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6章 戦後の上富良野 第2節 戦後の農業と林業

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2、戦後改革と農業団体

 

 農業会の解散

 敗戦の直前、国策によって農会、産業組合、畜産組合が統合され上富良野村農業会が設立されたことは既に述べたが、大凶作、食糧難、農産物供出の強権発動など、戦後の混乱のなかでも、農業会の指導、信用、購買といった事業は維持継続されていた。やがて、21年1月には農業団体法が改正され、「国策に即応して」の文字が消え、道庁長官による会長の任命制もなくなり、11月には新しい会則による役員選挙を実施する(『組合の歩み』)。初の会員投票による当選者は次の通りだが、戦前に続き田中勝次郎が会長、海江田武信が副会長に互選された。

  理事 田中勝次郎  福家 敏美  西谷 五一  海江田武信

     荒   猛  中西 覚蔵  包子 儀一  石川 清一

     伊藤武三郎

  監事 工藤 倭平  小川 総七  西村 常一

 だが、先に述べた「農地改革についての覚書」でGHQが指摘した農村の病根のなかに「農民の利害を無視せる農民や農村団体に対する政府の権力的統制」という項目があったように、農地改革と並んで農業団体の改革もこの時期の一つの焦点であった。これに対応して政府は農業協同組合の確立への対処を本格的に始め、GHQとの折衝を経て22年8月に農業協同組合法を国会に提出、12月15日に施行された。同時に「農業協同組合法の制定に伴う農業団体等の整理に関する法律」によって農業会の法定解散も決まり、農協の設立と農業会の清算が進められることになるのである(『新北海道史』第6巻)。

 上富良野でも対応は素早かった。共立産業組合として合併する以前の上富良野、東中両地域に再び分かれて、設立は進められることになるが、『組合の歩み』によれば上富良野村農業協同組合(以下上富良野農協)の設立発起人会が、同法の施行間もない12月22日に開かれ、翌23年2月10日に設立総会を開催、一方、上富良野村東中農業協同組合(以下東中農協)についても1月25日に設立総会が開催されている。これに伴い上富良野村農業会の整理も進み、財産は両農協に分割されて解散するのである。なお、両農協の発足と事業については次項で詳しく述べる。

 

 食糧調整委員会

 戦後の混乱に拍車をかけたのは食糧事情の悪化だったが、この時期の農民たちに重くのしかかっていたのが農作物の強制的な供出である。そうしたなか21年2月の食糧緊急措置令などにもとづいて各市町村にも食糧調整委員会が発足することになった。要は農民への食糧供出の割当てと供出促進が目的で、その背後に占領軍の意向が控えていた。当初は任命制だったが、強制的な供出割当や官僚統制に農民の反発が広がるなか、やがて公選制が取り入れられている。また23年には食糧確保臨時措置令の公布によって、供出の事前割当や生産計画の審議などの役割も加わり、農業調整委員会へと名称が改められるのである。

 上富良野の食糧調整委員会に関しては資料がなく詳細は分からないが、『昭和二十三年上富良野村役場事務報告』には、23年11月30日の農業調整委員選挙が報告されている。また、『上富良野町史』では23年の「産業課農業関係書類」をもとに、上富良野村農業調整委員会長は田中勝次郎村長であり、目的が@主食供出、A馬鈴薯確保、B澱粉供出、C補正割当、D作況調査などの審議調整であったことを紹介している。委員の名前で分かっているのは、25年の会長である田中村長はじめ次の通りである。

  仲川善次郎  海江田武信  床鍋 正則  奥野 忠治

  岩山 高松  松岡熊太郎  谷  与吉  萩野幸次郎

  藤崎 政吉  桑田 常平  西村 常一  多湖 房吉

  佐藤 末吉  四釜卯一郎  鹿俣 一海  片倉喜一郎

  北条 真一  福家 敏美  渡辺  保  工藤信一郎

 

 農業改良委員会と農業改良相談所

 既に触れた農地改革や農協設立に加え、農村民主化へ向けた三大改革の柱に想定されていたのが農業改良普及制度の創出であった。しかし、GHQが意図したものが順調に進んだとはいえず、ようやく具体化をみたのが23年7月に公布された農業改良助長法による農業改良普及事業だった。これにもとづいて北海道では知事を会長とする北海道農業技術普及委員会を設立、続いて23年12月、各地区に農業改良委員会が設立され、普及事業の計画、施行、人事などを調査、審議することになった(『新北海道史』第6巻)。

 『上富良野町史』によると「二十四年一月村長が村議会の承認を得て十四名の農業改良委員を選出し、二月五日付をもって北海道知事から委嘱任命」されたことが記されている。任命された委員は次の通りである。

  床鍋 正則  仲川善次郎  海江田武信  中西 覚蔵

  山中 一正  上田 美一  藤崎 政吉  手塚 官一

  多湖 房吉  片倉喜一郎  村上 国二  梅田鉄次郎

  菅野  稔  松原  雪

 また、このとき農業改良委員会とともに設置をみたのが農業改良相談所である。24年3月には既に農業改良普及員の資格試験が行われ、4月から全道241地区で事業が本格的に開始されるのだが、『上富良野町史』にも、4月1日に第2回農業改良委員会が開催され「村内普及員有資格者の中から三名の普及員を選定して事務所を決定した」とあり、全道と同時に事業がスタートした。普及員は岩田賀平、片井義也、十河竹善の3名であった。

