第6章 戦後の上富良野 第3節 戦後の商業と工業
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1、戦後の商業と商業団体
町制施行と市街地
敗戦の混乱から少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった昭和26年、上富良野は町制を施行した。7月6日に申請、8月1日から上富良野「村」は上富良野「町」となったのである。北海道知事に宛てたこの町制施行に関する「許可申請書」(『上富良野町史』)のなかの添付資料では、当時の市街地の様子を次のように記している。
上富良野市街地は地方費道に沿い鉄道以西は新市街と称し、南北に長く家屋密集し、鉄道以東は旧市街と呼ばれ終戦迄は家屋散在の状態であったが、その後引揚者等の転入による家屋の新築、清麗なる電話中継所等の建築物が空地の殆どを埋め尽し、新市街に稍々匹敵する程度になって来た。
普通木工場としては山本、伊藤の二大工場の外にフローリング専門の北日本工場、家具専門の大成木工場等が有り、村内に需給して尚他町村へ移出する余力を持っている。新市街大通りには大規模な澱粉、鉄工場の外各種製造工場、機械類販売、荒物雑貨、金融機関としては拓殖銀行支店、富良野信用組合支所、上富良野協同組合等、医療機関としては飛沢、渋江両医院の外歯科医、助産婦、防火消防の護りとしては中央に消防本部を置き新鋭ポンプ自動車二台を備付け、文化施設として目につくものは先ず上富良野劇場、日本劇場の壮観である。
旧市街は鉄道を界し駅より約七丁、ここには村役場、法務局出張所、農業共済組合、国警部長派出所、電話中継所の外、上富良野小学校(十八学級)新制中学校(十三学級)等、さながら官公庁街の感あり。
26年当時、上富良野全体で戸数は2,000戸、人口は1万3,000人を超えていたが、そのなかで中心市街地である上富良野市街地の戸数は755戸、人口は3,851人であった。戸数で約35l、人口では約29lが上富良野市街地に集中していたことになる。また、職業別戸数・人口は別表(表6−12、13)の通りだが、商業、工業、金融業、運輸・通信業、サービス業、公務、自由業など二、三次産業の就業者数が戸数、人口ともに、市街地戸数、人口の約75lを占めている。「許可申請書」が示す市街地の様子を含め、こうした「市街地の都市化」「都市的業態」が町としての要件を満たしていたことが、町制を施行した大きな理由であった。
また、表6−14を見てもらえれば分かるが、敗戦から町制施行の26年までの間の二、三次産業就業戸数、人口の伸びには急激なものがある。表に示された5年間だけでも、ほとんどの業種において倍増しているのである。まさにこの時期に上富良野の商工業が復興しつつあったことの反映でもあろうが、これら二、三次産業の復興がまた町制施行の大きな原動力となったといえるだろう。
表6−12 昭和26年市街建物数・戸数
|
上富良野 |
東中 |
市街以外 |
官公庁 |
20 |
3 |
|
学校 |
3 |
2 |
9 |
会社 |
16 |
1 |
|
団体 |
2 |
2 |
|
倉庫 |
17 |
3 |
1 |
工場 |
30 |
3 |
11 |
会館 |
2 |
1 |
6 |
銀行 |
2 |
|
|
病院 |
4 |
1 |
|
計 |
96 |
16 |
27 |
民家戸数 |
755 |
50 |
1,348 |
出典:『上富良野町史』
表6−13 昭和26年市街地業態別 戸数・人口
|
戸 |
人口 |
総数 |
755 |
3,851 |
商業 |
191 |
917 |
工業 |
116 |
632 |
金融業 |
41 |
192 |
運輸通信 |
66 |
382 |
サービス |
85 |
387 |
公務自由 |
72 |
363 |
小計 |
571 |
2,873 |
割合 |
75.6 |
74.6 |
農業 |
125 |
