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6章 戦後の上富良野 第5節 戦後の交通と通信

830-837p

4、通信の発達

 

上富良野郵便局の業務状況

戦後、GHQによって日本経済の自由主義化が促されると、電信電話の需要が高まった。しかし、極度に老朽、荒廃した電信電話設備を再建するためには、これまでの事業の画期的な改革が必要であった。その結果、逓信省が行なっていた電気通信事業と郵便事業を分離し、それぞれを強化することになり、昭和24年6月1日から逓信省は電気通信省と郵政省に分離した。ただし、これまで郵便局で行なわれていた電信電話業務は委託業務として、しばらくは郵便局が行なった。その後、電気通信事業は独立採算制に基づく公共企業体として運営すべしという声が高まり、やがて、同27年8月1日に日本電信電話公社が発足し、電気通信省は廃止された(『北海道の電信電話史』)。

電話の普及状況については後述するとして、ここでは上富良野郵便局の業務状況についてみてみよう。

これについては、上富良野郵便局の調査によれば別表のとおりである。

これらをみると、戦後しばらくは局勢が伸びずにいたが、30年代になって、国全体が経済成長へと向かっていく状況の中で、郵便局の利用者が増えていったことが分かる。この数字の中で、職員の合計数が、41年から46年にかけて大幅に減っているのは、45年7月に電話自動化によって交換業務が廃止され、19人の職員が転勤退職したためである。また、電報の利用が41年から46年の間に大幅に落ち込んでいるのは、51年度が電話加入者数2,564、電報発信数155、着信数305であったことを考え合わせると、電話の普及によるものと考えられよう。

以下、右と同じく、上富良野郵便局の調査に基づき、局の戦後の沿革を垣間見てみよう。昭和31年9月1日、木造モルタル一部2階建ての局舎を新築。同34年10月1日、旭川・富良野間の鉄道郵便路線が廃止となり、自動車郵便路線となる。同39年4月15日放送委託事務(聴取料徴収)の取り扱いを廃止。同43年7月1日より郵便番号制度が始まり、上富良野局内は071−05、東中局内は071−06、美馬牛局内は071−04となった(『広報かみふらの』第110号、昭43・7・29)。同45年7月24日、電話交換の自動化によって、交換事務が廃止される。同年11月6日、局舎内部を大改造し、車庫を新築。同年12月5日、上富良野郵便局開局七〇周年記念式典を挙行。

郵便局長は、2代目河村重次の後を受けて、河村善翁が昭和23年3月15日に就任し、同55年まで務めている。

 

6−21上富良野郵便局業務状況

年度

郵便物(引受)

為替(件数)

貯金(件数)

通常

小包

振出

払渡

預入

払戻

26年

850,450

1,951

3,281

1,671

14,182

2,749

31年

1,498,706

5,096

1,978

852

32,278

9,644

36年

1,221,495

7,071

1,281

1,074

35,431

9,544

41年

1,257,432

7,781

1,260

726

23,848

9,582

46年

1,239,040

7,919

1,275

915

25,066

11,223

 

年度

年金恩給

払渡(件)

国庫金(件数)

簡易保険

受入

払渡

件数

金額(円)

26年

33

1,625

26

16,176

4,749,866

31年

690

932

25

16,412

9,069,870

36年

653

1,464

29

11,781

14,574,464

41年

807

770

157

11,381

25,586,672

46年

981

1,811

656

9,614

55,696,175

 

年度

電話

電報

集配回数

ポスト

切手類・収入印紙売捌所

加入者数(人)

発信数

着信数

26年

88

7,489

8,493

1

9

10

31年

263

9,458

10,837

1

15

13

36年

324

9,821

10,219

1

17

12

41年

467

10,182

11,354

1

17

12

46年

978

308

1,198

1

18

12

 

年度

局長

局長代理

総務主任

主任

事務員

合計

26年

1

1

1

6

24

33

31年

1

1

1

8

31

42

36年

1

2

1

8

34

46

41年

1

2

4

10

37

54

46年

1

2

2

6

24

35

 

写真 上富良野郵便局(昭和26年)

※ 掲載省略

 

東中郵便局の業務状況

次に、東中郵便局について、やはり局の調査に基づいて、戦後の沿革をみてみよう。昭和26年4月1日、放送委託事務の取り扱い開始(聴取料徴収は同27年11月1日より開始)。同26年4月24日、石造り一部木造の局舎に改築移転。同35年9月1日、上富良野・東中間が自動車託送便路線となる。同42年10月25日、電報配達事務を廃止。

歴代局長は、初代西谷元右エ門の後を受けて、2代西谷勝夫が昭和18年9月10日から同30年6月15日まで務め、その後しばらく上富良野郵便局長河村善翁が兼務し、同年7月21日からは3代目の局長として高橋寅吉が就任し、同54年まで務めた。