 農業改良委員会や農業改良相談所の設置が意図していたものは、戦前の農会的農事指導の変革であったことは明らかである。『上富良野町史』も当時の改良普及事業の取り組みの様子を次のように記している。

 

 農業改良委員会、同改良相談所、協力員、4Hクラブは密接な連携を保ちながら普及事業の徹底にあたった。ことに各農事組合に1名づつ依頼した協力員は精農家であり、推進者であり、補助員でもあってよくその責任を果たしたのである。

 

 なお、農業改良相談所は法制の整備に伴い所長制の採用などがあり、33年4月からは農業改良普及所へと名称を変更している。

 

 青少年クラブ(4Hクラブ)

 農業改良相談所の事業のなかで、積極的に取り組まれたもののひとつに、既に触れた青少年クラブ(4Hクラブ)の活動がある。

 4Hの意味するところは、頭HEAD、手HAND、心HEART、健康HEALTH。生活改善や技術改良を目的にする農村青少年の組織として、1914年(大正3年)にアメリカで創設された。

 上富良野でも24年以降、各地域に次々と誕生している。以下『上富良野町史』をもとに述べると、最初は東中の農友クラブで24年9月24日にスタートしている。次いで25年5月に日新の農業研究クラブ、26年は富原の豊栄クラブと日の出に日の出クラブ。27年になって1月に島津に愛農クラブ、3月に東中の新生クラブ。28年が東中のみどりクラブ、富原クラブが続く。この後、東中に33年愛心クラブ、35年みずほクラブ。島津に30年に農青クラブ、33年興農クラブと続く。ほかに江花クラブと江幌クラブが32年。草分の農進クラブは33年に誕生した。

 こうした各地域のクラブ同士の交流の場として、26年には上富良野町青少年クラブ連絡協議会が誕生、協議会主催の実績発表大会が行われていたことも記されている。やがて、青少年連絡協議会(4Hクラブ)は37年12月16日に連合青年団と合併、上富良野青少年団体協議会を結成した。

 

 写真 青少年クラブ実績発表会

  ※ 掲載省略

 

 農業委員会

 ここまで述べてきたように、農地改革事業をすすめてきた農地委員会、供出割当や生産計画を進めてきた農業調整委員会、技術改良の農業改良委員会と、それぞれが個別に戦後の改革や混乱への対応に取り組んできたのだが、社会が次第に落ち着きをみせるなか、農業の改革や経済的振興に対し、総合的に取り組もうという動きが出てきたのである。それが農地、農業調整、農業改良の3委員会を統合した農業委員会であった。26年3月には農業委員会法が施行され、7月21日上富良野でも農業委員会が発足した。委員は選挙及び町長が選任する委員から構成されることになっていたが、『昭和二十六年上富良野町役場事務報告』によれば選挙は7月20日に行われ、次の15委員が当選した。選任委員を含む互選により、会長には奥野忠治、副会長には仲川善次郎が就任している。

  選挙委員 南米 次郎  松田吉次郎  谷口 清作  山中 一正

       仲川善次郎  谷  与吉  荻野幸次郎  藤崎 政吉

       渡辺利兵衛  包子 儀一  谷  清吉  白井 東北

       菅原長三郎  中沢佐賀志  川野 守一

  選任委員 床鍋 正則  奥野 忠治  長沼 善治

       四釜卯兵衛  川村 秋夫

 このように農業全般の問題に対応するため、3委員会の発展的解消によって発足した農業委員会だったが、職務は農地関係を中心に推移している。そのため29年、32年と再編問題が持ち上がり、法改正が行われた。

 

 農業共済組合

 戦前から既にあった農業保険、家畜保険を抜本的に改正し、農業共済組合の設立に向けた動きも戦後改革の大きな事業のひとつであった。当初、政府は農協を事業主体と考えていたが、ここでもGHQの意向は強く反映され、22年12月の農業災害補償法の施行とともに、原則として市町村を範囲とする農業共済組合が設立されることになったのである。

 『上富良野町史』によれば、「昭和二十三年一月十日、上富良野村一円を区域として上富良野村農業共済組合を設立することになり、石川清一外三十七名が発起人となり、二月十日設立準備会を開催した」とある。続いて2月28日創立総会を開催、理事及び監事に次の人々が当選した。認可されたのは3月15日。組合長には石川清一が就いた。これは「北海道共済組合史の年表によると、道内における農業共済組合設立認可第一号であった」(『富良野地区農業共済組合史』昭56)という。

  理事 岡本 政一  仲川善次郎  山中 一正  石川 清一

     西谷 五一  吉沢 春男  林  義雄  芳賀吉太郎

     谷  清吉  荻野 源作  菅野 善作  福家 敏美

     竹沢  強  床鍋 正則  佐々木源之助

  監事 四釜卯兵衛  南 米次郎  北川 三郎  近藤 利尾

     松浦 義雄

 事業内容は家畜共済と、農作物共済については米、麦に限定されていたが、ようやく30年から畑作物共済の試験調査が始まっている。その後、33年には法改正があり、37年4月に事業を町に移管、特別会計による公営事業として運営されるようになった。また、家畜共済との関係もあって組合は創立当初から家畜診療所を設立、運営してきた。

 

 写真 上富良野農業共済組合事務所

  ※ 掲載省略