724 |
林業 |
8 |
30 |
小計 |
184 |
978 |
割合 |
24.4 |
23.4 |
出典:『上富良野町史』
表6−14 業態別戸数・人口の推移(全村)
|
商業 |
工業 |
金融業 |
運輸通信業 |
サービス業 |
公務自由 |
その他 |
|||||||
戸数 |
人口 |
戸数 |
人口 |
戸数 |
人口 |
戸数 |
人口 |
戸数 |
人口 |
戸数 |
人口 |
戸数 |
人口 |
|
昭和22年 |
87 |
412 |
98 |
488 |
12 |
72 |
65 |
350 |
32 |
170 |
36 |
152 |
1,762 |
10,943 |
昭和23年 |
152 |
775 |
113 |
576 |
14 |
80 |
79 |
437 |
75 |
378 |
51 |
314 |
1,624 |
10,308 |
昭和24年 |
186 |
936 |
125 |
652 |
17 |
93 |
75 |
728 |
88 |
394 |
57 |
343 |
1,557 |
10,260 |
昭和25年 |
201 |
975 |
127 |
670 |
48 |
225 |
72 |
417 |
88 |
396 |
80 |
407 |
1,522 |
10,171 |
昭和26年 |
203 |
986 |
127 |
673 |
45 |
209 |
73 |
719 |
88 |
399 |
85 |
429 |
1,532 |
10,167 |
内市街地 |
191 |
917 |
116 |
632 |
41 |
192 |
66 |
382 |
85 |
387 |
72 |
363 |
184 |
987 |
増加率 |
233% |
239% |
130% |
138% |
375% |
290% |
112% |
205% |
275% |
235% |
236% |
282% |
87% |
93% |
出典:『上富良野町史』
写真 町制祝賀行進(昭和26年)
※ 掲載省略
小売業
戦時中、転廃業に追い込まれていた多くの商店も、戦後になると次第に復活してきたが、食糧や生活必需物資の不足は続き、さらに急激なインフレが人々の生活を直撃した。そのためほとんどの商品が配給や統制のもとに置かれる状態が戦後もしばらく続いた。
『昭和二十三年上富良野村役場事務報告』には「終戦以来、生活必需物資の不足を来し、混沌たる経済状態を来して居りたるも、連合軍の好意に依り主要食糧を始めその他必需物資放出せられ、実需者に公平に配分される様、22年度と同様鮮魚介、酒類、塩、食糧品、加工水産物、薪炭等の登録制度を実施」とあり、上富良野、東中両農協及び次の商店などが小売登録店となっていた。
食糧品小売 高畠孝文(幾久屋雑貨店)山口梅吉(山口雑貨店)高橋松吉(高橋商店)中田与次郎(中田雑貨店)小林鉄明(小林雑貨店)一色武(一色雑貨店)
鮮魚介小売 林利牧(林商店)真鍋鹿之丞(真鍋商店)大垣三右衛門(大垣魚店)杉本正一(杉本商店)
酒類小売 高島孝文(幾久屋雑貨店)山口梅吉(山口雑貨店)林利牧(林商店)真鍋鹿之丞(真鍋商店)中田与次郎(中田雑貨店)小林鉄明(小林雑貨店)大垣三右衛門(大垣魚店)
加工水産物小売 林利牧(林商店)高畠孝文(幾久屋雑貨店)山口梅吉(山口雑貨店)真鍋鹿之丞(真鍋商店)中田与次郎(中田雑貨店)小林鉄明(小林雑貨店)大垣三右衛門(大垣魚店)
塩小売 高畠孝文(幾久屋雑貨店)高橋松吉(高橋商店)中田与次郎(中田雑貨店)一色武(一色雑貨店)重綱修一(重綱商店)
薪炭小売 末廣治郎一(末廣商店)高橋松吉(高橋商店)
衣料品小売 金子全一(幾久屋呉服店)鹿間勘五郎(鹿間商店)小林博(小林呉服店)
翌24年になると酒類が一部を除き自由販売になり、綿製品、絹及び毛製品など衣料品の統制が解除、さらに石鹸が登録制となって月1人1個の割で予約購入が可能となり、味噌醤油についても切符制が導入されるなど、次第に必需品が出回り始めたことが『昭和二十四年上富良野村役場事務報告』には記されている。
