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6章 戦後の上富良野 第6節 戦後の教育

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3、昭和20年代の教育

 

 給食のはじまり

 学校給食は、戦後の食糧難に対処し児童の発育の助長と健康維持のため、昭和22年6月ごろから都市を中心に開始された。

 その後23年1月から町村の学校にも拡張された(『新北海道史』第6巻通説5)が、上富良野では同年2月28日から江花小学校で学校給食が実施された。また昭和23年の事務報告では「学校給食」について、

 

 昨年度発足以来慣れたるに従ひ、各校とも概ね順調に経過しつつあるも、本年度に於ては、連合軍放出物資として粉乳、缶詰その他多量の食糧の配給あり、「カロリー」の向上に意を注ぎつつあり。又施設の点については未だ充分とは云へないが、本校を始め各校の整備に着手、一、二校を除き殆ど完成に近づきつゝあり。今後に於てはPTA、学校側と相提携、給食に万全を期す可き所存なり(『昭和二四年村議会』)

 

とある。この史料から上富良野で開始された学校給食も、他の地域と同じように粉乳や放出缶詰の配給によりまかなわれていたことがわかる。また昭和24年2月には上富良野小学校の児童給食用炊事場が増築され、7月には旭野小学校の学校給食室の工事が完了し、創成小学校では24年のPTA役員選挙で給食実行委員長に四釜卯兵衛が任命されている。一方翌25年3月31日の村議会で、教育部長は、村内の給食実施校は「江幌、江花、旭野」と答え、東中小学校の給食場の補修も問題になっている(『昭和二五年村議会』)。とすれば、少なくとも昭和25年までには江花、上富良野、旭野、創成、東中、江幌の各小学校で給食が開始され、そのための施設整備がなされていたとみられる。

 

 学校行事の再開

 戦争が終わって平和な時代が訪れると、戦争末期に中止されたさまざまな学校行事が続々と再開された。まず再開されたのは運動会で、創成小学校では国民学校時代の昭和21年6月10日に復活し、他校でもおそらく同時期に再開されたとみられる。また他校の運動会見学も行われ、たとえば創成小学校の児童は、昭和25年の6月1日に江花小学校、14日に日新小学校、15日に上富良野小学校、16日に清富小学校の運動会見学に赴いている(『創成小学校沿革誌』)。翌26年6月15日には上富良野小学校、上富良野中学校、富良野高校上富良野分校の合同運動会も開催された。

 学芸会は、創成小学校で昭和24年3月3日に実施され、旭野小学校でも昭和29年11月16日に行われて以後、毎年この時期に実施された。また旭野小学校でも、3月に桃の節句学芸会が開催されていることから、ひなまつりの3月3日は、各校で学芸会を実施する日だったと推測される。

 一方修学旅行は、国民学校時代の上富良野小学校で、昭和21年7月末に増毛へ海水浴へ行き、江花小学校でも同年8月に戦後第1回の修学旅行が実施され、行き先は札樽方面で、5、6年生が参加した。創成小学校では、昭和25年6月に増毛・別刈方面への旅行が行われ、旭野小学校でも昭和29年7月に留萌・増毛方面に旅行が行われ、4年生以上が参加した。また江花小学校では、郷土研究、火山研究の目的で修学旅行と隔年で十勝岳登山が実施され、創成小学校でも昭和25年には5月の春の遠足と10月の遠足が実施された。

 そのほかにもスポーツ行事として、上富良野小学校で昭和22年1月にはスキー大会が開催され、江花小学校でも昭和24年に第1回スキー大会が開催され、以後毎年実施された。創成小学校でも昭和26年2月に児童スキー大会が実施されている。

 またさきほどの他校の運動会見学のほか、昭和25年11月の中学校芸能祭見学、同年10月に開催された村内少年野球大会、28年9月14日の旭野と江花の交歓研究会、29年11月の町内連合学芸会、また30年11月24日の沿線の児童会や音楽会など、児童・生徒の交流も盛んに行われた。

 

 写真 上富良野小と上富良野中の合同運動会(昭和26年)

