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6章 戦後の上富良野 第4節 自衛隊演習場の誘致

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4、駐屯地誘致と部隊の移駐

 

 駐屯地の誘致へ

 29年2月の保安隊の回答を得て、町は次に本格的に駐屯地の誘致に乗り出すことになった。当時駐屯地の誘致は各地で行われており、保安隊側は、交通の要衝である富良野を予定していたようである(『ふらの原野三十周年記念号』での駐屯地業務隊の大森明事務官の寄稿)。そこで演習場設置にからめて要望することにしたのである。さっそく議員協議会を開き、全議員の賛成を得て「陳情書」を作成することとなった。

 

    「北海道空知郡上富良野町に保安隊常駐部隊設置方陳情書」

 北海道空知郡上富良野町十勝岳山麓一帯を演習場として着目せられ多年に亘り調査研究の結果漸く関係機関との連絡を終り本町の要望事項を諒承されて早急に設置せられる動向の様に承ります

 仄聞する所に依れば近く北辺防衛上の見地から本道に保安隊増設の計画あるやに承りますので本町内の適地に是非常駐を決定され併せて演習場も決定して本町民の諒解と協力の下に圓満に貴方の計畫を達成されます様懇請致します 御承知の通り演習場設置は農村都市として充実しつゝある本町の形態を一部破壊することゝなり発展の進路を阻む事となりますので豫て御願いの通り町発展に寄與するため之が裏付として枉げて常駐部隊の増設確定と合せて演習場を是非本町に設置されますよう陳情する次第です

 尚設置決定の暁には四囲の事情よりして兎角の難儀は有りますが御期待に副ふべく協力申上げます

 

 町長・議長らはこの陳情書を携えて上京し、保安隊に出向き演習場設置の七項目の要望を再確認するとともに、駐屯地設置を要請した。また駐屯地設置に伴う様々な影響を調べて事前に対策を立てる必要性から、既に駐屯地が置かれている他自治体の実態調査を行うこととした。

 

 自衛隊の設置

 29年3月政府は、「防衛庁設置法案要綱」と「自衛隊法案要綱」のいわゆる防衛2法案を国会に提出した。後者で自衛隊は、「わが国の平和と独立を守り国の安全を保つ」ため、「直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当る」(3条)ものとされた。すなわち自衛隊は、国内治安維持のために一般警察力を補い、特別の必要がある場合に行動するとされた警察予備隊や保安隊とは、異なる任務をもつこととなった。両法案が施行された7月1日には防衛庁が設置され、自衛隊が発足した。全国の隊員数は約16万5,000人に増強された。また自衛隊発足に伴い、アメリカ陸軍は同年度中に北海道を撤退することとなったため、代わりに本州から部隊が移駐してきた。そして従来の北部方面隊と第二管区隊のほかに、新たに帯広に第五管区隊が置かれることとなり、隊員数も全道で4万5,000人に増強されるなど、北海道の警備体制を整えた。このような北海道重視の姿勢の結果、演習用地の取得はさらに緊急性を増さざるをえなくなったのである。

 

 誘致の決定

 結局自衛隊側は、3,200町歩以内にしてはしいという町の要求を受け入れ、大演習場を断念し中演習場とすることにした。さて29年2月には同年度のキャンプ新設の方針が決まり、上富良野には特科(砲兵)部隊と特車(戦車)部隊を設置することが報道された(『北海道新聞』昭29・2・28朝刊)。そして3月になって漸く駐屯地誘致が決定したことが、町に知らされたのである。5月26日保安庁は13万人への増員後の部隊配置について国会に資料を提出し、その中で上富良野への移駐人員が2,800名であることが明らかにされた(『北海道新聞』同5・27朝刊)。

 駐屯地の誘致の成功にともない、保安隊にかかわる町の業務も増えてきた。そこで企画室を新設し助役に室長を兼任させ、保安隊事務及びそれに関連する行政、さらに町の総合的開発を担当させることにした(3月23日臨時第1回町議会での町長の答弁)。

 5月26日には防衛庁係官が演習場予定地内の各戸の調査を開始し、6月9日に土地所有者に対する全体会議が開催された。

 7月からは防衛庁札幌建設部旭川支部による立木及び家屋移転の調査が町の協力を得て行われ、用地取得調査は本格化した。

 このような動きの中で8月2日に開催された第3回防衛庁用地取得連絡協議会の席上、防衛庁は農林省を通じて正式に道庁に対して上富良野キャンプ35町歩を申し入れた(『北海道新聞』旭川版、同8・4夕刊)。この内容は9月14日になって上川支庁に知らされ、支庁は翌日から現地調査を行い、保安道路や農業事情などを知事に答申することになった(『北海道新聞』旭川版同9・15朝刊)。

 ところが用地買収の遅れのみならず、保安隊側の予算不足もあって、結局29年度中のキャンプ設置は見送られることになった(『北海道年鑑』30年版)。しかしながら補償価格の折り合いがつかないまま、キャンプ工事そのものは8月には始まる (『北海道新聞』旭川版同9・15朝刊)。

 

 用地の買収

 演習場及び駐屯地設置の決定後、用地の買収交渉が本格化した。用地買収にあたっては、買収地の補償額をどういう基準で決めるかが難問であった。町議会の常任委員長6名と町長らが種々相談しながら、保安隊と交渉することとした。町側は地目別の計算方法を示しつつ補償を要求したが、保安隊側は大蔵省の意向を受けて低めの額を提示したにとどまり、5月から始まった交渉は難航した。