先の表6−11に掲げた商業者の増加はこうした動きに対応したものであろう。
なお、米など主要食糧販売登録業者については、この時期の記録が見当たらないので、参考までに36年の登録を紹介すると、上富良野農協、東中農協、久保宝石(久保精米所)、高畠孝文(幾久屋雑貨店)、楠利明(楠精米所)の5業者で、主要食糧購入通帳は消費世帯用2,217冊、職場用5冊、業務用5冊、小売業者用5冊が発行されている(『昭和三十六年上富良野町事務報告』)。また、その後の商業の復興を示すものとして、『昭和三十二年度町勢要覧』から業態別店舗(一部製造業を含む)数を掲げると、表6−15の通りである。
表6−15 昭和31年業態別店舗数
業態別 |
店舗数 |
業態別 |
店舗薮 |
荒物雑貨店 |
37 |
電気工事業 |
3 |
食料品店 |
22 |
クリーニング業 |
3 |
呉服洋服店 |
23 |
小間物店 |
10 |
魚類食料品店 |
26 |
家具店 |
1 |
印刷業 |
2 |
煙草販売店 |
2 |
木材業 |
5 |
鉄工鍛冶 |
6 |
柾製造業 |
3 |
蹄鉄業 |
4 |
土建業 |
12 |
洋裁仕立業 |
11 |
料理店 |
21 |
自転車店 |
8 |
飲食店 |
61 |
旅館業 |
8 |
質屋業 |
3 |
薪炭販売業 |
5 |
写真業 |
7 |
雑穀店 |
3 |
金物店 |
4 |
精肉店 |
4 |
皮革製造販売業 |
8 |
履物店 |
4 |
牛乳販売業 |
1 |
パーマネント |
6 |
菓子製造販売業 |
26 |
理髪店 |
9 |
板金加工 |
4 |
浴場 |
2 |
時計貴金属 |
5 |
看板店 |
1 |
指物業 |
6 |
生花店 |
2 |
ハイヤー業 |
2 |
葬具店 |
2 |
製綿業 |
3 |
古物商 |
8 |
化粧品店 |
2 |
精米所 |
11 |
豆腐店 |
9 |
車橇製造業 |
2 |
運輸業 |
6 |
薬局 |
3 |
ラジオ店 |
4 |
|
|
出典:『昭和32年版町勢要覧』
写真 市街大通り商店街と駅前通交差点(昭和37年)
※ 掲載省略
旅館・飲食店
食糧や生活必需品の不足が続くなかで、米飯提供業者つまり旅館や飲食店などにも統制は及んでいた。外食券の持参なしで旅館や食堂でいつでも自由に食事ができるようになったのは、26年以降のことだったといわれている。
役場統計資料などをもとに、町制施行時の26年前後に営業していた旅館、飲食店を記してみると、まず旅館は伊勢屋、金子旅館、村上旅館の3軒。また、飲食店としては森川飲食店、お美津、金子食堂、とんちゃん食堂、かなめ食堂、亀甲屋食堂、三浦屋、さくら食堂、割烹のんきや、真保飲食店の10軒である。
これが30年代の資料では、旅館、飲食店ともに倍増する。『昭和三十八年上富良野町事務報告』によると38年の米飯提供登録業者は、旅館関係が上富旅館、志の竹旅館、伊勢屋、森本旅館、中村屋、清水旅館、村上旅館、秋田屋の8軒に増え、料飲店関係もトキワ食堂、柳屋食堂、みどり寿司、新世界食堂、のんきや、森川食堂、千成、かなめ食堂、稲穂、白樺、アポロ、八起、一福食堂、とんちゃん、おはこ食堂、稲穂寿司、まるみ食堂、上富良野町商業協同組合、防衛庁共済組合隊員クラブの19軒を数えている。また、米飯提供登録業者以外の店舗を含めた数では、先の表6−15にもあるように料理店は21、飲食店は61の計82軒に上っている。
上富良野では30年代に入ると、農業人口は次第に減少へと転じていた。その一方で30年に陸上自衛隊上富良野駐屯地が設置され、3,000名を超える自衛隊員とその家族が市街地を中心に移転してきた。この時期の飲食店の増加の背景には、市街地の人口増加、つまり自衛隊の上富良野移駐が極めて大きな意味をもっていたと考えられるのである。