 

電話の普及

戦後における電信電話は、復旧対策の実施によってようやく昭和24年になって電話加入者数が戦前の最高水準に達し、電信も終戦時の水準にほぼ回復した。しかし、加入を申し込んでも施設が滞ったり、電話を掛けても相手が出るまで時間がかかったり、電報が相手に届くまでに時間がかかるなど、その内容面では改善の余地が大いにあった。そこで、日本電信電話公社は、同27年から始まる第一期北海道総合開発計画と整合性を保ちつつ、同28年度から、5年を単位計画年度とする長期計画を実施した。

その結果、同26年7月1日に「電話設備費負担臨時措置法」(電話架設費用の一部を申込者にも負担させるというもの)が施行されたこともあって、北海道ではとくに電話の普及が目覚ましかった。同27年に、加入者数7万2,878人、普及率1.6lであったのが、第二次五カ年計画が終わる同37年度には、加入者数19万5,268人、普及率3.7lに増加している(『北海道の電信電話史』)。

上富良野町の戦後における電話の普及状況をみてみると、戦後間もない昭和21年に加入者数は62(『開村五十年村勢概況』)であったのが、同44年には普通加入480、地団電話(地域団体加入電話)275、農村集団電話696に増えている(1970年版『上富良野町勢要覧』)。21年の戸数は2,047戸、44年は5,062戸であることから、加入状況は、戦後すぐには約33.0戸に1戸であったのが、40年代半ばには約3.5戸に1戸と、その急増ぶりが分かる。

日本電信電話公社の上富良野町における電話事業の沿革を概略すれば次のようになる。まず、昭和26年5月1日に上富良野郵便局外に上富良野電話中継所を設置。同38年4月1日に上富良野電話中継所は富良野電報電話局に移転(『北海道の電信電話史』)。同38年東中地域団体加入電話組合の設立を受けて、上富良野郵便局の交換機を1台増設(『上富週報』第324号、昭38・9・20)。同45年に電話の自動化に合わせて上富良野電話交換局が設置された(『広報かみふらの』第134号、昭45・8・8)。

 

写真 上富良野郵便局の電話交換室(昭和36年頃)

※ 掲載省略

 

東中地域団体加入電話組合の設立

当該期に電話の加入が急増した背景には、町や地域の人々の強いはたらきかけがあった。すなわち、東中地区では住民等が東中地域団体加入電話組合を結成し、また、町や農協が主体となって農村集団自動電話の設置を実現しているのである。

ここではまず、東中の電話組合についてみてみよう。日本電信電話公社は農山漁村での電話の普及を促進するため、電信電話に関する第二次五カ年計画の一環として、昭和33年7月1日から「地域団体加入電話」の制度を実施した(『北海道の電信電話史』)。これを受けて東中地区の住民は、同37年7月ころから、ちょうどそのころ町の有線放送が運営に行き詰まって中止されていたことや、工事費が安くてすむことなどから、地域団体加入電話の話を進めた。そして、同年9月20日に地区住民が集まって組合結成総会を開き、初代組合長に床鍋正則を選出し、ここに東中地域団体加入電話組合が誕生した。

東中市街の松岡商店に交換機が置かれ、同38年3月19日から通話が始まった。当初加入は42戸、東中農協からの融資を運転資金にあてて事業を進めた。その後、組合員数は同39年に129戸、40年に182戸、41年には275戸に増えた。

組合員は交換を通して町内外と通話でき、また外部から東中に電話するときは、上富良野局の401、402番の東中地域交換所を呼び出して組合員の電話番号を指定して通話した。のちに、農村集団自動電話が通話開始となり、一般電話が自動化されると、東中電話組合でも自動化への期待が高まり、同46年2月1日から東中全地区で実施されることになった(『上富週報』第312号、昭38・6・7、同第五九八号、昭46・3・19)。

 

農村集団自動電話の設置

次に、農村集団自動電話についてみてみよう。この事業は、やはり、地域団体加入電話と同じく、農山漁村での電話の普及を促そうとしたもので、昭和38年度から始まった、電信電話に関する第三次五カ年計画の一環として取り組まれた(『北海道の電信電話史』)。

安い費用と債券で施設できるダイヤル式の電話ということで、同41年に町(企画室)や上富良野農協(指導部)が主体となって町内農家の希望を取りまとめ、農村電話設置期成会を発足させて推進したものである。全町の農家の希望者につけられるように、同41年から旭川電気通信部に要望するとともに、希望者がある基準数に達しないと特定の地域にしかつかないことや、他町村からも多くの要望が出されていることから、町の広報紙を通じて早く希望するように呼びかけた。