  ※ 掲載省略

 

 教育研究会の再開

 軍国主義教育への反省と教育改革による教員の自主的教育活動の要請、新しい教育方法の導入など、戦後の教員たちはさまざまな問題に直面し、教育研究組織の必要性が認識された。道内では昭和24年7月に道立教育研究所が設立され、調査・研究等の機構を設け、教育に関する実態調査を含めた史料収集と実践に関する研究が行われた。また市町村単位でも昭和30年10月までに40もの教育研究所が設立された(『新北海道史』第6巻通説5)。

 一方上富良野では戦前から教育研究が盛んに行われ、研究会なども開催されていたが、昭和22年10月14日に江花小学校で村内の教育研究会が開催され、教育研究が再開された。この時の内容は公開授業と懇談会で、それ以降毎年各小、中学校を順番に会場として研究会は開催され、年によっては登山会が実施されることもあった。

 また昭和23年7月には旭野小学校で美瑛、上富良野地区教員組合支部主催教育研究会が開催され、昭和26年8月には里仁小学校が単級複式教育研究指定校となり、同年10月3日の上川管内単複教育研究大会の会場となった。中学校では、昭和29年に江幌中学校が管内青年教育研究集会の会場となり、翌30年4月には東中中学校が道教育委員会上川教育局の研究指定校となるなど、上富良野の小、中学校が支庁や道の教育研究の場を提供することとなった。

 

 私学のはじまり

 上富良野における私学は、女子の洋裁学校の開校から始まった。これは全道的にもいえることで、昭和25年度の全道の各種学校はその85.1lが洋・和裁学校などの被服関係であった(『新北海道史』第6巻通説5)。昭和24年9月には上富良野高等家政女学校が開校した。同校は昭和24年9月28日鈴木弥江子を校長として栄町2丁目に設立され、本科110名、研究科95名、師範科60名、教員は専任7名、兼任2名と比較的規模の大きい学校であった。また昭和25年4月1日には千葉洋裁店が千葉洋裁専門学院を設置し、子弟の技術養成を行っている。校長は千葉美代子で、昭和27年4月には中町1丁目に移転し、昭和29年1月20日には道庁の各種学校開設の認可が下りた。

一方昭和26年3月27日には、東5線北18号に旭川中央洋裁女学校東中分院が設立された。同校は山中正顕によって設置され、経営は東中農協が行い、組合長の中西覚蔵が校長となった。教員は3名で生徒は本科40名、師範科10名であった。さらに昭和29年1月20日には錦町1丁目に竹谷愛子を学院長とする竹谷洋裁学院が設立された。教員は3名で、裁断科20名、本科20名、師範科20名の規模であった。そのほかにも旭川市の聖美洋裁学院の上富良野分院が昭和27年に開校され、佐川愛子が分院長を務めていた(『上富良野町史』)。

 

 写真 旭川中央洋裁女学校東中分院第1回卒業生

  ※ 掲載省略

 

 保育所の設置

 上富良野には、昭和4年5月1日に聞信寺に開設された農村託児所や、東中の源照庵寺に開設された銃後託児所があったが、戦後は昭和24年9月に「上富良野村立保育所」として再開された。しかし施設に関しては、聞信寺の破損が問題となり、旧青年学校校舎を利用する案などが出されたが(『昭和25年村議会』)、結局聞信寺を保育施設として利用することとなり、村立であるにもかかわらず施設面では戦前の個人経営と変わらないありさまだった(昭和39年8月・門上美義「幼稚園々舎建設趣意書」聞信寺蔵)。昭和26年の町制施行後は「上富良野町立保育所」となり、また当初は5月から10月末までの季節保育所だった(『上富良野町史』)が、市街のサラリーマン家庭などの入所も多かった(『昭和25年村議会』)こともあってか、27年には年間を通じて開所された。ちなみに入所する子供は、4歳から小学校に入学するまでの年齢で、入所者からは1人100円ずつ徴収しておやつ代金の一部とし、村からも1人100円の食費の補助があった(『昭和25年村議会』)。