過重、第二に食生活の欠陥で動物性蛋白質と脂肪分の不足、第三に住宅の不備があり、日光を取込み、台所を能率的に改善することなどがあげられた。これらの要因を改善するために衛生事業のほか、生活改善運動、農協婦人部などの活動を通して具体化が進められることになった。

 

 表6−30 結核対策実施状況

昭和

実施人員

ツベリクリン

反応注射

BCG接種

間接撮影

直接撮影

直接撮影の結果

要療養

要休養

要注意

23年

3,484

3,484

640

3,612

230

4

10

52

24年

3,901

1,946

496

3,175

135

 

2

85

25年

8,821

2,329

913

 

349

120

 

82

28年

 

5,928

 

4,092

162

(加療)65

   (各年度「事務報告」)

 

 表6−31 結核死亡者と罹患者

年度(年)

大正10

昭和9

23

24

25

26

27

28

29

結核死亡者(名)

14

15

35

23

18

12

11

6

5

結核罹患者(名)

不明

不明

不明

106

130

93

74

66

48

   (昭和23年までは『昭和25年版村勢要覧』、24年以降は「事務報告」)

 

 その他の伝染病

 23年頃の伝染病は、全国的には日本脳炎が蔓延したり、樺太引揚船内で発生した発疹チフスが、引揚げ先まで感染を拡大したこともあった。道内の法定伝染病では、ジフテリアが3分の1を占め、腸チフス、パラチフス、赤痢、猩紅熱などが主で、赤痢疫痢患者は多発の一途をたどり、29年には前年の倍以上の約1万名をこえるほどであった(『北海道年鑑』1949・1950年版)。

 一方、積極的な衛生行政により23年に予防接種法が施行され、BCGのほかにジフテリア、腸チフス・種痘・百日咳などの予防接種が義務づけられた。上富良野の伝染病の発病は、戦前の19年に約20名(内5名死亡)であったものが、戦後の25年には3名に激減した。同年の腸パラチフスの予防接種は村民の約85%(1万1,134名)が受けるほどで、村ぐるみの伝染病予防対策の効果の現われでもあった(表6−32)。

 上富良野の伝染病の発病内訳は「事務報告」によると、20年が22名(腸チフスが3名・ジフテリア13名)で、死亡は6名、21年、22年は不明で、23年にはジフテリアの1名、24年に5名(ジフテリア2名・猩紅熱2名・その他1名)、25年は腸チフスの3名であって、伝染病が発病しても治癒できるようになった。なお、赤痢患者数は28年に4、5名、29年に3名がみられる程度である。

 

 表6−32 伝染病予防接種実施状況(単位名)

昭和

腸パラチフス

ジフテリア

種痘

百日咳

23年

7,825

824

1,094

2,707

24年

119

なし

11,924

25年

11,134

1,230

1,032

259

28年

4,741

713

942

155

   (各年度「事務報告」)

 

 戦後の医療機関

 戦争直後の医療機関は、全国的にも少なく、病院や医師が都市部に集中し、上富良野が管轄下にある富良野保健所管内の状況(道衛生部調査)も絶対的に不足していた。22年の道内の医師は総数約2,500名(富良野保健所管内に39名)、歯科医師は総数965名(富良野保健所管内に20名)、薬剤師の総数は約1,200名(富良野保健所管内に10名)である。また、病院は23年末に総数187(農漁村部30)という状況から、農漁村部は診療所(病床20床未満)に依存せねばならなかった。前年22年末の診療所総数は約900で、富良野保健所管内には16であった。そこで、道は道立診療所を23年度に6カ所、24年7月までに8カ所を開所した(『北海道年鑑』1949・1950年)。

 さて、上富良野の医療機関の状況は、33年に町立病院が開院するまでは、医院(診療所)が3カ所と隔離病舎であって、飛沢医院、澁江医院、29年から好仁堂進藤医院(進藤悦郎)、また32年に前口医院(前口武雄)が開業した。東中には、戦前の19年から保健婦が役場から派遣され、地域の医療をカバーしてきたが、23年11月3日に道立東中診療所として発足、充実した。

 やがて、町民の増加とともに25年には、隔離病舎の建物が「市街地の中央」にあるので「町の発展上支障」があることから、移築する論議もあったが、「近い将来」の移築に期待するにとどまった(昭和26年『町議会』)。やがて新設されていた町立病院に隔離病舎を34年に併設した。

 歯科医院は、21年に歯科の山崎歯科医院が開業し、さらに歯科の半沢医院がしばらく開業し、同25年6月から服部歯科医院(服部啓一)も開業、47年6月まで治療にあたった。