そして、同42年9月中旬から架設工事が始まり、8,000万円といわれる総工費をかけて同43年に開通の運びとなった。町内の北28号道路を境に南北2局に分け、北局の加入者は297戸で、元創成小学校横に交換所を置き、同年2月26日に開通した。南局は加入者396戸、西富区子供会館横に交換所を置き、同年3月11日に開通した。南北2局の加入者は合計693戸であった。電話の利用方法は、一般の電話と変わらず、同局内ではそのままダイヤルを回し、市街や町外にかけるときはいったん上富良野局を呼び出してから相手の電話番号を申し込むことになっていた。この農村電話の設置にあたっては、当時、その後の農業経営にどのような変化をもたらすか関心を持ってみられたようである。(『町報かみふらの』第87号、昭41・5・11、『広報かみふらの』第106号、昭43・2・19、『上富週報』第431号、昭43・2・23)。

なお、『上富良野町史』は「農村電話」について説明しているが、これは恐らく、日本電信電話公社が、昭和32年8月に策定した農山漁村電話普及特別対策の一環として推進した、農村公衆電話のことと思われる。これについては、史料が乏しいので、『上富良野町史』の記述を再録することにする。それによれば、「農村電話」は同32年に日新、同33年11月23日に清富、同33年に草分、同34年5月に江幌、同年春に江花で、それぞれの小学校に設置され、日の出には置かれなかったという。

 

一般電話の普及

戦後一般電話の普及も目覚ましかった。昭和21年の時点で62であった電話加入者は、同44年には480(普通加入)となっている(『開村五十年村勢概況』、1970年版『上富良野町勢要覧』)。そうした中で、次第に利用者から自動化への要望が強まった。市外電話をかけるときに、申し込んでから長時間待たなければならなかったためである。

そこで、電話局側では市外電話回線を増設し、同43年2月25日から、市街一般電話の半自動開式を始めた。その結果、市外電話の場合、いったん交換局の「市外係」を呼び出して、相手局と相手の電話番号を申し込み、そのままの状態で待っているとすぐ相手と通話することができるようになった(『上富週報』第431号、昭43・2・23)。

そして同45年には上富良野電話交換局が完成し、7月24日からダイヤル方式となり電話の自動化が実現している。その対象となった電話加入者は約910戸で、そのうち3器は青電話(ボックス)で、かみふマーケット横、上富良野駅前、上富良野神社裏宮沢商店横に置かれた。また赤電話(公衆電話)、ピンク電話(喫茶店、アパートなどの公衆電話)も設置され、人々の利用に供した(『上富週報』第571号、昭45・7・17)。

 

ラジオ・テレビの普及

戦後の復興期を経て、社会が安定し、経済成長が進み、国際交流も活発になると、人々の日常生活の中で、マスコミが伝える情報が次第に大きな意味をもつようになってきた。その結果、当該期においてラジオ・テレビの普及が大いに進んだ。

昭和25年に放送法が制定され、日本放送協会(NHK)は社団法人から特殊法人に移行し、民間放送の設立が許された。それによって、同26年から、中部日本放送、新日本放送がラジオ放送を始めている。またテレビ放送も、同28年2月にNHKが放送を開始すると、同年8月には民間として初めて日本テレビが放送を始めている。

北海道でもこうした動きに呼応して、同27年3月から北海道放送(HBC)が民間として道内初のラジオ放送を開始し、また、同31年12月にNHK札幌中央放送局がテレビ放送を開始すると、翌32年3月にはHBCもテレビ放送を開始している。その後、同34年4月に札幌テレビ放送(STV)が開局し、同43年1月には北海道テレビ放送(HTB)が道内初のUHF(極超短波)によるテレビ放送を始めている。さらに同39年9月にはテレビカラー放送が始まった。

こうした中で、上富良野町でもラジオ・テレビの普及が次第に進んだ。1952年版・昭和32年版・36年版・42年版『町勢要覧』、昭和45年刊・47年刊『北海道市町村勢要覧』によって、その様子を数字(契約数)で示すと別表のとおりである。

このうち44年以降ラジオの数字が見えないのは、42年度末にラジオ受信契約が廃止されたためであろう。

『上富良野町史』は、本町におけるラジオの登場は大正15年(1926)、テレビの登場についてはテレビ放送が始まる前から蝶野ラジオ店に取り付けられており、「放送開始の時は同時に相当な台数があったのである」と記している。しかし、右の数字をみるかぎり、テレビの普及は北海道でHBCやSTVなどの民間放送会社の放送が始まってからのことであったようである。しかし、その後急速に普及している。日本全体では昭和39年の東京オリンピックがテレビの普及に大きな役割をはたし、同44年のメキシコオリンピックがカラーテレビの普及を促したといわれるが、上富良野町でも同じ状況であったようである。

