郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

6章 戦後の上富良野 第1節 町制施行と町政

733-739p

3、行政と財政の諸相

 

 名誉町民条例と表彰条例の制定

 名誉町民条例は36年3月に制定された。名誉町民は町民ないしは町の関係者に関して、「広く社会文化の興盛又は町の発展に寄与し、町民が郷土の誇りとし且つ深く尊敬に値すると認められる者」に贈られ(第2条)、町長が推薦し町議会の議決を経て決定されることになっていた。また、あわせて制定された表彰条例は、「町の政治、経済、文化、社会その他各般にわたって町政振興に寄与し、又は衆人の儀表と認められる行為があった者を表彰し、もって町の自治の振興促進することを目的とする」とされ、表彰の種類は功労、善行、納税、勤続(町特別職、役場職員、学校職員など)に分かれていた。

 名誉町民は前述したように第1号は田中勝次郎、第2号は海江田武信であったが、46年3月29日に山本逸太郎が3人目の名誉町民に選ばれる。山本逸太郎は明治32年に札幌で生まれ、40年に上富良野へ移住する。大正7年に函館商業学校を卒業し、兵役を終えた後は10年から家業の木材、運送業を継ぎ、12年には製材工場を開く。そのかたわら公職にもよく尽くし、戦前では村会議員(昭和15年5月〜21年1月)、在郷軍人会分会長(大正14年5月〜昭和18年4月)、商工会会頭(昭和13年4月〜18年4月)などをつとめ、戦後も山本木工場、富良野魚菜卸売市場、上富良野通運、富良野合同通運などを経営しながら上富良野町都市計画委員(27年〜36年)、社会教育委員(28年7月〜32年6月)、教育委員会委員長(31年10月〜37年9月)の公職を歴任し、ながらく商工会会長(21年4月〜42年12月)もつとめ、上富良野町の産業・経済、町政の発展、振興に多大な寄与をなしていた(山本逸太郎の経歴等については、『広報かみふらの』第208号〔昭和51年8月号〕が詳しい)。山本逸太郎は51年7月11日に死去し(享年77歳)、15日に町葬による告別式が行われた。

 名誉町民はその後、石川清一(51年9月2日)、村上国二(56年9月25日)、和田松ヱ門(60年12月20日)、酒匂佑一(平成4年11月25日)に贈られることになる。

 

 町民憲章の制定

 町民憲章の制定の契機となったのは、39年に上富良野青少年問題協議会にて生活の基本となる道しるべが必要と議論されたことであり、41年10月に会長であった海江田町長が開基70周年記念に町民憲章の制定を提案したものであった。制定に際して、@個人生活、A家庭生活、B社会生活、C郷土に関するもの、D自然を愛し環境を美しくするもの、以上の5項目につき全戸へのアンケート調査が実施され、それらをもとに起草委員会が憲章の制定に当たった。この結果、以下の町民憲章が制定された。

 

  わたくしたちは、雄峰十勝岳のふもと、富良野平原の母なる地、上富良野町民であることに誇りをもち、この憲章をかゝげて先人の偉業を継ぎ、明るく豊かな郷土をつくることにつとめましょう。

   一、正しい心と健やかな体で、希望に生きましょう。

   一、いたわりあって、楽しい家庭をつくりましょう。

   一、きまりを守り、明るい社会をつくりましょう。

   一、文化を高め、豊かな郷土をつくりましょう。

   一、勤労をよろこび、自然の恵みに感謝しましょう。

 

 新築なった総合庁舎前に「町民憲章の碑」が建立され、開基70周年記念式典にあたる42年7月24日に除幕式が行われた。

 

 写真 町民憲章の碑除幕式

  ※ 掲載省略

 

 縮合庁舎の建設

 役場庁舎は大正7年に建設されたものであったが老朽化し、町制の施行以降、職員も増員となり部署も増加して狭隘化してきていた。既に昭和26年に町制施行を申請した際、申請書にも役場庁舎について、「庁舎腐朽甚しく危険な状態となってゐることゝ、終戦後頓に町村事務の増嵩に伴ひ吏員増員となり、加ふるに農業改良普及員を吸収するときは相当増築をしなければならない現況にあるのでこゝ一両年中には改築する予定で居ります」と述べられ(『上富良野町史』248頁)、改築の予定であったものが長期にわたり延引されていたものであった。