 産婦人科を開業したのは、卯月産婦人科外科医院(卯月省三)で34年4月に前口医院の後を譲りうけて、上富良野ではじめての産婦人科であった。

 町立病院が、33年から管内では最新鋭の医療設備を備えて開院し、上富良野の医療機関が充実してきたことから、37年1月以降、日祭日の診療を受け持つ当番医院を設けて、町民の要望に応えるとともに、医師にも休日制を取り入れることが出来るようになった。さらに翌38年には医師、歯科医師、薬剤師が上富良野三師会(事務局町立病院)を結成して連携を図った。

 こうした医療の充実の過程には、道立東中診療所所長(岩切医師)が29年9月30日に転出後、後任医師が来ない事態も発生した。東中住民会は、町費助成と医師確保を町議会に陳情し、22日採択された。だが、その後の経緯は不確かで、30年頃に閉鎖した。

 ここで、東中の住民の医療に対する要望の強い「陳情書」をみてみたい。

 

        陳情書

  上富良野町             上富良野町東中住民会 林  覚

    道立東中診療所に対する町費補助に関する陳情

      陳情理由

  昭和二十九年九月三十日東中診療所長岩切医師転出、その後今日に至も、後任医師の着任なきため係保健所に早期決定方、要請のところ後任医師招致のためには、年間最低七、八万円の町費補助を必要とする模様にて、過般当会において協議の結果当会にても出来る限りの協力によって、町費の支出を願い、一日も早く後任者を招聘、診療開始方取計い下さる様陳情いたします。

  なお、冬期に於ける東中住民の健康は、殆ど当診療所で確保され、市街地には各病院あるも、冬期交通不便の候には、夜間、荒天時の診療は全く不可能にて、急病重患の場合は途方にくれる有様にて、ただ一本の注射の手遅れのため命に関わる例、少なからず。多数人口を有する当部落民は冬を控え不安増大のおりから、一日も早く之実現に善処下さる様懇願いたします。               以上

  昭和二十九年十一月十五日

 

 さらに、医療従事者として、25年には、医師4名、看護婦6名、保健婦3名、産婆5名、薬種商4名、獣医2名、治療師3名が携わった(『町勢要覧』1952年版)。

 

 写真 道立東中診療所

  ※ 掲載省略

 

 学校医

 学校医は、健康診断や伝染病の予防接種のほか、特に戦後はDDTなどによる児童への消毒散布や寄生虫の予防対策、歯科検診など公衆衛生の啓蒙と指導にあたった。

 学校医として、飛沢英壽(上富良野・東中・旭野・江花)と三浦政教(創成・江幌・里仁・日新・清富)、桜庭シゲ(村内一円)3名の医師が21年4月1日付けで嘱託となった。桜庭シゲは疎開で来住していた医師で、上富良野における初の女医であった。

 

 国民健康保険事業

 国民健康保険(国保)の事業は、保険給付事業(医療・助産・保育・葬祭費給付など)と健康施設事業(病院など)を行なうもので、上富良野では他町村と同じように戦時下に発足した。だが、17年の開始後、翌年から給付事業は休止となったが、保健婦の健康相談事業は継続され村民に喜ばれていた(『上富良野町史』)。

 国保事業の休止状態は、戦後の経済不安などから運営の困難さをきたして各市町村でも休止が続出していたことで、23年ころには道内に90余りの組合が継続するのみであった。政府は、各種の衛生対策とともに、社会保障制度の必要性から改正国民健康保険法を23年に公布して、世帯員の強制加入と市町村公営の原則が確立し、26年に国民健康保険税を創設した。28年に、医療給付に対する2割国庫助成措置が決定され、29年には事業実施市町村が全道の約2分の1、道民の約4分の1が加入した(『北海道年鑑』1955年版)。

 上富良野でも国民健康保険事業を再開する気運が30年頃に高まり、再開の準備に入り、翌31年4月に国保事業を実施した。

 左記の年譜は国保事業の主な沿革である。33年には、各自治体の義務制による事業の実施や定率国庫負担などの原則が全面改正された新国民健康保険法によって国民皆保険が実現された。しかし、その後の再三にわたる医療費の引き上げは、町民の家計にも響いた。

