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6章 戦後の上富良野 第2節 戦後の農業と林業

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1、農地改革と小作地解放

 

 農地改革の始まり

 昭和20年8月15日の敗戦によって、政府は自作農創設と耕作権の強化を柱とする「第一次農地改革法」と呼ばれた改正農地調整法を公布したが、これでは農地解放は不可能といわれた。GHQ(連合国軍総司令部)が昭和20年12月9日、農地改革案を翌21年3月15日までに提出するよう日本政府に指令した。これが日本全国を震撼させた農地改革のスタートだった。

 このGHQ指令は、日本の農業構造を長く蝕んでいた原因として、@極端なる零細農形態、A極めて不利なる小作条件下における小作農の夥多、B極めて高率の農村金利の下における農村負債の重圧、C商工業に対比し格段に農業上に不利なる政府の財政政策、D農民の利害を無視せる農民や農村団体に対する政府の権力的統制の5項目の病根を挙げ、こうした禍根を徹底的に排除しなければ日本農民の解放は得られないとして、@不在地主の土地所有権を耕作者に移す、A不耕作者の農地を適性価格で買取る、B小作人の収入に応じた年賦償還による小作人の農地買収、C小作人が自作農になって後に再び小作人に転落しないように保証する制度についても、具体策を求めるというものであった(『上川開発史』昭36)。

 しかし、こうした占領軍の「農地改革についての覚書」に対応した政府の改革案も、「対日理事会」に不徹底だとして否決され、英国などの案を骨子に出された勧告によって、「第二次農地改革法」と呼ばれた改正農地調整法、自作農創設特別措置法が21年10月にようやく国会を通過したのである。

 

 農地委員会

 この「第二次農地改革法」の制定とともに、昭和13年の農地調整法で既に設けられていた官選の農地委員会に公選制が導入され、第1回の選挙が21年12月に各地で実施された。ここで市町村段階での農地改革の体制は整い、実行に移されることになるのである。

 『昭和二十三年上富良野村役場事務報告』(役場蔵)には「農地委員会事務」として次のような報告がある。

 

 昭和二十一年十一月九日第二次農地改革施行となり新発足した農地委員会は、自作農創設に、土地の移動統制に、困難を排しつつ目的の達成に邁進。以って初期の目的を達成しつつあるも、尚今後に於て政府買上をのがれんと隠蔽してゐる農地や、開拓適地の買収及買収売渡土地に対する登記事務等幾多の事業は山積せられ、今後に俊つ処大なるも、今次の自作農創設は過去の土地制度を一掃し本事業の完徹を期したい。

 

 『上富良野町史』によると、上富良野でも21年10月(12月の誤りと思われる)に最初の農地委員会選挙が行われたとある。

 このときの当選者については分からないが、23年の上富良野村農地委員会の構成は次の通りで、会長は石川清一だったとある。

  小作層 向山仁太郎 内田幸之丞 本田茂一 吉沢春雄 水戸部三郎

  地主層 芳賀吉太郎 高士仁左衛門 西谷五一

  自作層 松田吉次郎 石川清一

 23年6月の法律一部改正に伴って翌24年8月に、次のように委員が改選されていることが『昭和二十四年上富良野村役場事務報告』には記載されている。

  一号層委員 石川清一 広瀬常次郎

  二号層委員 海江田武信 高士仁左衛門

  三号層委員 向井藤蔵 村上学蔵 仲川善次郎 松原照吉 松田吉次郎

        大居佐太郎

 25年6月4日投票の第2回参議院議員通常選挙で、農地委員会の会長だった石川清一(上富良野農協組合長)が当選した。また、村議の補欠選挙に出るため松原照吉も辞任したので、補欠選挙が行われ、一号委員に六平健三、三号委員に水戸部三郎の二人が当選している。石川会長の後任は海江田武信であった(『昭和二十五年上富良野村役場事務報告』)。

 

 改革の実績

 農地改革は地主からの土地買収、小作人への売り渡し、登記という段階を経ておこなわれた。実際の農地買収は、昭和23年3月31日の第1回から始まり、買収対象地は全道で24万町歩(田6万7,300町歩、畑17万2,700町歩)と算定され、半分が不在地主の所有、解放小作人は6万戸と見込まれた。第3回買収以後は在村地主も対象になったために異議申立や訴願など地主側の抵抗が強まったが、27年10月の第26回まで実施され、総計水田6万8,954町歩、畑地27万8,618町歩の計34万7,572町歩が6万5,750人の地主から買収されたといわれる(『新北海道史』第6巻)。

 上富良野における取り組みは、先に『昭和二十三年上富良野村役場事務報告』をもとにその一端を紹介したが、その後の経過を『昭和二十四年上富良野村役場事務報告』にみると、次のように報告されている。

 

 二千町歩を超ゆ農地が小作地として地主から貸付られ、小作人が高い小作料の支払を強制せられて来た。

 農地改革の目的はこの地主的土地所有を廃絶するといふ点に過去委員会が新発足以来困難を排しつつ邁進。以って小作人の自作農創設をなし、その数村内農業戸数の三分の一に達し、売渡し土地代金百七拾六万五千弐百参拾円八拾七銭となり、これが徴収手数料国費より五万弐千八百七拾四円弐拾六銭の交付金を受け、他村に見られる売渡土地代金の滞納及年賦償還等は一名もなく完全に完了する域に達し、四千筆途の前提、買収売渡等三段階に亙る六千余町のこれら土地買受人のための登記事務を、三月末迄に完遂すべく旭川地方法務局上フラノ出張所と協力、嘱託登記事務に邁進中である。

 

 昭和初期に始まった自作農創設で既に実績を上げてきた上富良野だったが、農地改革に関しても積極的に取り組んできたことがここからうかがえる。やがて翌25年9月27日には、農地解放記念式典が開催(『上富良野町史』)され、改革も山を越えたと思われるが、『昭和二十五年上富良野村役場事務報告』には、25年までの4年間で村内の小作地に対する委員会の成績を次のように掲げている。このなかの買収農地の対価総額は183万8,750円だったという。

  登記区分  筆数    反別

  買収   1,785   2,048町5反28歩

  売渡   1,806   2,070町8反4畝16歩

  分筆   1,560   2,964町5反5畝9歩

 なお、自作農創設によって土地の賃貸借は少なくなったとはいえ、小作契約の登録をした地主が142名、小作数が183名、耕作地にして田が131町5反2畝、畑地が168町1畝13歩あったことも『昭和二十五年上富良野村役場事務報告』には報告されている。このときの知事認可小作料は畑が各等級地平均79円40銭、田は上315円、中225円25銭、下210円で、「借りる者も貸す者も妥当な小作料」としていたと記されている。