 33年に増築と改造に着手され10月20日に竣工したが、早晩、新庁舎の建設は必要であった。38年に町議会にて議員提案により新庁舎建設が取り上げられ、40年に至り庁舎建設委員会が発足することになった。委員会では庁舎の規模、建設に係る財政措置、敷地問題などを協議していた。42年の開町70周年をめざして計画の実現が図られるようになる。

 40年に敷地が決定し、41年から2カ年計画で総工費1億1,900万円をもって工事に着工された。6月14日に建設の起工式が行われ、鉄筋コンクリート造、一部地下、3階建、面積延べ3,159平方bの規模で建設が進められていく。42年6月26日に消防庁舎を併設した近代的な庁舎が完成し、開基70周年記念行事と共に町総合庁舎落成記念行事が行われ、7月25日に庁舎が町民に公開されていた。

 

 写真 新築後の役場庁舎

  ※ 掲載省略

 

 助役と収入役

 戦後の助役と収入役の任命は以下の通りであった。

  助役

 

就任

退任

北川興一

22年6月

26年7月31日

北川興一

26年8月1日

30年4月7日

本間正吉

30年6月4日

34年6月12日

酒匂佑一

34年6月4日

38年6月3日

加藤 清

38年6月17日

40年6月30日

藤原利雄

40年7月1日

(42年9月1日に再任)

46年6月21日

  収入役

 

就任

退任

新井與市郎

14年7月15日

30年6月3日

西谷勝夫

30年6月16日

34年6月4日

西谷勝夫

34年6月4日

38年6月15日

薮下鉄次郎

38年6月17日

40年6月

 

 39年6月1日から指定金融機関制度として役場内に拓殖銀行上富良野派出所を設置して公金取扱を委託するようになり、41年6月から町長が収入役を兼職した。出納事務は新たに設置した出納室が行い、前収入役の薮下鉄次郎が初代室長に就任した(収入役は63年4月から再び任命されるようになる)。

 

 終戦後の財政

 表6−1は昭和20年度から45年度までの上富良野町における歳入、歳出の一般予算、決算の推移を示したものである(町制施行は26年)。終戦後、経済の混乱にともなうインフレーションが加速し、20年が22万円ほどであったものが、21年に138万円、22年に629万円、23年に2,029万円というように、予算が前年に比べて6.3倍、4.6倍、3.2倍となっており、当時のインフレーションのすさまじさをうかがうことができる。

 

 表6−1 一般予算・決算の推移(昭23〜45)

 

歳入

歳出

備考

20

22万0847円

22万0847円

予算

21

137万9963

118万2314

決算

22

629万3016

593万9254

23

2029万3629

1978万7811

24

2933万5321

2824万3363

25

3331万2827

3331万2827

決算見込

26

4827万3433

4827万3433

予算

27

4986万4587

4962万3109

決算

28

7225万5188

7111万3599

29

7678万9840

7678万9480

30

7310万8038

8388万3817

31

9620万5508

9620万5508

予算

32

8951万9000

8914万4000

決算

33

1億0942万6000

1億0915万7000

34

1億3325万5000

1億3170万4000

35

1億4379万7863

1億4065万5971

36

2億0154万9296

1億9835万0289

37

2億2236万7979

2億1424万2206

38

2億4205万5031

2億3768万3693

39

3億1789万4469

3億0898万6332

40

3億6064万4028

3億5259万4993

41

4億5141万1186

4億3914万6647

42

6億3458万2900

6億3184万9566

43

7億1397万7966

7億1050万3872

44

7億1225万9204

7億0844万1732

45

9億1809万2513

9億0573万0598

   出典:『上富良野町史』、町勢要覧(昭27、32、36)。

      20〜22年、41年以降は役場資料による。

 