 上富良野の国保事業として、はじめて無料巡回診療を35年11月に行なった。清富・日新・静修・江幌の4ヵ所、町立病院佐藤院長によって編成された医療班が、学校で「盲腸の発見、外傷の治療」を行い、地域の人々から喜ばれた(『町報かみふらの』昭36・1・1)。また、36年5月から「疾病の早期発見と予防」健康相談、(健康教育看護の方法、育児、妊産婦の衛生、衣服、住宅、その他環境改善、栄養、公衆衛生教育、計画出産)家庭訪問を実施。担当部落の保健婦は、東中・富原(渡辺まき)、島津・草分・江幌、静修・日新〔中央区・北栄区・市5〜8、公園町・あかしや〕(木内キミ)、清富・里仁・旭野・江花、日の出・〔市1〜4、東町官舎、花園、弁天、両区・東区・西富区〕(森本愛子)。また、母親会、婦人会、若妻会など小人数の集まりにも出かけた(『町報かみふらの』昭36・5・18)。

 そして、41年6月9日に上富良野の「国民健康保険事業公営十周年記念」を祝うに至り、町民一斉血液型登録を実施、健康優良家庭、雑係医療従事者、功労者を表彰した。

 国民健康保険事業の沿革は次の通りである。

 

昭和17年

国民健康保険組合設立

20年

国民健康保険組合休止

30年 8月

国民健康保険の公営企業として再開準備委員会設置

31年 1月

事業実施にともなう先進町村視察(準備委員会)、部落懇談会、農事組合長及び世話人会議開催

3月

国民健康保険条例及び規則の施行。医療担当者との協定。初代国保委員14名委嘱。保健施設の設置(保健婦2名)。

3月

国民健康保険被保険者証の交付。

4月

上富良野町国民健康保険事業の開始。

32年11月

上富良野町立国民健康保険の直営病院、建設工事に着手。

33年 9月

上富良野町立国民健康保険病院の開設。

37年 4月

上富良野町立国民健康保険病院の増築工事を実施。

10月

歯科診療を開設

38年 5月

優良家庭の表彰 武島よし外42名

39年 3月

国民健康保険事業に対する表彰(道国保連合会)

12月

冷害による国民健康保険税の減免

45年 4月

助産費2千円から1万円に引き上げ

46年12月

冷害による国民健康保険税の減免

47年 1月

老人医療費無料化(70歳以上)

48年10月

乳幼児医療費支給制度実施(3歳未満児)

12月

高額医療費支給制度の実施

49年 4月

葬祭費2千円から3千円に引き上げ

50年 4月

保健施設活動の充実強化(保健婦3名増員 計5名)

7月

保健指導車の購入(軽自動車購入)

   *『上富良野町国民健康保険事業十周年記念誌』(昭41年6月)・『上富良野町国民健康保険事業開設二〇周年記念』(昭51年11月)参照。

 

 町立病院の開院

 国保の健康施設事業である町立病院が33年9月6日に開設された。町民待望の町立病院(上富良野町立国民健康保険病院)は、工事着工が32年11月1日、工事完了が33年8月25日、総坪数765坪88、病床数54床で、院長(佐藤良二)、副院長(安井慎太郎)、診療科目とスタッフは内科(科長村山章史)・外科(医長安井慎太郎)・産婦人科(医長安藤嘉明)・婦長(高見シゲ子)でスタート。

 医療設備と診療陣容の整備につとめ36年6月から、柔道整復術(ほねつぎ)を迎えて、外科・理学療法科との連携をはかり、皮膚泌尿器科も開設して、町民の要望に応えた。翌37年には精密検査「短期人間ドック」では、健康と予防のあり方に指針をあたえ、健康増進を図る目的で、身体計測・血圧測定・検便・検尿・胃液検査・肝臓機能検査・検血一般検査・]線検査・心電図・外科診断一般・眼科診断・身体計測・採血・検尿・血糖検査・胆のうX線検査が可能になった。

 37年には歯科を新設して診療を開始するとともに、新たに結核病棟3室12床を増設して総病床数66床で診療を行なうことになった。

 また、41年には、臨床検査技師を迎えた新たな医療スタッフの体制となった。この頃の40歳以上の人々にみられた病気は、胃ガンなどの消化器系、高血圧、老人結核が主であった。同年11月、新鋭レントゲン、診断用]線装置の導入、富良野沿線でははじめての優秀設備で、人間ドックを充実させることになった。12月に入り、旭川赤十字血液センターから採血車(ひまわり号)が来町、採血に貢献した。

 

 表6−33 町立病院の患者利用状況

年次

外来

入院

診療実日数

件数

延べ件数

診療実日数

件数

延べ件数

33年

95

3,757

15,030

114

326

4,857

34年

302

15,162

62,251

365

1,580

21,040

35年

303

11,157

49,346

366

1,632

25,581

   (『1961年上富良野町』)

