郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

6章 戦後の上富良野 第1節 町制施行と町政

739-745p

4、町議会と選挙

 

 戦後の議会

 新憲法と同じく昭和22年5月3日に施行となった地方自治法は、議会の地位を強化し多くの権限を付与して地方の自治権を大幅に認めるものとなっていた。議会の主要な役割は@条例の制定・改廃、A予算の議決・承認、B地方税や使用料・手数料などの決定、C行政の監査などであったが、首長の不信任決議も認められていた(その場合、首長は辞職か議会解散権を行使する)。議会の議長、副議長も議員の中から選挙で選ばれるようになり、行政と議会の権限は明確に分立されるようになった。

 議会の内部にも常任委員会が置かれるようになり、当初は総務、産業、土木、厚生、教育の5委員会であった。26年8月1日に施行となった「上富良野町常任委員会及び特別委員会条例」によれば、常任委員会の定員は総務が9人、厚生、教育、産業、土木が各6人で構成され、総務は町政一般、消防、財務及び税務、他の委員会に属しない事項を取り扱うこととなっていた。常任委員会は間もなく総務、教育民生、産業経済、土木建設の4委員会となり、現在[平成9年]は総務、教育民生、産業建設の3委員会となっている。

 議員の任期は4年で上富良野町の定数は当初、26人であったが、42年8月20日の選挙から20人となる。

 議会の事務部門を担当する議会事務局も、33年5月に設置されている。

 

 議会の開催と議案

 表6−3は昭和37年度から42年度までの議案件数、表6−4は37年度から48年度までの議会運営の推移を示したものである。

 まず表6−3からうかがうと、議案では予算、条例、一般の議案関係で3分の2くらいが占められており、これら3者を審議、議決するのが主要な役割となっていた。38年までは町長が議会を招集する時間的余裕がない時、あるいは議会の議決に時間を要する場合に認められていた専決処分も多かったが、38年に発生した十勝岳開発道路をめぐる専決処分問題以来、大幅に減少し議会との協調が図られるようになっている。

 次に表6−4より議会運営をうかがうと、会議日数は17日前後、会期は少ない年で16日、多い年で33日となっており平均すると25日前後であった。

 議案件数はその他を含めると最少で98、最多で164となっており、例年120件から130件ほどであった。

 

 表6−3 議案件数(昭37〜42)

議案

37

38

39

40

41

42

予算

24

31

24

28

26

29

決算

1

1

1

 

 

 

条例

37

22

44

35

26

39

財産取得

5

4

 

 

 

 

財産処分

2

4

3

1

2

 

契約締結

8

15

1

4

2

5

工事施行

6

3

 

 

 

 

専決報告

12

14

2

2

2

2

議決変更

 

 

3

1

 

 

起債

4

5

2

 

 

 

選挙(任)

 

5

3

4

5

8

委嘱

 

 

 

 

 

1

規則

 

 

 

 

 

1

一般議案

28

33

10

13

18

10

127

137

93

88

83

95

   出典:『議会事務報告』

   

 表6−4 議会運営(昭37〜48)

会議日数

会期

議座

その他

37

15日

33日

127

22

38

17

22

137

24

39

16

21

93

25

40

20

21

88

13

41

17

29

83

15

42

14

17

95

25

43

13

16

78

26

44

15

18

87

27

45

16

24

122

26

46

16

28

132

28

47

18

24

101

44

48

17

26

142

22

   出典:『議会事務報告』

 

 22年の選挙

 戦後初の男女同権下による民主的な議員選挙は昭和22年4月30日に実施された。当日の有権者数は6,109人で、投票者数は5,029人、投票率は82lであった。当選者は以下の通りであった(任期‥22年4月30日〜26年4月29日、定数26人)。

