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6章 戦後の上富良野 第3節 戦後の商業と工業

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4、硫黄と褐鉄鉱

 

 磯部鉱業株式会社

 大正期、平山硫黄鉱業所が十勝岳で硫黄採掘を行っていたことは既に述べたが、大正15年の十勝岳大爆発で多くの死傷者を出し、以来十勝岳硫黄鉱の掘削事業は途絶えていた。これが戦後になって磯部鉱業の手で再開されている。『美瑛町史』(第2巻)ではこの事業再開について次のように記している。

 

 昭和三十年、磯部鉱業株式会社がこの鉱区を譲り受け採取を始めた。同社の当初計画は、上富良野を根拠地にするはずであったが、たまたま美瑛町白金の観光登山バス道路の完成をみて、搬送に便利なところから、美瑛に計画を変更し、磯部鉱業株式会社十勝硫黄鉱山という名称で市街地南町内に硫黄の成型工場を設立したのであった。

 

 観光事業でも触れた十勝岳開発の遅れは、このようなところにも反映していたのだが、大正火口内の噴気孔から煙道方式と昇華硫黄の採取も併せて行われたという(『十勝岳−火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策』北海道防災会議、昭46)。しかし、37年6月29日の十勝岳噴火で大きな被害を受けたため、硫黄採掘事業は再び中止に追い込まれてしまった。

 

 十勝岳と鉄鉱床

 十勝岳の褐鉄鉱の分布については第1章第3節で既に述べられているが、戦後になってこれを開発しようという動きがあったことが記録されている。そのひとつは翁温泉付近から下流に広がる日鉄十勝褐鉄鉱床である。推定鉱量は褐鉄鉱が10万d、鉄明ばん石は数1,000dに達するといわれている。35年6月24日付けの『上富週報』などによれば、日鉄鉱業北海道鉱業所によって30カ所でボーリングが行われ36年から採掘計画が示されたという。結局、計画は実現しなかったようだが、前述の『十勝岳−火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策』には「この鉱床は、将来開発されるであろうが、立地条件が悪いため、採掘および鉱石の搬出には困難を伴うであろう」と記されている。

 また、吹上温泉付近にも褐鉄鉱床があるが、これについては『十勝岳−火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策』のなかに「その主要部は、針田鉱業株式会社によりほぼ採掘されつくしている。1953年に2,660d、1954年に488dを産し、現在は休山している」という記述がある。町民のなかに「褐鉄鉱の運び出しに携わったことがある」という証言があるのは事実だが、具体的資料は残されておらず、針田鉱業の褐鉄鉱採掘についての詳細は不明である。