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6章 戦後の上富良野 第5節 戦後の交通と通信

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1、道路整備の進展

 

 北海道総合開発の進行と上富良野管内の道路事業

 ここでは戦後の交通・通信について扱うが、一応、昭和40年代半ばまでを視野に入れて述べることにする。これは、日本経済が1960年代の高度経済成長期を経て、70年代には低成長期に移行すること。第二期北海道総合開発計画が終了すること。さらに、昭和44年に上富良野町で総合開発計画が初めて策定され、それ以後その方針のもとにさまざまな施策が実行されていることなどによる。

 まず、戦後の北海道開発や道路事業の概要について、『新北海道史』(第5巻通説5)を中心に述べてみよう。

 戦後まもない北海道には長期的な開発計画は存在せず、道路事業も、昭和21年を計画最終年度とする「北海道第二期拓殖計画」に基づきつつも、同20年11月に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」に応じて進められた。

 「緊急開拓」とは、同年の米の不作にともなう食糧不足、復員による人口増加、戦争による生産施設の損失にともなう失業者の増加などに直面した政府が、食糧増産と人口収容のため、帰農を促そうとしたものである。この時、北海道は70万町歩(約69万4,400f)の開墾と、20万戸の受け入れを予定された。

 また、北海道はこうした開拓地として注目されたばかりでなく、敗戦によって海外の植民地を失った当時において、産業復興に必要な資源の供給地としても重視された。それ故、戦後しばらくの間は、道路事業も開拓道路・生産道路事業がその中心に置かれた。

 一方、この緊急開拓事業が進むなか、北海道開発に関して、拓地殖民から、産業の基盤整備と高度化をめざした総合開発へと脱却しようとする動きもみられた。それは実施はされなかったが、昭和23年9月に北海道庁によって北海道総合開発計画としてまとめられた。

 この総合開発への指向は、やがて、米ソ冷戦や中華人民共和国の台頭によって日本を取り巻く極東情勢が緊迫するなかで一層強まった。すなわち、同25年に朝鮮戦争が勃発し、その特需によって日本の経済回復が促され、また、翌年にはサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が締結され、日本が独立国として国際的な承認を得るに至り、北海道がこれまでに期待されていた開拓地、資源供給地としての役割が低下したためである。

 こうした状況の中で、総合開発を推進するための組織づくりがいち早く進められ、同25年6月には北海道開発法が施行され、総理府の外局として北海道開発庁が設置された。翌年には、政策実施機関として北海道開発局が札幌市に置かれている。

 北海道開発庁は企画立案を本務とし、北海道開発局は農林、運輸、建設各大臣の監督を受けつつ、それぞれの所轄事業を執行した。開発局には下部機関として開発建設部が設けられ、道内主要都市に置かれた。この機構に従えば、上富良野町を通る国道は、建設大臣の監督を受けつつ、旭川開発建設部の手によって維持されているということになろう。

 こうした体制のもと、いよいよ総合開発計画が実施されることになる。その最初は、北海道開発庁が昭和26年10月に決定した、北海道総合開発計画(10カ年、のちに第一期と称された)の前半部分にあたる、昭和27年度〜同31年度を計画年度とする第一次五カ年計画である。

 この第一次五カ年計画は、のちに資源開発的性格が強く、食糧増産と人口収容に力点が置かれ、産業振興のための基盤整備という目的が果たされなかったという批判を受けるなど、十分な成果をあげることはできなかった。

 しかし、この間に道路行政について、非常に大きな動きがみられた。それはまず、大正8年(1919)制定の道路法が昭和27年6月に全面的に改正された。この新道路法では、全国の道路は一級国道・二級国道・都道府県道・市町村道に分類され、その他に、北海道には道道や市町村道のうち建設大臣が開発にとくに必要と認めて指定する開発道路が設けられた。この時、上富良野管内を通過する地方費道浦河旭川線が二級国道237号線に名称変更されている。

 また、昭和28年には国費道路事業の特定財源に関する「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が制定されると、これに基づき5カ年を計画年度とする道路整備計画が国によって策定され、同29年度を初年度に実施されることとなった。これを第一次とし、その後平成9年まで、第二次の計画が策定され実施されている。この道路整備計画が策定された結果、北海道総合開発計画の道路事業はそれとの整合性をはかりつつ実施されることになった。

