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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第9節 戦時下の宗教

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6、民間信仰

 

 祭祀組織の改編

 地域の民間信仰のあり方をみると、a 個人・家、b 私的な信仰集団、C 農場・団体・組・農事実行組合・部落などの狭域的な地区組織、d 区・部などの広域的な地区組織、以上の4類型に分かれている。ここで取り扱う山神、地神はaもあるが、どちらかというとCの形態が多い。観音・地蔵信仰はa・bが多く、dは神社祭祀の単位となっている。

 この時期においてCに当たる行政・住民組織は、区・部の中で分割されていた組の組織であった。組が納税、消防、衛生などの行政以外にも冠婚葬祭、共同扶助、地区祭祀の単位、奉祀主体の役割を担っており、多くの組で山神・地神を建立し奉祀していた。

 村内における昭和5年及び7年の組数は105であった。しかし、この組は経済更生計画により農事実行組合に統合されていくようになる。上富良野村の農事実行組合は昭和3年4月に創設され、55組が設置されていた。8年に上富良野村経済更生計画の策定に際して農事実行組合の組織整備が課題とされ、大きな改正が加えられることとなる。それはこれまでの組長制を廃止し、かわって農事実行組合長が組長の代行をつとめ、行政的な連絡、組内のとりまとめ、行政区長の補佐などを担当することになったのである。この改正は農業組織と行政組織、さらには地域的な住民・社会組織をすべて1つに統合するものであった。この改編により組数も農事実行組合数にあわせられ、10年は53組とほぼ半減し、13年は60組となっていた。

 また、農事実行組合長が農会、産業組合等の地区役員を兼任することとされ、農事実行組合長のもとに各種の権限、情報が集中化、一元化するようになり、このような「単一的な組織・機構は非常に好成績を挙げ」るようになったのであった。13年の組合名、組合長、事務所所在地などは本章第1節に詳しい。一方、組の方は10年で85組とされており、これは農事実行組合と市街地の組(町内会)の両者を合せた数値のようである。農事実行組合が行政、社会の基礎組織となるあり方は、経済更生計画によるものであった。

 この組の改編、農事実行組合との統合は8年に実施されたとみられるが、これによりCの山神・地神祭祀は農事実行組合をもとに奉祀されるようになり、地区割の改編によって新たに山神・地神が建立されることになるのである。

 

 山神・地神

 この時期にも山神、地神が農神、作神として引き続き信仰され、新たに建立されていったのであるが、まずこの時期に新たに創祀された山神碑をみると、昭和7年11月7日に草分の更進の山神がつくられている。隷書体となっている「山神」の字は、中川利助(もと三重県志摩郡名田村の村長)の揮毫という。草分報徳の山神は昭和15年9月に、報徳農事実行組合によって皇紀二六〇〇年記念事業として建立されていた。碑には山田喜三郎、結城勘六、池田唯雄、立松石次郎、阿部三蔵、堀川熊五郎、池田節郎、館入権次郎、本田重吉、猪飼儀平、鈴木清、石神喜市の名前が刻まれている。この山神は明治30年代から組内の作神としてまつられており、15年に碑が新調されたものであった。

 続いて地神をみると、旭野二の地神は昭和8年に、旭野二部落によって建立され五角石柱である。天照皇太神、彦火火出見命、忍穂耳命、瓊瓊杵命、大己貴命の神名を刻んでいる。もとは旭野小学校左側敷地にあり、それから旭野公民館敷地内に移り、現在は辻家地内の先丘の上にある。草分旭の地神は自然石に天照大神、八幡大神、豊受大神の三神が刻まれている。昭和8年10月15日に再建されたものであるが、もとは大正元年頃に金子農場の関係者により創祀といわれている。『草分郷土誌』(昭24)には、「組内の協同団結を図る為、組員全員発起人となり昭和8年10月15日創立。毎年組内円満団結の作神として春秋盛大な祭りを施行」と記述している。この8年というのは先述したように組が農事実行組合へ改編された年であり、それにともない地神も創祀ないしは再建(改祀)されたのであった。

 日新鹿の沢では16年9月27日に、天照皇太神の地神が創祀されている。これは当時の鹿ノ沢組により創祀されたもので発起人に熊谷寿、三浦米作、世話人に伊藤八五郎、藤山義克、佐川亀蔵、片倉栄蔵、渡辺幸助、野々村治市、香川光一、梅津庄太郎の名前が記されている。同日に鹿ノ沢組一同で馬頭観世音も建立されている。日新一の日新神社にある地神も16年に建てられたものである。