 しかし、駐屯地の誘致は各地で行われているという状況を踏まえると、町としても強硬な方針をとることもできず、町長らはたびたび上京して、これまでも側面から協力してきた町内出身の参議院議員の石川清一を交えて、細心の注意を払いながら時間をかけての折衝を行った。

 なかでも潅漑用水の確保に不安を感じている農業関係者の意向を受けて水源涵養林の維持に全力を尽くし、結局850万円の補償と8年以上たっている人工造林を10年間存置するという事でまとまった。11月になって漸くこの間題は決着する。この過程で買収対象となった町民からは「十人代表」が選ばれて、町と関係町民との間に立って交渉にあたった。12月末になって関係者に補償金が支払われたのである。

 敷地買収状況については、町当局作成の『二十九年度事務報告』には、

 

 一、演習場敷地買収状況

  原野   二二一六町二六歩(防災林五〇〇町を含む)

  畑    三四四町六反三歩(現地測量の上決定する)

  水田   二町八反(現地測量の上決定する)

  宅地   五町三歩

  防災林  四三六五四石(五〇〇町)

  立木   三二二六一〇石

     被買収人員  二五三人

     移転戸数   六八戸(内作小屋一二戸を含む)

 二、キャンプ敷地買収状況

  田    三町九反六〇八歩

  畑    二五町九反一二三歩

  宅地   八反六〇三歩

  原野   二町七反九二二歩

     被買収人員  一六人

     移転戸数   一〇戸(内作小屋一戸を含む)

 

と、記されている。またその金額については、30年の定例第3回町議会(8月23日)の席上で明細の説明が行われ、

  買収費受入額  二億二六六九万五八九〇円

     支払額  二億二七一五万八七八〇円

  町への寄付金としての受入額  一九六万二三四〇円

と報告された。

 

 自衛隊の受け入れに伴う町の準備

 町は用地の買収のみならず、立退者への配慮や自衛隊員の受け入れに伴う様々な問題に対処することも迫られた。

 演習場設置により住居の移転に追い込まれた関係者のために、町は「転貸資金の一時借入」を定例第3回の町議会に提案し(29年9月9日)、10月28日の町議会で承認された。これはキャンプ建設に伴い引っ越しせざるを得ない農家のために、町が保証する形式をとって、補償金を受け取るまでのつなぎの資金として1,000万円を銀行などから借り入れようとするものであった。また自衛隊員子弟の増加に対応するため、上富良野中学校の体育館の建設も行っている。

 なかでも難題となったのが、自衛隊員のための住宅問題であった。町は駐屯地設置にあたって保安隊と協定を結んだが(正式な協定書は残されていない)、その一項に隊員住宅の確保が取り決められていた。30年中に自衛隊側で建設する住宅は114戸の予定であったが、必要となるのは210戸余りであり、この差の100戸余りを町側で負担し建設するというのが協定内容であった。町では職員が町内のみならず、中富良野・富良野まで足を延ばして、住宅の確保を図ったが、はかばかしくなかった。そこで公営住宅の建設を議会に提案することになった。

 しかし町の財政は苦しい状態が続いており、経常経費を賄うだけで精一杯であった。そこで100戸を修正して、町の負担分を50戸とし、残りの50戸については商工会の有志が出資者を募り750万円で建設を引き受け、建設後3年以内に町有として買収することを議会に提案したのである(30年8月17日町議会での助役の説明)。議会は、財政難とはいえ最終的に町が負担する債務負担行為に関わる議決であり、またこの協定自体が全議員には知らされていなかったという事情もあり、全員協議会で相談することにした。翌日の議員協議会では、結論として第一期工事として50戸を町営の名で建設し、その後年間250万円を支出して残りを3カ年で買収することにした。しかし住宅建設後も財政難は解消されなかったため、予定通りには買収できず、問題を残した。

 

 自衛隊の移駐

 補償額の交渉中の29年9月5日には、駐屯予定地において地鎮祭が行われ、工事が始まった。翌年8月15日には落成し、いよいよ待望の自衛隊の移駐を迎えることとなった。30年の『事務報告』などによって、駐屯地についてのその間の動きを追うと、

 

6月

幹部その他営外居住者の住宅斡旋(138世帯)

7月

官舎敷地の買収と整地作業

8月15日

先遣隊が到着(幹部及び営外者の部屋探しのため)

9月 1日

第二特科連隊の主力が旭川から移駐

   6日

第二特車大隊が名寄から移駐(移駐部隊総員2,500名となる)

  11日

移駐歓迎会並びに幹部交歓会

10月

自衛隊員宿舎の建設開始(50戸)

12月

同宿舎の落成式

 

という経過をたどった。なお9月1日の開庁記念のパレードは、第二特科連隊と第二戦車大隊を主力部隊として実施する予定であったが、名寄での水害発生による後始末に追われた第二戦車大隊の移駐が遅れたため、特科連隊のみで行われた(『ふらの原野』開庁三〇周年記念号)。

 また演習場については、移駐前の6月に射場開きが行われ、初代駐屯地司令予定者の鳴川勝と町長海江田武信が一緒に記念すべき第一発を発射した。そして、7月23日から31日にかけて第二特科連隊による射撃訓練が実施された。

 

 写真 鴨川司令に花束贈呈する海江田町長

 写真 開庁記念のパレード

  ※ いずれも掲載省略