 北海道総合開発第一次五カ年計画の反省にたち、日本の経済回復が軌道にのるなか、国民経済のなかで北海道開発がいかなる地位をしめるかという観点で、基礎的開発から発展促進的開発への飛躍をめざした第二次五カ年計画が昭和33年から実施された。

 しかしながら、国が「所得倍増計画」(10カ年)を策定し、同36年から実施するようになると、北海道総合開発計画も見直しがはかられ、産業の高度化を進め、国民経済に寄与しつつ、北海道経済の自律をめざす新たな長期計画が立案された。それが、同38年〜同44年の8年間を計画年度とする第二期北海道総合開発計画であった。

 この計画の特徴としてあげられるのは、拠点開発方式といわれるものである。これは、高度成長策にともなう地域格差の是正策として立案されたもので、開発効果のもっとも高くなるような地区を選び、そこに投資を集中し、さらにその効果をその地区と依存関係の深い周辺の地域に及ぼして、地域全体の発展をめざそうとしたものであった(『北海道開発局十五年小史』)。

 この第二期総合開発計画では、中核工業地帯として道央地区と釧路地区の2地区、開発拠点都市として旭川地区を含む6地区、また、低開発地域工業開発地区として、11地区が指定され、上富良野は、中富良野、富良野、山部とともにこの低開発地域工業開発地区の一つに指定された。この計画に基づき、旭川市は上富良野町を含む周辺地域との接続を考慮した発展が期待され、そのため、具体的には旭川市と上富良野町を結ぶ国道237号線の整備が進められることになった。

 このように戦後における上富良野町管内の道路事業は国の道路整備計画や北海道の総合開発計画などに影響されつつ実施されることになるが、もう一つ特筆すべきこととして、昭和41年に「防衛施設周辺の整備等に関する法律」が制定されたことをあげることができる。すなわち、自衛隊が駐屯する上富良野町では防衛施設整備事業の一環として道路整備が行なわれることになったのである。

 なお、この間の北海道の道路延長は、北海道第二期拓殖計画の最終年度にあたる昭和21年に4万2,038`b、北海道総合開発第一次五カ年計画開始の直前の同26年には4万4,402`b、同計画の最終年度の同31年には5万2,159`b、第二次五カ年計画の最終年度の同37年には5万8,952`b、第二期北海道総合開発計画の最終年度の同45年には6万7,865`bに延びている(『北海道道路史』T行政・計画編)。

 

 管内幹線道路の整備

 戦後間もないころ、上富良野村管内には主要道路として、地方費道浦河旭川線(昭和13年認定)・同旭川吹上線(同10年認定)・準地方費道旭中上富良野停車場線(同19年認定)があった。

 このうち地方費道浦河旭川線は、昭和27年に制定された新道路法に基づき、二級国道237号線(旭川浦河間、同28年5月18日政令第96号)に認定された。その後、同39年に再び道路法が改正されて国道の一・二級の区別が廃止され、全て一般国道と呼ばれるようになった。その結果、二級国道237号線は同40年3月29日政令第58号によって、同年4月1日から一般国道237号と改称された(『北海道適用史』T行政・計画編)。

 他の2線は新道路法制定後に道道と認められ、それぞれ道道44号旭川吹上線、道道155号旭中上富良野停車場線となった。

 しかし、前者は同29年、後者は同32年に廃止されている(北海道旭川土木現業所富良野出張所所蔵「路線認定資料」)。

 新道路法施行以後、上富良野町管内で道道に認定された路線を、「路線認定資料」をもとに列挙すると次のとおりである。

 

 吹上上富良野線(291号、昭和32年7月25日告示第1487号)

  ・吹上温泉から国道237号線との交点に至る路線、同29年に道道旭川吹上線が廃止されたのを受けての措置。

 上富良野旭中富良野線(298号、昭和32年10月1日告示第1622号)

  ・通称斜線道路。

 上富良野停車場線(299号、同右)

  ・上富良野駅から国道237号線の交点に至る路線で、同32年に道道旭中上富良野停車場線が廃止されたのを受けての措置。

 美沢上富良野線(353号、昭和36年3月31日告示第616号)

