郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第9節 戦時下の宗教

716-718p

5、天理教

 

 上富良野村の天理教

 上富良野村は天理教の活動が活発であり、信徒数も教会も多かった。既に上富良野(明治44年創設)、旭江(大正12年)、北鎮(13年)の3宣教所が創設されていたが、この時期に至り新たに上富、甲富の2所が創設となり、村内には5カ所の天理教教会をもつようになる。

 天理教の組織では本部−大教会−分教会−宣教所と系統化されていたが、16年に教規改正によって宣教所の呼称は廃止となり、すべて分教会に統一されるので上記の4宣教所も、分教会と呼ばれるようになる。

 以上の5宣教所を合わせた檀信徒数は6年の場合、2,105人となっていた(『昭和六年度上富良野村事務報告書』)。5年の国勢調査による上富良野村の人口は1万0,104人であったから、人口の約2割が檀信徒数であったことになる。村内では天理教の教勢がいかに強く、あつく信仰されていたことがわかるであろう。

 天理教も戦時中は苦難の道をしいられていた。例えば、「軍関係のひのきしんに全教信者の協力を要請されるにより、度々奉仕活動に専念する」とされており(上富良野分教会第五代会長就任奉告祭パンフレット、平5)、銃後の支援に奉仕活動であるひのきしんが利用されていたのであった。

 

 上富良野宣教所と上富分教会

 上富良野宣教所の沿革は『上富良野町史』によると、

 

 大正9年4月布教を開始し、同15年1月30日、天理教郡山大教会北陸分教会金沢支教会、上富良野宣教所設置認可、昭和4年2月22日申請、宣教所の名称を天理教郡山大教会北陸分教会高台支教会上富良野宣教所と改称した。

 

としている。上級の郡山大教会は奈良県郡山市、北陸分教会は福井県小浜市、高台支教会は空知支庁管内沼田町に所在していた。

 上富良野宣教所はしかし、既設の夕張分教会系の上富良野宣教所と名称が同一なので、昭和16年に分教会になるに際し、上富[かみとみ]分教会に変更をしている。

 宣教所は三重県鈴鹿郡国府村出身である森久八によって開かれ、森久八は担任教師として昭和34年までの長期にわたりつとめることになる。宣教所は9年から市街地1454番地(現在の栄町2丁目)に置かれていた。

 

 甲富宣教所と甲富分教会

 甲富宣教所は大正12年8月から布教を開始し、初代の担任教師となった佐藤初吉、スワ、とくゑによって15年2月5日に天理教甲賀大教会秩父分教会武光支教会甲富宣教所として設立された。

 上級の甲賀大教会は滋賀県水口町、秩父分教会は埼玉県大宮市、武光支教会は埼玉県に所在していた。武光支教会の部内には北海道の宣教所が多かった。

 

 上富良野宣教所と上富良野分教会

 明治44年の創設にかかり上富良野村では最も歴史をもつ上富良野宣教所は、当時、兵神大教会夕張分教会に所属していた。

 兵神大教会は神戸市、夕張分教会は岩見沢市にあった。上富良野宣教所では昭和6年3月に、第二代宣教所長であった佐藤正信が死去し、4月29日に妻である佐藤ユキヱが第三代宣教所長に就任していた。

 この時期の動向をみると、16年4月1日に天理教の教規改正により上富良野宣教所を上富良野分教会と改称し、17年3月31日に北海道庁より改称認可を得ていた。17年12月1日に下富良野町に富陽分教会が創設され、矢野憲一が分教会長に就任していた。上富良野分教会では神陽分教会に次ぐ、2番目の部内の分教会であった。

 

 旭江宣教所と旭江分教会

 旭江宣教所では大正12年1月に宣教所創設の認可を得、13年3月に大串新七が第二代会長に就任していたが親神の「目標」、教祖の分霊が鎮座していなかった。そこで昭和2年1月27日に本部へ下附を申請し、あわせて恒例祭日並びに説教日許可願も提出した。前者については4月12日に到着し、13日には奉告祭が行われ、また、後者については春秋大祭が1月13日、10月13日、春秋霊祭が3月20日、9月20日、毎月の月次祭が13日、説教日が2日が2月2日付けをもって承認となった。これにより旭江宣教所の体裁も整い、布教活動も活発となっていった。

 昭和5年2月の旭江宣教所は教師数2名、授訓数2名、青年会員24名、婦人会員14名であり、教師数の2名とは大串新七と米谷平三郎であった(『天理教雨竜大教会史−部内篇−』平5)。

 大串新七は16年11月に死去し、婿養子の大串直平が17年1月27日に第三代会長に就任する。

 

 北鎮宣教所と北鎮分教会

 北鎮宣教所は大正12年4月に東中の東8線北18号105番地に創設され、撫養大教会阿陽分教会に所属していた。撫養大教会は徳島県鳴門市、阿陽分教会は徳島市に所在している。宣教所を開いた笹山喜五郎は徳島県出身であり、同県人の多い東中にあって教勢の拡大につとめていた。

 この時期に入り担任教師は、昭和13年1月22日に狩野留治に変更となる。狩野留治は徳島市の出身で阿陽分教会にて修行を経た後、昭和4年に来道して布教に当たっていた。北鎮宣教所も16年に北鎮分教会と改称する。

 

 宗教結社

 戦時期の神道系宗教結社については、『寺院台帳』(役場蔵)には神道実行教上富良野至誠教会信徒結集所、扶桑教上富良野祈祷所の2所が記載されている。

 至誠教会については『旧村史原稿』に、神道実行教上富良野至誠教会信徒結集所とし、所属は神道実行教であり代表は布教師を兼ねた日向菊松であった。沿革については昭和16年12月に、「信徒百五十余名の結集を得るに至り」、17年1月20日宗教結社の届出をなし、3月20日に許可を得たことを記している。

 『寺院台帳』では代表を日向菊以とし、昭和19年の村税史料には日向きくゑが村税免除の法人の中にみえている。

 扶桑教上富良野祈祷所は代表が小林キノであったが、戦後は神道大和教結社となる。