 こうした動向につき『昭和二十三年事務報告』では、

 

 インフレの経済状態下にあって村財政需要頓に激増し、之が税収の確保は村政運営に及ぼす影響甚大なるを以てあらゆる困難を克服し、村の関係機関と充分なる連絡を保ち賦課徴収事務に処したる…

 

 と述べ、「税収の確保」が困難であったことを伝えている。当時は何よりも新制中学校制にともなう校舎の建築(上富良野中学校及び東中分校)、児童の急激な増加による各小学校の新増築、付属施設の整備などが急務となっており、歳出では教育費の占める割合が多くなっていた。26年度の場合でも教育費が26.8lと最も多く、次いで役場費20.2l、土木費12.4lとなっていた(『昭和二十七年町勢要覧』)。

 歳入ではやはり26年度の場合、町税が52.1l、地方財政平衡交付金21.4l、国庫支出金11.1lとなっており、半分は町税でまかなわれていた。このためにインフレーションと共に町税の増額が毎年行われ、町民の負担が倍加していた。これが原因となって24年には市街地住民が村民税の3割引下げを求めるトラブルが発生している。その経緯を示す以下の史料は、村議会にての小林八百蔵議員の発言である(『昭和二十四年議決報告』役場蔵)。

 

 本村の昭和二十四年度に於る村民税の査定に市街町民より三割引下げを要望する運動が展開され、此の事の起りは村民税の増額に伴ひ、他面には村政に対する不満の声、就中、村営住宅として購入を議決した…住宅地買入の内容に疑惑を抱き、村民税に絡んで物議を醸し紛糾を呈するに到り、之が円満解決に地元議員は昼夜を間はず百方に手を尽し説得調停に勉められたが、町民側は頑として譲らず事態は益々悪化し、延いては町民大会まで開こうといふ形成を示すに到ったのであります。

 

 村民税の増額と村営住宅地購入にからむ疑惑がトラブルの原因で、後者については議会で調査委員会を設けて調査し、不正のないことを市街町民に説明したようであるが、やはり村民税の増額が「村政に対する不満の声」となって、役場不信にいたったものであった。

 

 財政再建整備団体への指定

 上富良野町は31年度において財政再建整備団体への指定を受けることになった。30年度において1,077万円の赤字を計上したことが直接的な理由であり、800万円の財政再建債をもってこれを補填して急場をしのぐことになったが、財政の悪化はこの年だけではなかった。

 例えば27年以降、予算額に対して歳入の決算額は8割から9割にしか届かず納税率が極端に低下していたこと、さらには25年以降、15件の町債を起こし2,080万円の未償還金をかかえていたことなどもあった。こうした財政の悪化も指定を受けた理由であったろう。

 指定は34年までの4カ年間であったが、この間に健全財政の運用と納税率の向上につとめ、財政再建債を償還した結果、予期の通り34年度から解除を得ることができたのである。

 

 高度成長期への財政

 33年から予算は1億円を超えるようになる。これには自衛隊の移駐が税収にも好影響を及ぼし、地域経済も活性化してきたことなどによるが、日本経済が安定成長を遂げつつあった36年度から2億円、39年度から3億円を超え、めざましい伸びを見せ続けていた。そして40年代の高度成長期に入ると、41年に4億円、42年に一挙に6億円となり、43年に7億円、45年には9億円となる躍進ぶりであった。

 こうした予算額の急上昇は主に地方交付税、国・道支出金の大幅な伸びに支えられていた。いま町税、町債、地方交付税、国・道支出金、4種の占める割合を追ってみると、

 

町税

町債

地方交付税

国・道支出金

32年度

60.1

0

25.2

3.2

37年度

24.8

9.6

31.9

21.1

42年度

21.0

19.3

28.6

19.5

45年度

10.8

6.6

36.1

19.6

となっており、町税の占める割合が著しく低下し、その分地方交付税、国・道支出金が高くなり、両者合わせて5割を超えるようになっていた。

 また上富良野町の場合、42年度から防衛施設周辺整備事業の補助を受けるようになり障害防止、民生安定の2事業分野及び特定防衛施設周辺整備交付金がおり、財政運営、各種の基盤整備事業において外部依存≠フ傾向が顕著となっていったのである。