  ・美瑛町宇美沢から上富良野町に至る路線。

 芦別美瑛線(70号、昭和40年3月26日告示第553号)

  ・芦別市から美瑛町に至る路線で、上富良野町管内北端の一部を通過。

 留辺蘂上富良野線(581号、昭和42年3月31日告示第525号)

  ・美瑛町字ルベシベから上富良野町に至る路線。

 

 1970年版『上富良野町勢要覧』に、昭和44年4月1日現在の道路状況が示されている。それによって当該期の幹線道路の整備状況をみてみると、次のとおりである。

 

〔道路〕

総数

国道

道道

町道

路線数

238

1

6

231

延長q

358.7

13.6

31.6

325.0

舗装延長q

30.9

13.6

7.3

0

〔橋梁〕

総数

国道

道道

町道

92

3

15

74

永久橋

36

3

6

27

木橋

56

0

9

47

 

 これによれば、拠点都市旭川とを結ぶ国道がいち早く整備されたようで、管内通過の全線が舗装され、橋も全て鉄筋コンクリートなどによる永久橋に架け換えられている。上富良野管内の最初の舗装工事は、国道のうち、駅前から上富良野郵便局までの延長373b、幅員二bで、昭和34年の竣工であった(『北海道新聞』昭34・5・19)。道道も4分の1が舗装され、ほぼ半数が永久橋となっている。それに対して、町道は今だに舗装がされず、橋も全て木造のままであった。

 この間、国道の路線切り替えが2カ所で行なわれている。1つは北28号道路が国道と交わるところで、そこからやや東側(線路側)に路線が切り替えられた。昭和30年頃のことである。この結果旧道は廃止されることになったため、沿線住民から同30年5月付けで旧道存置の請願書が提出されている。また、北28号道路から切り替えられた国道に入線するのに急カーブを余儀なくされたので、「創成・江幌・静修二十八号道路関係者」は直線で入線できるように改修するよう、同年8月11日付けで請願を行なっている(上富良野町議会公文書「昭和三十年一月〜三十二年十二月請願書」)。しかしその改修工事は行なわれていないようで、今日でも、北28号道路から国道にはいるのには大きく曲がらなければならない。

 もう1カ所は草分地区の西3線道路と西4線道路に挟まれた部分である。ここでは国道が線路を2カ所で踏み切っており、早くから住民の間で危険が指摘されていたところであった。ここが、開発建設部の手によって昭和35年に改修され、線路の西側に沿う延長800bの新路線が設けられた(『上富週報』第166号、昭35・5・13)。線路の東側に残された旧国道はその後も存続し、今日も町道として利用されている。

 

 写真 市街大通り道路改修工事(昭和35年)

 写真 昭和初期の上富良野橋

  ※ いずれも掲載省略

 

 町の発展をめざした道路開発計画の推進

 当該期の上富良野町では、農業発展の限界という認識のもとに、観光産業の振興と資源開発をめざす、「大自然の環境を極度に利用する計画」が急がれた(『上富週報』第156号、昭35・2・19)。その結果、この目的を達成するために、いくつかの道路開発が計画された。すなわち芦別と上富良野と美瑛を結ぶ道路、十勝岳産業開発道路、十勝岳新得間道路などがそれである。これらは関連をもって計画され、ほぼ並行して進められた。

 まず、芦別・上富良野・美瑛間道路については、これら3市町の間で昭和34年前後から共同歩調をとって進められたもので、芦別と上富良野を江花経由で直結し、その途中の美瑛町二股から美馬牛を通り美瑛に至る道路であり、自衛隊も演習道路として重視したという(『上富週報』第156号、昭35・2・19)。上富良野町は、芦別方面に行くのに富良野町を経由しなければならない不便を解消すること、江花地区を中心とした西部地区を開発することを意図し、同34年9月24日、10月1日には土木常任委員が予定路線の現地調査を行なっている(『町報かみふらの』第15号、昭34・10・23)。この道路はのちに、道道芦別美瑛線(同40年)・道道留辺蘂上富良野線(同42年)として認定された。