包子 儀一

前原 豪一

四釜卯兵衛

石川 庄一

北 三次郎

桐山 英一

北川 清一

朝倉 一泰

小林八百藏

内田幸之亟

飛澤 英壽

福家 敏美

一色 正三

海江田武信

床鍋 了作

浦島 捨三

山中 一正

大串 直平

村上 国二

穴田 裕二

谷本 彦六

松下 忠平

林  財二

西谷 五一

高坂新三郎

中西 覺藏

 

 

 以上のうち、元の村議は四釜卯兵衛、小林八百蔵、福家敏美、海江田武信、床鍋了作の5人のみであり、終戦をはさんでの世代交代と体制刷新を印象付ける選挙となった。

 議長に朝倉一泰、副議長に海江田武信が22年4月30日に就任した。朝倉一泰の議員辞職により25年4月30日に海江田武信が議長、小林八百蔵が副議長に就任する。

 なお、内田幸之丞(23年7月3日に辞職)、西谷五一(23年10月31日)、谷本彦六(24年4月27日)、飛沢英寿(24年5月10日)、朝倉一泰(25年4月1日)の5人が任期中に辞職し、補欠選挙が25年6月25日に実施され、以下の5人全員が無投票当選した(任期は25年6月25日より)。

松原 照吉

稲垣 万吉

荻野幸次郎

南米 次郎

久保 宝吉

 

 

 

 

 写真 昭和22年選挙当選の村議

  ※ 掲載省略

 

 26年の選挙

 昭和26年から統一地方選として村長、村会議員選挙が同時に行われるようになる。この年は4月23日が選挙日であった。当選者は以下の通りであった(任期‥26年4月30日〜30年4月29日、定数26人)。

浦島 捨三

高坂新三郎

松下 忠平

志賀 留吉

一色 正三

村上 国二

久保 宝吉

神田 周三

荒   猛

桐山 英一

笠原 重郎

福家 敏美

太田晋太郎

林  財二

小林八百藏

佐藤敬太郎

石川 庄一

久野専一郎

藤沢幸一郎

四釜卯兵衛

伊藤卯一郎

中西 覺藏

松岡熊太郎

高畠 正男

佐川 亀蔵

床鍋 正則

 

 

 当選者のうち半数に近い12人が新人であった。議長に福家敏美、副議長に村上国二が選ばれる。福家敏美はこれ以降、38年4月まで長期にわたり議長をつとめることとなる。

 なお、松下忠平が辞職したため、荻野幸次郎が27年10月5日に繰上げ当選した。

 

 写真 昭和26年選挙当選の村議

  ※掲載省略

 

 30年の選挙

 昭和30年4月25日に行われた選挙の当選者は以下の通りであった(任期‥30年4月30日〜34年4月29日、定数26人)。

菅原 寅吉

桐山 英一

一色 正三

穴田 裕二

床鍋 正則

神田 周三

南 米次郎

佐藤敬太郎

四釜卯兵衛

浦島 捨三

小林八百藏

伊藤武三郎

六平 健三

笠原 重郎

太田晋太郎

近藤 利尾

村上 国二

高坂新三郎

仲川善次郎

岩田悌四郎

中島 喜造

久野専一郎

林  財二

中西 覺藏

菅野 善作

福家 敏美

 

 

 この選挙では新人8人、元2人が当選している。前期と同じく議長には福家敏美、副議長には村上国二が選ばれた。高坂新三郎が32年6月3日に死去により辞職し、5期をつとめた四釜卯兵衛がこの期を最後に引退した(37年2月に死去)。

 

 写真 昭和30年選挙当選の町議

  ※ 掲載省略

 

 34年の選挙

 昭和34年4月30日に行われた選挙は、町長選が海江田武信が無投票で2選を決めたのに対して、町議選の方は26人の定員に34人が立候補するという激戦であり、これまでの選挙戦にはなかった「街頭演説や個人演説会が各所で火花を散らし、選挙の話となれば町民自らも眼の色を変えると云った恰好にあった」という(『富良野新聞』昭34・5・2)。こうしたまれにみる激戦の結果、投票率も92.81lという高率であった(有権者数9,724人、投票総数9,025票)。この選挙の当選者は以下の通りであった(任期‥34年4月30日〜38年4月29日、定数26人)。