 

 写真 開院当時の町立病院

  ※ 掲載省略

 

 母子衛生

 母子衛生対策は、上富良野の新しい村づくり、そして戦地からの復員、引き揚げ者たちが家庭を築く上でも、望まれるところだった。国は、22年12月に児童福祉法を公布し、妊産婦・乳幼児に対する母子保健事業にも着手、翌年妊産婦に母子手帳が交付され、優生保護法の公布により母体が保護されるようになった。

 24年には第1回全国赤ちゃんコンクールが開催されたが、母子保健の規定を整備拡充した母子保健法の公布は、40年まで待たなければならなかった。

 24年の『北海道新聞』紙上には、「母子保健講座」が連載され、たとえば回虫駆除のために「食物は煮焼して」(5・29)、蛋白質を摂取するために「妊婦に特に必要、身欠き鰊など」(6・5)、幼児の躾けのために「時間を決めて授乳」(6・12)などをアドバイスしている。また、産児調節に関する同社の世論調査も興味深いもので、「子供は何人がよいか」という問に対して、全国的には3人が約45lを占めているが、北海道は5人が約31l、次いで3人が約29l、4人が約22lと、全国に比較して3人より5人を望んでいた(5・8)。

 さて、上富良野の戦後の母子衛生を表6−34に見たい。出生数のピークは25年の688名で、婚姻数は20年代を通して約250組あり、25年の317組は抜きん出て多い。また、死亡数に対する死産の率は、昭和20年代後半まで20〜30lを占めている。死産数は24年の45を境に減少し始めた。

 次に、上富良野と全道との比較を23年の数値を人口千人に対する値(率)でみると、出生率は上富良野43.4(道38.2)、婚姻率は19.3(道11.2)、離婚率は0.72(道0.89)、そして死亡率12.0(道11.9)、死産率は2.5(道1.7)である。なお、出生率は『北海道年鑑』1955年版を参考にすると、全国的には32.2で、道の値をも大幅に上回る上富良野の状況であった。婚姻率は全道の2倍に近い値を示している。

 

 表6−34 戦後の出生など人口動態

 

出生

婚姻

離婚

死亡(内死産)

21年

426

267

10

172

22年

434

 

 

179

23年

599

 

 

166(35)

24年

598

244

13

151(45)

25年

688

317

17

212(26)

26年

388

138

3

138(32)

27年

412

241

12

122(24)

28年

465

254

17

138(12)

29年

457

239

18

112(15)

30年

360

125

8

103(14)

31年

379

165

12

124(22)

32年

481

300

15

149

33年

348

175

7

116

34年

329

198

11

86

35年

417

215

13

96

   昭和20、23、24、25、28、29年度「事業報告」1952年版、1961年版、昭和32年版『町勢要覧』より作成した。

   *掲載した数値は、昭和26年は1952年版『町勢要覧』の数値であり、他の年は1952年版『町勢要覧』の数値を上回る『事務報告』を引用した。本籍、非本籍と分けてある数値は合計した。

 

 乳幼児対策

 母子衛生のなかでも、1歳未満の乳幼児の死亡は戦前からの大きな課題であった。上富良野における妊産婦・乳幼児の保健指導は、国民健康保険の医療給付をまだ再開していない段階では、地域における産婆の役割も見逃せないが、結核などの保健一般指導、健康相談、各種予防接種業務などとともに、重要な保健婦業務の一つであった。

 たとえば、27年度の乳幼児一斉検診では、27年4月1日から28年3月31日に誕生した乳幼児(484名)が該当し、受診者(347名)の受診率は76lであった。健康優良乳児28名が28年11月24日に表彰を受けている。表彰率は男17名・女2名で全体の8lにあたった(昭和28年「事務報告」)。

 引き続き、健康優良乳児を育てるために乳幼児一斉検診は行なわれ、34年7月14日に1年未満乳幼児216人のうち87人を町立病院で審査した。男子4名、女子6名が入賞し、出生時2,600c以下の未熟児を育てた努力賞が6名の母親に贈られた。

 42年8月には、母子栄養強化事業(生活保護世帯、町民税の非課税世帯などの妊産婦および乳幼児に、栄養の強化を図る必要な食品を無償で支給)を開始、妊婦に6ヵ月間、産婦には3ヵ月、乳幼児に生後4ヵ月以降9ヵ月、1人1日牛乳1本を支給した。