 十勝岳産業開発道路の計画は、同34年12月開催の臨時町議会において、商工会会長山本逸太郎から提出された、中茶屋から旧噴火口に至る道路の開発に関する請願が採択されたことから本格化した(『町報かみふらの』第17号、昭35・1・1)。その後、測量調査、十勝岳温泉の建設に関する厚生省への認可申請、自衛隊との協議などを行ない、開発すべき道路を、道道吹上上富良野線中茶屋分岐点から翁、十勝岳温泉を経由し、三段山の中腹を経て吹上温泉跡に至る、延長13.5`b、幅員6.5bとした。そして、同36年に自衛隊法第100条に基づいて自衛隊と委託契約を結んだ。なお、工事にあたり、上富良野町は同年7月24日の町議会でこの道路を町道に認定し、十勝岳線と命名した(『上富週報』第225号、昭36・7・28)。

 上富良野町はこの道路によって、温泉を中心とした観光事業の振興、翁温泉跡一帯の褐鉄鉱、旧噴火口の硫黄などの資源開発を推進しようとしたのである(『北海道新聞』昭36・11・9)。しかし、難工事にともなう財政的負担の増加、国費による施工の陳情がうまくいかないことなどによって、工事の進行が困難となり、昭和37年には、議会内で本年を以て工事を打ち切るという声が強まった。それに対し、商工会は工事の継続を陳情し、その結果、工事の継続が決まった(『上富週報』第289号、昭37・11・23、同第291号、昭37・12・11)。こうしたもたつきは、当時道庁関係者から「上富良野町の観光事業は全道一不熱心」と批判されたことと無関係ではないであろう(同第178号、昭35・8・5)。工事の進捗は商工会など民間の後押しによっても支えられていたのである。

 また、この工事にあたっては町に一大事件が起きている。それは、工事の中止が回避された後の昭和38年のことで、選挙後の政治状況が緊迫した中で、自衛隊との工事契約に絡んで町長が議会無視をしたとの批判が高まり、村上国二町長と議会がともに辞職するという事態を招いたのである(同第230号、昭38・11・1)。これを受けて同年8月25日に行なわれた選挙では村上前町長が敗れ、新町長に海江田武信が当選した。

 こうした政情不安はあったものの、結局、十勝岳産業開発道路は昭和36年8月に中茶屋で起工式をあげてから本格的に工事が始まり(『町報かみふらの』第37号、昭36・9・5)、5年後の同40年に中茶屋から十勝岳温泉凌雲閣までの道路として完成した。

 その工事経過は次のようであった。なお、数字は資料によって異なるので、ここでは『町報かみふらの』第81号(昭40・10・5)をもとに記すことにする。

 

 

年度

工事請負人

道路延長

第一期工事

昭和36年

上富良野駐屯308施設隊

中茶屋から4,100b

第二期工事

37年

恵庭駐屯104施設隊

2,146b

第三期工事

38年

上富良野駐屯308施設隊

1,360b

第四期工事

39年

岩見沢駐屯102施設隊

500b

第五期工事

40年

2師団(旭川)施設隊

凌雲閣まで620b

 

 この十勝岳産業開発道路の新設と並行して、町は十勝岳温泉・吹上温泉・美瑛町白金温泉を結ぶ、十勝岳観光環状道路の開発を計画していた(『北海道新聞』昭38・10・27)。これらはのちに完成し、十勝岳産業開発道路は最終的に、中茶屋から十勝岳温泉を経由して吹上温泉に至る、道道吹上上富良野線の新しいルートとして認定されている。そしてこの間に、これまでの道道吹上上富良野線の中茶屋から吹上温泉間が道道認定を取り消されている。また、十勝岳温泉と白金温泉を結ぶ道路は昭和54年に道道十勝岳温泉美瑛線に認定されている。

 他方、町は十勝岳温泉が行き止まりの観光地であることを解消するため、十勝岳温泉から山岳地帯を縫って十勝の新得町に抜ける観光ハイウエーの開削も計画していた(『北海道新聞』昭39・9・16)。これは大雪国道に対抗する意図もあったのであるが、これに対応する道路は今だに開削されていない。

 

 写真 十勝岳産業開発道路起工式

  ※ 掲載省略

 