金融機関
戦前、上富良野で主要な役割を果たしてきた金融機関は、上富良野、東中の両産業組合と両郵便局、農地など不動産担保による貸し付けなどを行ってきた特殊銀行・拓銀上富良野出張所であったが、戦後になるとその様相も大きく変わっている。
産業組合は農協へと変わり、拓銀も特殊銀行から普通銀行へと転換、上富良野を事業区域に含める信用協同組合である富良野信用組合が25年5月、富良野町に発足し、この年の8月には上富良野支所が開設されている。主として農業者を中心に運営されてきた金融機関が、戦後は商工業者にも大きく開かれることになったのである。
拓銀は既に述べたように明治33年、北海道の拓殖事業に資金を供給することを目的に北海道拓殖銀行法によって設立された特殊銀行であったが、上富良野に派出所を設けたのは大正15年のことである。この年、休業に追い込まれた絲屋銀行を吸収合併したことに伴って、同行上富良野派出所を拓銀上富良野派出所に改め設置されたのである。
昭和3年には出張所となり、戦時中は統廃合により北海道に本店を置く唯一の銀行となっていたが、戦後の25年4月に普通銀行に変わり、出張所は拓銀上富良野支店となった。表6−16は『昭和二十六年度町勢要覧』と『昭和三十二年度町勢要覧』をもとに金融機関別の預貯金額をまとめたものだが、預金、払戻など拓銀の取り扱い金額は群を抜いており、この6年間に約5倍という急増も目立つ。このなかには役場など公共資金の取り扱いも含まれると思われるが、普通銀行となったことで商工業者との取り引きが増加したことも大きな要素であろう。
一方、小規模商工業者の金融機関である市街地信用組合は、大正6年の産業組合法改正で設置が認められ、大正末期には道内主要都市にはほぼ設立されていたが、法的基盤が定まったのは昭和18年の市街地信用組合法が制定されて以降である。やがて、戦後になって24年に中小企業協同組合法、26年に信用金庫法がそれぞれ制定され、中小商工業者のための金融機関として業務内容も整備されてきた。
富良野地区では既に触れたように上富良野をはじめ富良野、芦別、中富良野、山部、東山、南富良野、美瑛、占冠、日高の各市町村を事業区域とする富良野信用組合が25年5月に認可され、8月には佐藤敬太郎を所長に上富良野支所が発足することになったのである(『上富良野町史』、『富良野市史』第2巻)。
翌26年には信用金庫法によって信用金庫に改組、富良野信用金庫上富良野支店になったが、表6−16からも明らかなように、商工業者との取り引きが中心と考えられる設立後の預貯金額の伸びには、拓銀同様、極めて大きなものがある。
表6−16 金融機関と預貯金額 (単位・万円)
|
預入 |
払戻 |
現在高 |
|||
昭和25年 |
昭和31年 |
昭和25年 |
昭和31年 |
昭和25年 |
昭和31年 |
|
拓銀上富良野支店 |
59,906 |
315,835 |
59,708 |
312,467 |
5,953 |
3,370 |
富良野信金支店 |
3,592 |
72,101 |
3,089 |
70,472 |
503 |
1,629 |
上富良野農協 |
21,989 |
27,881 |
20,830 |
27,459 |
3,468 |
422 |
東中農協 |
9,912 |
19,935 |
9,800 |
20,589 |
1,637 |
654 |
上富良野郵便局 |
1,592 |
7,932 |
1,370 |
7,364 |
− |
568 |
東中郵便局 |
514 |
1,274 |
364 |
1,219 |
− |
56 |
『昭和26年版町勢要覧』『昭和32年版町勢要覧』をもとに作成。25年富良野信金支店は富良野信用組合上富良野支所。
写真 拓銀上富良野支店(昭和26年)
写真 富良野信金上富良野支店(昭和36年)
※ いずれも掲載省略
上富良野商業協同組合