 地神のほとんどは自然石、石材による石碑となっているが、経済的な理由により木柱を利用した場合も多く、やがて木柱・木標から石碑へと代わっていくパターンがよくみられる。ただ、現在でも木柱・木標をとどめるものもある。それは15年に創祀された日新三の地神であり、イチイの自然木をそのまま用いている。

 清富一の清富神社境内にある地神も、やはり15年の創祀でイチイの木柱であり、墨書は消えて現在は判読できない。

 

 写真 日新鹿の沢の地神

  ※ 掲載省略

 

 馬頭観世音

 この時期にも各農家では必ず馬を飼育しており、農耕・運送に利用していた。また冬期は造材現場に馬と共に出稼ぎに出ており、馬は重要な働き手であり、労働のパートナーであり家族の一員でもあった。農民の馬に対する愛着、感謝の念はひとしお強かった。

 上富良野村はさらに牧場も多く、軍馬・農耕馬などの馬産地でもあり名馬も輩出していた。そうした馬たちの健康祈願、あるいは死後の供養のために多数の馬頭観音が建立され、奉祀されていた。

 この時期に地域や集団で建立された馬頭観音をあげると、まず昭和3年3月に旭野中の沢にて、「南無大悲馬頭観世音菩薩」と記された馬頭観音碑が建立されている。続いて昭和9年7月7日に現在、上富良野墓地横の家畜墓地に立つ馬頭観音碑が建てられている。発起人は仁木孫三郎で世話役として荻子信次、本田茂市、岡寅蔵、吉田常吉、大場金五郎、斎藤久助、荻子俊三が記されている。旭野山加にある馬頭観世音碑は昭和10年に建てられた。碑文によると建立したのは山加実行組合一同であり、発起人として木村保寿、村上学蔵、西口幸作の3人が記されている。日新五の馬頭観世音は13年11月に熊谷寿、佐川清助により建立されている。左隣にある大正12年の碑と共に、佐川団体により奉祀されたものである。日新鹿の沢の馬頭観世音は16年9月27日に、日新鹿の沢組一同によって建てられた。

 江花公民館敷地の東側に3柱の馬頭観世音が移設されてある。そのうち左側の「南無馬頭観世音」は、もと江花二の北23号十字路上に14年11月に建てられたものである。碑文に発起人として山口中治、作家辰次郎、大場金五郎、村上善次、芳賀吉太郎、五十嵐富市、樋口五兵衛の名前が記されている。中央には馬頭観世音像があり建立年は不明であるが、2段の台座には67名の人名が刻まれている。いずれも江花の全域から奉祀されていたものであろう。右側には12年4月16日に、林寅吉が西山号のために建立した馬頭観世音がたっている。なお左側の碑は38年9月に移設されたものである。

 以上は地域や集団で建立・奉祀された馬頭観世音であるが、各農家とも馬を飼養していたので共同での奉祀が可能であった訳である。

 

 写真 江花の馬頭観世音

  ※ 掲載省略

 

 地蔵菩薩

 地蔵菩薩は地獄での救済仏として民衆からの信仰を集め延命、子安、勝軍地蔵など種類も多いが、一般的な地蔵菩薩は先祖や死者の供養として建立されている。上富良野村で地蔵菩薩は、新四国八十八カ所での建立を除くと、大正6年12月に東中の東14線北19号に、丸田吉次郎供養のために建立された地蔵菩薩が古い。丸田吉次郎は力持ちで各地の相撲大会に出て人気者であったが、同年8月15日にベベルイでの相撲大会へ出場しての帰途、熊に襲われて死亡した。この地蔵菩薩はそれを悼み、供養のために建立されたのである。

 この時期には地蔵菩薩の建立もみられている。上富良野墓地には昭和8年5月16日に杉山キクノが建立した六地蔵がある。彼女は1月16日に79歳で死去しており、故人の冥福と無縁仏の供養のために遺族により建立・寄進されたものであった。また、吉田豪蔵が12年10月21日に、「日支事変武運長久」のため建立した地蔵菩薩もある。英霊供養も兼ねてつくられたのであろうか。吉田豪蔵はまったく同じ12年10月にも、地蔵菩薩と大日如来を建立している。両者はやや小ぶりで一つの台座の上に並んでいる。71歳と年齢が表記されているが、来世での安穏を祈願したものかもしれない。

 吉田豪蔵が関係したものには、もう1体ある。それは3年11月に建立された「御大典紀念 岩尾山御分身弘法大師百体奉安碑」であり、発起人として大場金五郎、斎藤六助、笠原重三郎、岡寅蔵、世話人として13人の名前があり、回向院施主として吉田豪蔵の名が記されている。この場所には新四国八十八カ所の第5番地蔵尊、7番阿弥陀如来が所在していた。