 食糧事情が落着いた頃に母親たちを慄かせたのは伝染病のポリオ(小児マヒ)である。上富良野では33年に2名、35年に2名が感染した。35年に猛威をふるった小児マヒに対して、36年には予防接種を開始、母親たちの不安を解消した。春の予防接種は5月末の5日間、町立病院にて1回分271円、3回の接種が必要であった。同年8月の多発最盛期に6日間、ワクチンの無料投与を2,651人に実施した。迅速な予防対策の実施が実って小児マヒは下火となった。ポリオワクチンの導入は全国、全道の母親たちの連帯した運動の成果でもあった。

 その後、北海道小児マヒ財団が設立され、小児マヒの後遺症による肢体不自由児の教育や授産施設の完備のため、全道民に呼び掛けられ、婦人たちは募金に応じた。

 また、36年には、乳幼児に百日咳・ジフテリアの予防接種が各町内9ヵ所の学校、公民館を利用して行なわれ、母子手帳の携帯も始まっていた。

 一方、婦人科の検診にも力が注がれるようになった。子宮ガン検診が41年6月、はじめて北大付属病院・札幌医科大の婦人科医師により実施され、検診料700円、80名が受診した。ガンによる死因が多く占めるようになったことから、早期発見・早期治療をめざして、30歳以上を対象に婦人科検診(子宮ガン)を続行することになった。

 

 生活の変化と環境衛生

 環境衛生の対象は、戦後における伝染病を媒介する昆虫の発生防止から、鼠の駆除、そして野犬や狂犬病予防へと移り、昭和30年代に入ると、自衛隊の駐屯や自動車の普及によって、散水事業が衛生面から要望されるようになった。

 上富良野連合町内会(会長樋口義雄)と衛生組合(会長伊部酉市)は、30年に市街地を通過する諸車の交通量の増加と自衛隊キャンプと演習場へ行き来する車が増し、夏になると、町民は「諸車の砂塵」などになやまされ、「食料品の衛生上の見地」から、散水事業の実施を要望し、議会は採択した(『昭和三十年議会議決書綴』)。

 さらに、30年9月19日上富良野清掃条例が制定され、町は年度計画として、「汚物の種類別収集」「処分の方法」を明らかにした。手数料を町民が負担して塵芥、灰塵、し尿、ふん尿の処理をするようになった。

 やがて、41年には町民にゴミは少なく、区別して、運びやすく≠よびかけていたが、同年7月のゴミの量は毎日、ゴミはトラック8台分にもなった。燃えるものは個人で燃やし、空きビン・ダンボールは売却、残飯・厨介は容器に入れて出し、ゴミ箱はりんご箱を使った。そして、塵芥車の鳴らすリンがなったら塵芥車に町民自身が積込む収集方法であった(『町報かみふらの』昭41・6・10)。

 42年7月、1日と15日の定例清掃日が決められ、減少したとはいえ引き続いてハエやカ、伝染病の発生源を一掃することに注意をはらった。

 

 墓地

 墓地に関する法律も変わった。「神道、キリスト教等の新興宗教」の信者が墓地を使用するにあたって、これまでの不便を改めて、それぞれの「宗教の宗義に死者を葬る」ことを原則とした利便をはかる内務省通達が出た(警第85号昭21・9・3)。通達にならい上川支庁は上富良野へも「宗教の如何により差別的な取扱をしたと疑われない様留意すること」を翌月24付けで連絡。戦後の民主主義の波を受けて、信教の自由が墓地管理にも反映していた。

 また、戦後の物価高騰のなかで、墓地使用料は22年から再三にわたって上昇した。23年7月22日上富良野村墓地火葬場使用条例が改正され、上富良野墓地、東中墓地とも1等地500円、2等地400円、3等地300円、4等地無縁故者行旅病死人は無料、そして、火葬場使用料は左記の金額を定めた(昭和23年7月22日)。

 

上富良野、東中共同火葬場

その他の火葬場

3歳未満の死体

100円

50円

3歳以上15歳未満の死体

200円

50円

15歳以上の死体

300円

50円

 共同火葬場は、老朽化してきたので、28年7月8日に東中共同火葬場で火葬竃を改築した。つづいて、東中の火葬待合室改築計画が29年度計画中のところ、予算の関係から、翌年に延期された。そして、東中火葬場の使用料を200円を400円に、300円を700円に、500円を1,000円と改め、石炭込みの料金となった。5年間に15歳以上の死体の場合(東中火葬場)、50円から1,000円と20倍に上昇した(『職務例規』)。

 30年代中頃から墓地の環境をととのえようと、35年雑木の伐採、36年には区画整理を予定し、霊園の清掃を呼びかけるようになった。