この間、同40年にはNHK富良野テレビジョン放送局が中富良野駅裏に建設され、同年11月から、NHKとSTVの電波を発射し、上富良野町の難視聴地域の解消に役立った(『町報かみふらの』第82号、昭40・11・3)。

 

6−22 ラジオ・テレビ普及状況

年度

ラジオ

テレビ

一般聴取

共同聴取

合計

自軍

カラー

合計

26年

411

1,007

1,418

 

 

 

31年

821

1,044

1,865

12

 

12

35年

550

1,170

1,720

1,014

 

1,014

41年

 

 

3,078

2,923

 

2,923

44年

 

 

 

2,901

300

3,201

46年

 

 

 

1,755

1,519

3,274

 

有線放送の普及

有線放送は、無電灯地域やラジオ受信不良な地域において、防空警報やラジオなどの共同聴取のために設備したものを母体として始められたもので、北海道では昭和18年に喜茂別村で設けられたのが最初であった(『北海道の電信電話史』)。

上富良野町での有線放送は全道でも一、二を誇る古さであるとして、『上富良野町史』は、本田茂「ラジオ共同聴取の沿革」(昭和25年2月刊)に基づいて詳しく記している。それによれば、本町の有線放送は、昭和15年ころに東中の農業床鍋正則等が無電灯地域でラジオを円滑に聴取できるようにしたいという思いで着想したものであった。やがて床鍋は本町の蝶野ラジオ店の協力を得て、電灯のある家に親受信機を置き、無電灯地域に有線ラジオを送るという共同聴取施設を作り、同21年には東中全戸で受信できるようにし、同22年10月1日に逓信局より正式に許可を得たということである。

その後、その共同聴取施設が全村に普及すると、地区ごとの施設は統一され、その運営母体として同25年に有線文化協会が設立された。この間、施設も、ラジオをただ聞くだけのものから、中央送信所からマイクで連絡できるようになり、さらには、その連絡に対して応答できるようになった。

しかし経営難から、同32年7月に解散せざるを得ず、放送も一時休止となった。そうしたところ、有線放送に関する法律が改正になり、北海道電波監理局から事業を継続するには新たな申請が必要との督促を受け、町や農協などで相談の結果、新しい施設を以て再出発することになった。

この法律改正は、有線放送の普及によって日本電信電話公社の電話に障害が起きるようになり、また従来の法律では禁じられていた通話が公然と行なわれるようになったため、両者を解決する趣旨で行なわれたものであった。

こうして、昭和33年12月21日に上富良野町有線放送協会が設立され、本部を公民館に置き、東中に支部を置いた。町の34年度予算の中から390万円以内の助成を受けて、施設工事を同34年5月から始め、同年8月に完成した。その間、上富良野町有線放送協会を、会長を町長とし、副会長を上富良野・東中両農協組合長とする社団法人とすべく要請を行ない、同年8月にそれが認められた。そして運営上の規則として制定した「上富良野町有線放送協会有線放送電話及び有線放送規定」をもとに、町内全戸を対象に9月1日から放送を開始した。

その利用方法は、まず、町内各地域に実行組合長を置き、そこにスピーカーテレホン(従来のスピーカーに電話器を付けたもの)を備え付け、各加入者宅にはスピーカーを取り付けた。スピーカーテレホンは、普段はスピーカーからラジオが流れているが、スピーカーについている電話器を取ると本部の交換機につながり、他のスピーカーテレホンと通話することができた。ただし電話局の交換とはつながらなかった。本部と各加入者との間はこれまでと同じく連絡応答が可能で、さらに実行組合長宅とも連絡応答が可能であった。(『町報かみふらの』第6号、昭33・11・21、第7号、昭34・1・1、第13号、昭34・8・1、号外、昭34・8・25、第14号、昭34・9・15)。

こうした有線放送は、電話が普及するまでのあいだ人々の情報交換の手段として大きな役割をはたし、とくに無電灯地域への貢献は大きかったようである。

しかし、低額の聴取料であったこともあって、修理や利用者からの苦情への対応が思うに任せず、昭和38年4月から再建か廃止かの議論が起こり、それ以来放送が中断されるに至った(『上富週報』第303号、昭38・3・29、第312号、昭38・6・7)。

そして翌39年になって、これまでの放送業務を取り止め、施設を消防本部に移し、災害その他の連絡に使われるようになったという(『上富良野町史』)。

38年には東中地域団体加入電話組合が結成され、同41年からは農村集団電話への呼びかけが始まっており、このころ、有線放送はその普及にともなって派生した、住民間の通話という一つの使命を終えたといえよう。

 

写真 上富良野有線放送協会交換室

※ 掲載省略