 一般の会計予算とは別に特別会計もあり、町立病院、国民健康保険の他に、38年度では白樺製肉、町有林、農業共済事業、酪農事業、45年度では白樺製肉、農業共済事業、国民宿舎、水道事業があった。

 

 上富良野振興公社と上富良野町土地開発公社

 上富良野振興公社は自衛隊の駐屯以来、急激に市街人口が増加してきたために、住宅事情の悪化、土地価格高騰の解決策として公共用地の先行収得を行い、計画的な町の発展をはかることを目的に町、商工会、農協、信金などの出資によって39年7月に設立された。公営住宅、スキー場、役場庁舎用地などの先行収得に実績をあげていたが、商法上の会社法人であるために資金、制度面で制約があったので次の上富良野町土地開発公社が創設となった。

 土地開発公社は47年に「公有地の拡大の推進に関する法律」により公法上の法人として認可、設置されるようになり、上富良野町でも全額を町が出資して町の代行機関として48年4月1日に上富良野町土地開発公社を設立し、地域開発事業に必要な公共地の収得、造成、管理と処分などを目的にしていた。

 この結果、上富良野振興公社は公益事業の経営、宅地分譲などの事業を行い、公共用地の収得は上富良野町土地開発公社が行うように改められた。

 

 人口の推移

 上富良野町の戦後の世帯数、人口の推移は表6−2の通りである。終戦により外地引揚者、戦後開拓の入地者の激増によって昭和20年に初めて1万2,000人台に達した。その後も漸増を続け、24年からは1万3,000人台に至っている。しかしながら、これ以降は微増に留まったままであった。

 この状況が打破されたのは30年の自衛隊の移駐からであった。この年の国勢調査では一躍、1万6,918人を記録して前年の20lも増加し、町の発展のもととなっていった。住民登録では33年には史上最高の1万8,753人を記録した。人口の増加は商工界にも活況を呼び、35年は120戸の住宅が新築となり、31年から35年にかけて384戸が建設されていた。市街地の拡大、都市的発展をもたらしていたのである。

 その後も人口は45年まで1万7、8,000人台を保っており、産炭地を中心にして全道では過疎化が進みつつある中で、上富良野町は安定した発展を続けていたのである。しかし、やがて46年以降、徐々にゆるやかな過疎化に見舞われていくようになる。

 

 表6−2 世帯数・人口の推移(昭20〜45)

世帯数

総計

 

20

2,013

6,003

6,481

12,484

 

21

2,047

6,123

6,327

12,450

 

22

2,036

6,240

6,347

12,587

 

23

2,108

6,387

6,481

12,368

 

24

2,127

6,551

6,555

13,106

 

25

2,138

6,613

6,648

13,261

国勢調査

26

2,160

6,686

6,706

13,392

 

27

2,209

6,781

6,800

13,581

 

28

2,215

6,911

6,950

13,861

 

29

2,232

6,942

7,049

13,991

 

30

2,508

9,566

7,352

16,918

国勢調査

31

2,658

7,823

7,908

15,731

 

32

2,781

8,001

8,129

16,130

 

33

5,189

10,417

8,336

18,753

 

34

5,266

9,973

8,249

18,222

 

35

3,097

9,102

7,999

17,101

国勢調査

36

4,788

9,438

8,514

17,952

 

37

4,675

9,039

8,056

17,095

 

38

4,968

9,431

8,325

17,756

 

39

5,072

9,463

8,414

17,877

 

40

3,419

8,365

7,839

16,204

国勢調査

41

5,320

9,487

8,614

18,101

 

42

5,325

9,414

8,538

17,952

 

43

5,320

9,288

8,473

17,761

 

44

5,062

8,794

7,790

16,584

 

45

3,646

8,109

7,682

15,791

国勢調査

   27年以降は国勢調査を除き住民登録調査(10月1日)。