村上 国二

竹内 正夫

中西 覺藏

床鍋 正則

谷  與吉

宮野孫三郎

桐山 英一

近藤 利尾

久保 宝石

林  財二

平田喜久丸

伊藤武三郎

南 米次郎

吉岡 光明

小林八百蔵

浦島 捨三

一色 正三

谷  清吉

松原 照吉

宇佐見利治

久野専一郎

佐藤敬太郎

坂彌  勇

仲川善次郎

太田晋太郎

福家 敏美

 

 

 この選挙では、「新陳代謝望む」(『上富週報』昭34・4・25)という住民の意向を反映してか新人が8人も当選し、吉岡光明が31歳の若さで当選して話題となっていた。議長には福家敏美、副議長に村上国二が再選されたが、村上国二は38年1月31日に町長選挙に出馬のために議員辞職し、後任の副議長には2月に一色正三が選ばれた。また、久野専一郎は36年2月27日に辞職し、床鍋正則も38年2月11日に町長選挙に出馬のために辞職した。議会活動では自衛隊との交流を深めるために、34年10月1日に初めて一日入隊が行われている。

 なお、今期をもって昭和7年以来、31年間の長期にわたり議員をつとめ、26年5月以来12年間も議長職にあった福家敏美が引退した。

 議会活動では優良町村の議員視察が36年に行われている。この年10月に東旭川、当麻、遠軽、置戸、上常呂、美幌などを視察し、(1)人口面積に於る産業形態、(2)予算規模と議会予算、(3)行政区設置等住民組織と役場の連絡関係、(4)庁舎の設備状況、(5)学校施設の状況、(6)衛生施設の状況、(7)住民福祉施設の状況、(8)産業振興対策の状況、以上の8点が視察項目であった。これ以降、積極的に議員の視察が行われるようになる。

 

 写真 昭和34年選挙当選の町議

  ※ 掲載省略

 

 38年の選挙と議員総辞職

 昭和38年4月30日に行われた選挙の当選者は以下の通りであった(任期‥38年4月30日〜38年8月1日、定数26人)。

一色 正三

坂彌  勇

上村  勇

平田喜久丸

八倉巻藤右ヱ門

桐山 英一

伊藤武三郎

谷  清吉

宮島與四郎

和田 正治

高橋  忠

佐藤  満

片倉喜一郎

林  財二

水谷 武雄

山本 康夫

會田久左ヱ門

谷  與吉

浦島 捨三

三好  豊

菅野 忠夫

宇佐見利治

大場 清一

南 米次郎

上田 英一

中西 覺藏

 

 

 この選挙では新人14人が当選し(元1人)、大幅な顔ぶれの交替と世代更新がなされた選挙であった。所属では自民党が16人、無所属が10人となっていた。議長に中西覺藏、副議長に一色正三を選任している。

 しかし選挙後、僅か3カ月ばかりの8月1日をもって議員が総辞職した。詳細は第2項で記述した通りであるが、村上町長の専決処分を止むなく承認したことから議員が総辞職したものでその理由は、「〔専決処分に伴う〕この契約行為に必要な予算の裏付けはなされておらず、適法な執行の出来ない専決処分に対する承認なので、ここに全議員自ら町民各位の信託に応えられなかった責任を取って、総辞職することに決意したのである」とされている(『上富良野町史』283頁)。

 

 写真 昭和38年春選挙当選の町議

  ※ 掲載省略

 

 38年の再選挙と議会

 議員総辞職後のやり直し選挙が、町長選と同時に8月25日に行われた。36人が立候補するやはり激戦であったが、当選者は以下の通りであった(任期‥38年8月25日〜42年8月24日、定数26人)。

