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6章 戦後の上富良野 第1節 町制施行と町政

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5、農民運動と労働運動

 

 農民同盟

 戦後、農村の再建、農民の政治的・社会的権利の獲得、農家経済の安定を目的に様々な農民組織が創設された。上富良野でも昭和20年12月11日に和田松ヱ門を会長とする上富良野村農村建設同志会、東中では21年8月16日に西谷伍一を理事長とする東中勤農組合が創設されていた(以下の農民運動については『上富良野町史』が詳細なのでそれに基づき記述する)。上富良野村農村建設同志会は12月27日に創設された北海道農村建設連盟に加入するが、21年8月16日に上富良野村農民同盟に改組され、8月20日に上川農民同盟の創立をみて傘下に入り、東中勤農組合も加盟し上富良野村東中農民同盟と改称することになる。団体等規正令に基づく24年9月12日の届出によれば、上富良野村農民同盟は会員数111人で代表は手塚官一、上富良野村東中農民同盟は125人で上田美一であった(『昭和二十四年事務報告』)。北海道農村建設連盟は22年7月1日に北海道農民同盟となり、上富良野の2農民同盟も参加することになる。以上の上川、北海道の連盟組織にて和田松ヱ門は執行委員、委員長として枢要なはたらきをなしていた。

 農民同盟では22年4月の道議会選挙にて、農民政党である農民協同党から立候補した石川清一に対する積極的な支援活動を行い、当選をかち得ていた。石川清一は23年から25年まで北海道農民同盟の執行委員長となり、25年五月の参議院選挙では全国区から立候補し当選を果たしていた。

 

 農民同盟の解散

 農民同盟ではその後は主に社会党を支持し、選挙でもさかんな支持活動を行っていた。34年4月には和田松ヱ門も道議選に立候補したが落選となった。「農民組織としては社会党一辺倒はどうも宜敷しくない、特に今春の各選挙でこれが農民の間で大きく非難され農同のゆき方に可成りの不信の声が台頭しだした」というように(『富良野新聞』昭34・10・6)、この時の地方統一選挙を機にして社会党一党の支持のあり方、農民組織が選挙活動に奔走する姿勢に批判がみられ始めてきていた。

 その結果、組合員の意向調査をもとにして、

  1 政党支持は絶対やらない。

  2 組織の名において選挙はやらない。

  3 経済活動に重点をおく。

  4 農同を脱退して中間組織をつくる。

  5 この機会に上富良野は一本になる様に努力する。

 以上の方針を取決め、35年2月28日の定期総会にて解散を決定した。ただ、新組織の創設は難航し、特に東中農民同盟との統合に調整が手間取り、ようやく36年4月15日に上富良野町農民協議会が創設となり、この新組織へと移行するにいたった。そして上富良野村東中農民同盟も4月1日に解散し、同協議会へ合流した。

 

 上富良野地区労の結成

 34年1月11日に上富良野町で働く労働者の結集を図る目的で上富良野地区労働組合協議会が結成となった。参加した組合は、北教組(組合員数107名)、全逓(39名)、全電通(8名)、伊藤木材(2名)、北日本木材(27名)、大成木材(5名)、全日通(4名)、国労(14名)、雪印乳業(2名)、以上の9組合であった。結成大会では、

  @教育の民主化のために勤評を粉砕しよう。

  A組織を強化し労働者に与えられた権利を守ろう。

  B明るい平和な町を建設し行政の民主化を計ろう。

  C自由と平等と平和な世界を築こう。

  D町内労働者は結集し生活文化の向上に努力しょう。

 以上の5つのスローガンが掲げられていた(『富良野新聞』昭34・1・13)。

 しかしながら、この結成は34年4月の地方統一選に向けたものであったために、35年に入ると「前年度の様な組織的な活動もなく」、「一年有余の運動で活動を停止せざるを得なかった」(『上富良野地区労働組合協議会十五年の歩み』)。

 

 上富良野地区労の再建

 しばらく「活動を停止」していた上富良野地区労働組合協議会であったが、38年から再建へ動きだすことになった。特にこの年の8月に2度目の町長選、町議選が行われる異常な事態に対して有効な手立てがなく、地域活動を軽視した今までのあり方を反省した上での再結成であった。

 38年9月25日に再建準備委員会を発足させ、町内15組合(組合員329名)に参加を呼かけて39年8月14日に地区労の再建大会が開催された。ただ、今回の再建に参加したのは北教組(12名)、全逓(52名)、全農林(8名)、全林野(31名)の4組合のみにとどまった。大会にて確認された運動目標は、@組織の確立強化、A地域共闘体制の確立、B生活を守る闘い、C教宣・文化活動の推進、以上の4項目であった(『富良野新聞』昭39・7・16)。

 40年には国労(18名)、全道庁(5名)が参加して6組合となり、41年4月30日には日本社会党上富良野支部の結成に動き、42年は上富良野町失業保険法改悪反対共闘会議を結成し、8月の町議選では初の社会党公認候補を推薦するなどの活動を行っていた。43年には第1回のメーデーを実施し、役場職員組合(24名)、全日自労(33名)が加わるようになっていた。