 町道の整備

 当該期の道路事業を上富良野町の決算書によってみてみると、昭和27年までは土木費の7割以上が道路橋梁費で占められており、同22年に至っては全額が道路橋梁費として使われている。また、道路橋梁費の内訳をみると、同30年まで道路や橋の維持費に全て当てられ、新設改良費は同22年に橋に計上されているだけであった。同31年以降に新設改良費が計上されるようになるのは、恐らく、同29年から国の道路整備五カ年計画が始まっていることと無関係ではないと考えられる。

 戦後間もない昭和21年における町村道は、同年10月の『開村五十年村勢概況』(役場所蔵)によれば、総延長173.104`bであり、そこに架かる橋は63であった。それが、前掲した1970年版『上富良野町勢要覧』によれば、同44年4月1日現在で町村道は総延長325.0`b、そこに架かる橋は74となっていた。この間に町村道は約2倍に延び、橋が11増えたのである。

 昭和41年には「防衛施設周辺の整備等に関する法律」が制定され、自衛隊が駐屯する上富良野では防衛施設整備事業の一環として道路整備を行なうことが可能になった。

 そこで、当該期にこの法律が適用されて行なわれた防衛施設周辺整備事業をみてみると、同46年度までに約42億円が使われたことがわかる。そのうち道路事業として、「重車両の通過により道路損壊が激しいため」という理由で、同44年度完成の東2線道路改修工事と、継続事業である北19号、倍本道路の改良工事が行なわれている(『広報かみふらの』第156号、昭47・5・18)。

 町の広報(創刊は昭和33年5月20日)の記事から、当該期の主だった町道に関わる道路事業をみてみると次のとおりである。

 

年度

工事内容

33

エホロカンベツ地区開発道路新設、北23号・北27号・西3線・島津・旭野各道路改良、第27号橋・鰍橋補修

35

19号道路改良、ペペルイ橋架換

36

十勝岳産業開発道路第一期工事

37

十勝岳産業開発道路第二期工事、市街地道路新設、第26号橋・江花橋架換

38

十勝岳産業開発道路第三期工事、北19号・ペペルイ零号線改修工事

39

十勝岳産業開発道路第四期工事、上富良野橋(通称涙橋)・第45号橋・金子第3号橋・第2養老橋・伊藤橋(西4線北29号)・報徳橋・35号橋架換、第22号橋補修

40

十勝岳産業開発道路第五期工事、西1線・西3線各道路新設、東5線・東7線・静修開拓道路改良、上富良野橋・第5号橋・第20号橋・坂下橋・沼崎橋・稲垣橋架換

42

2線道路改良、第28号橋・鹿の沢橋・佐藤根橋・妙見橋・創成橋(旧名28号橋)架換、第1号橋・第22号橋・金子第1号橋補修

43

2線道路改良、第7号橋・第28号橋・西2線橋・金子1・2号橋架換、第22号橋補修

44

19号・北24号・北29号・西2線・山花各道路改良、5丁目歩道橋新設、共和橋架換、第22号橋・東明橋補修

45

17号・北19号各道路改良、第24号橋・金子第4号橋・第2あかしや橋(通称小田島橋)

 

 また、北海道の道路にとっては冬期の除雪が大きな問題である。この間題については、昭和31年4月に「積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法」が制定され、これに基づき、道路整備五カ年計画に対応しつつ、雪寒事業計画が実施されることになり、北海道の除雪事業に国の補助が得られるようになった(『新北海道史』第6巻通説5)。

 北海道では、昭和20年の冬から占領軍の指示で道路の除雪が本格的に始まったという(同右)。

 上富良野町で本格的な道路の除雪が始まったのは、同34年にブルドーザを580万円で購入してからのようである(『町報かみふらの』第13号、昭34・8・1)。このブルドーザは、遠隔地の町道や、市街地の裏通りまで除雪を行ない、「一昨年前までは夢想もしていなかった」と町民に大いに感謝された(『上富週報』第199号、昭36・1・20)。

 さらに、町では同41年12月に前述した雪寒事業による補助を受けて新型除雪車「スノーローダ」(雪を巻き込んで跳ばす機械)を購入し、作業能率の向上に努めている(『町報かみふらの』第95号、昭42・1・1)。

 

 写真 中町2丁目付近の側溝工事(昭和40年頃)

  ※ 掲載省略