佐藤敬太郎

平田喜久丸

吉岡 光明

八倉巻藤右ヱ門

清水 一郎

大柳 正二

松原 照吉

高橋 重志

宇佐見利治

水谷 武雄

會田久左ヱ門

久保 宝石

大場 清一

桐山 英一

坂彌  勇

浦島 捨三

南米 次郎

松浦徳太郎

竹内 正夫

三好  豊

伊藤 忠司

林  財二

谷  與吉

和田松ヱ門

西谷 勝夫

中西 覺藏

 

 

 この選挙では新人9人、元3人が当選し、4月の選挙に続いて半数あまりが交香するという変動ぶりであった。また、全員が無所属という届出となっていた。議長に中西覺藏、副議長に佐藤敬太郎を選任している。議長の中西覺藏は41年12月17日に辞任し、42年1月7日に議長に佐藤敬太郎、副議長に林財二を選任した。議員では41年1月28日に吉岡光明、同年1月13日に竹内正夫が辞職し、和田松ヱ門も42年7月31日に町長選出馬のために辞職している。

 議会活動では38年9月28日に総合庁舎建設計画の推進に関する事項の調査を行い、委員6名で構成する上富良野町総合庁舎建設特別委員会を設置した。同会は42年に庁舎が竣工したのにともない同年7月15日に廃止された。塵介、し尿処理、学校給食、公営病院の経営に関する事務共同化調査特別委員会も41年7月22日に設置されている(委員6名、42年3月1日に廃止)。

 42年6月から公共施設、公共事業等を視察する全議員による町内行政調査も実施していた。

 上富良野町議会議員会は38年9月1日に創設された。同会は、「議員相互の親睦と研鑽を図ることによって、その品性と識見を高め、もって議員の使命を達する」ことを目的とし、以下の事業を行うものとしている。

  (1) 町勢振興のために関する調査研究。

  (2) 会員の親睦のために行う懇親会、旅行会等に関すること。

  (3) 議員共済会、身分保障に関すること。

  (4) 会員の慶弔に関し、金品の贈呈に関すること。

  (5) その他目的達成のための必要事項。

 42年に条例を改正し議員定数を26人から20人に削減した。

 

 写真 昭和38年夏選挙当選の町議

  ※ 掲載省略

 

 42年の選挙と議会

 42年の選挙は、定数が26人から20人へと削減された中で行われ、26人が立候補し「開町以来の激戦」といわれていた(『上富週報』昭42・8・11)。

 東中地区では、「議員定数の削減により現在まで4名以上選出してゐたが、地域協定、人員の協選定に力を結集し、此の度は3名を選出し見事当選せしめた」としており(『東中郷土開拓誌』)、定数削減は「地域協定」にも大きな影響を与えることになった。当選者は以下の通りであった(任期‥42年8月25日〜46年8月24日、定数20人)。

桐山 英一

大柳 正二

宇佐見利治

坂彌  勇

林  財二

多湖正二郎

清水 一郎

西谷 勝夫

菅野  稔

谷  與吉

鎌倉 周吉

會田久左ヱ門

浦島 捨三

新屋 政一

南  藤夫

伊藤 忠司

佐藤敬太郎

松浦徳太郎

高橋 重志

床鍋 正則

 自衛隊OBの鎌倉周吉が820票という最高得票で当選して話題となったものの、当選ラインの得票数が大幅に上昇したために新人4人、元1人が当選したのみにとどまり、変動はいたって少なかった。所属は自民党11人、社会党1人、無所属8人で初の社会党公認候補の菅野稔が当選していた。議長に床鍋正則、副議長に桐山英一が9月1日に選任された。

 議会活動では43年6、10月の2度にわたり行政調査が行われ、これ以降、行政調査が恒例となった。特別委員会では、44年3月19日に上水道の水源地調査に関する上水道事業促進調査特別委員会が設置され(委員7名、45年3月14日に廃止)、中富良野町と共同で取り組む塵介処理事業に関する広域行政調査特別委員会も45年6月23日に設置されていた(委員5名、48年1月12日に廃止)。

 

 写真 昭和42年選挙当選の町議

  ※ 掲載省略