30年6月に上富良野商業協同組合が発足した。戦前の統制団体であった上富良野商業組合とは全く別の性格の組織で、自衛隊上富良野駐屯地への物資納入を目的に設立されたものである。金子全一「名誉町民山本逸太郎氏を偲ぶ」(『郷土をさぐる』7号)では、設立の経緯について次のように記されている。
山本氏会頭の時代、昭和三十年自衛隊が駐屯したが、PXへの希望者が多かったので、それでは商業者の円満が希めないと、たまたま名寄で商業協同組合の形で独占的に入店し、大変成功しているので皆で視察に行き、当地もそれにしようと、広報課とも交渉してきめたのであった。
併し〔ママ〕いざ駐屯してみると、売店も旭川より沢山ついてきて、当組合のはいる余地がいくらもない。その上扱い商品も減らされる等、すったもんだの末一時は引き揚げようと言う所まできたが、それでは自衛隊の方も困るとのことで、最後は色々折り合いをして開店した。
創立総会は6月20日に開かれ、初代理事長は山本逸太郎、理事には山本逸太郎、一色正三、穴田祐二、久保宝石、佐藤敬太郎、金子全一、鹿間富二、山崎秀雄、松島薫、田中務、松田安之、小林鉄明の12名が決まり、9月の移駐と同時に事業を開始した。
写真 上富良野商業協同組合
※ 掲載省略
上富良野町商工会
35年、上富良野の産業振興を目的に、上富良野町商工会が設立されている。戦前の昭和11年にも上富良野商工会が設立されているが、前章でも述べたように、戦時統制が進むなか昭和18年には商工経済法が公布され、全道に88あった商工会は解散し、商工経済会に改編された。また、ほぼ同じ構成員によってこの時期、商工協同組合も設立されている。この2団体が戦前の商工会に連なる戦時中の組織にあたるのだが、上富良野に関しては資料が残されていないため、戦時中から敗戦直後にかけてどのような改編をたどったかの詳細は不明である。
戦後になり、任意団体として上富良野村商工会が、再発足するのは25年である。『昭和二十五年上富良野村事務報告』のなかの商工関係の主なる行事に「七月中旬上富良野村商工会結成」との記載があることから、これは分かるが、『昭和二十六年上富良野町事務報告』には「八月の町制施行に伴い商工会、商工青年同志会の強力な指導と業者の自覚に依り建物装飾等も美化され」と、活動を開始した様子も記されている。
35年に設立されることになった上富良野町商工会は、直接には任意団体として25年に再発足していた商工会を引き継ぐものと考えられ、この年の5月に公布、6月に施行された商工会法に基づいて9月12日に法人化のために設立を申請したと思われる。『上富良野町史』によれば設立発起人は次の17名である。
山本逸太郎 金子 全一 鹿間 富二 佐藤敬太郎
久保 宝石 一色 正三 真鍋鹿之丞 金子 政三
大道 久松 荻野 栄太 菅野 豊治 高畠 正男
会田久左衛門 高島 孝文 吉岡 光明 赤川 寅蔵
小林鉄明
設立が認可されたのは12月12日で、初代役員は会長に山本逸太郎、副会長に金子全一、鹿間富二が就任、理事、監事は次の人たちであった。
理事 久保 宝石 荻野 栄太 大道 久松 高畠 孝文
菅野 豊治 赤川 寅蔵 一色 正三 真鍋康之丞
小林 鉄明 吉岡 光明 会田久左衛門 田中 務
金子 政三
監事 高島 正男 佐藤敬太郎
定款には地区内の商工業の総合的な改善発達を図り、国民経済の健全な発達に寄与することを目的に掲げ、事業としては税務や経理、金融についての相談や指導を行ったことが『上富良野町史』には記されている。また、この時期には8月の商工会主催祭典連合大売り出しや年末年始大売り出しが恒例になっていたことが分かっており、大売り出し対策も主要な事業であったと思われる。
事務所は当初、市街地六町内に置かれていたが、42年11月の商工会館新築に伴い中町2丁目2番19号に移転した。また、前述の『昭和二十六年上富良野町事務報告』には「商工青年同志会」の名前が出てくるが、そのメンバーを中心に41年11月、商工会青年部(初代部長・堀内慎一郎)が創立されている。