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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第9節 戦時下の宗教

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3、寺院と仏教

 

 大雄寺

 曹洞宗の佛国山大雄寺は大正7年に寺号公称し、12年に本堂が落成していたが、やはり大雄寺も十勝岳の爆発により檀徒に死者52名をだし、建物にも被害を受けていた。主に泥流の浸水によるものであり、損害見積額は112円とされていた(『十勝岳爆発災害小史』)。そのために庫裏の土台替と座敷の新築が行われ、昭和5年7月1日に落成をみている。大雄寺はこの時期に進展をみせており、この5年には島津忠重より「大雄寺」の直筆の額を下付され、本山の永平寺からは勅持賜明鑑道機禅師御木像や御伝衣が5月29日に下付されている。12年には海江田武信、山本一郎、金子浩の尽力により境内地3,272坪の寄付を島津家から得、4月14日に登記を完了させていた(『上富良野町史』)。

 この時期に境内にも石仏が多く安置されている。まず、2年5月に島津農場の管理人であった海江田信哉、金、鉄哉の3人が発願して、海江田家の墓所を兼ねた観世音菩薩が安置されている。

 4年9月に巽の屋善平が地蔵菩薩を安置し、5年5月24日には、「十勝岳大爆発横死者ノ菩堤ヲ永久弔ハンカ為、三十三身ノ観世音菩薩ヲ建立ス」と、被災者の追善のために境内に新四国三十三所観世音菩薩が、伊藤常右衛門が発起人となって造立された。

 三十三観音の奉納者は以下の通りである。

 

1

伊藤常右衛門

2

福屋キヨ

3

西谷イク

4

大沢治雄

5

根尾初五郎

6

佐川清助

7

山ロヤソ

8

菊池巳蔵

9

菅原寅右衛門

10

喜多久吉

11

久保本為栄

12

菊池政美

13

酒井鏡・基直

14

北川スヱ

15

熊谷菊次郎

16

熊谷健治

17

藤山義克

18

堀井ミサ

19

伊藤広五郎

20

松原リヤウ

21

山本リス

22

片倉伊右衛門

23

為松永四郎、片倉伊右衛門

24

伊藤八百治

25

船引藤兵衛

26

分部亀吉、田中常七

27

佐川庄七

28

益山由次郎、河村秋雄

29

堀江源作

30

守田勇造

31

小野寺丑蔵

32

田村岩蔵

33

土肥マサ、庵本種枝

 

 14年7月には中西勘兵衛ほかが中西家の先祖菩堤のために、子安観音を安置している。また、昭和5年に水田国太郎、井上哲朗、金沢喜代吉、黄田嘉平、遠藤藤吉、佐々木兵左衛門の発起によって聖徳太子講がつくられて、聖徳太子像も安置された。講長は水田国太郎(昭和5年)、金沢喜代吉(13年)、佐藤敬太郎(17年)がつとめていた。

 大雄寺の檀信徒数(檀家数)は6年で286戸あり(『昭和六年度上富良野村事務報告書』による)、村内の4寺院の中ではもっとも数が多かった。

 住職は引き続き滝本全應がつとめていたが、全應は10年に北海道曹洞宗第十四教区長、16年に北海道曹洞宗努所代表教区長となっていた。

 

 写真 大雄寺太子像

  ※ 掲載省略

 

 明憲寺

 真宗大谷派の明憲寺では、この時期に寺観の整備が企図され進められていく。まず、昭和2年10月に納骨堂が建築されている。明憲寺でも十勝岳噴火により檀家の中に少なからずの犠牲者を出しており、その遺骨を収容するものであった。7年には63坪の平屋建の庫裡を新築し、間もなく15坪に増築している。そして、何よりも懸案であったのは本堂の新築であった。本堂は4年2月に建築設計書が成り計画され、5年に高畠龍郎が2,000円の寄付を行っていたが、諸般の事情によりのびのびとなり、17年9月にその寄付金をもとにビバウシに4町3反の畑、ルベシベに5町、エホロカンベツに4カ所、14町の原野を購入し、本堂建築資金造成のために落葉松を植林していた。本堂の建築は戦後に持ち越され、竣工が成ったのは31年であった。17年当時の境内の建物をみると、本堂(建坪82坪)、庫裏(62坪)、渡廊下(6坪154)、書院(19坪)、預骨所(4坪5)、物置(12坪)、便所(3坪)となっており、以上はいずれも1棟、平屋、柾葺であった。鐘楼は銅板葺、入母屋造で建坪は7坪であった。

 昭和17年2月に明憲寺では、宗教団体法に基づき「明憲寺寺院規則」を制定している(3月31日に道庁認可)。規則文は真宗大谷派の共通のものであるが、布教形態としては毎月28日に行う定例布教、法要・儀式または随時行う臨時布教、特殊事項または商店・工場・各種団体について行う特殊布教、布教師・名士を招聘して講演会・講習会として行う招聘布教、大谷派所属寺院や他の教派と連繋して行う合同布教、以上の五形態が規定されている。これに即した明憲寺での15年から18年までの布教の状況及び檀徒数を、『寺院事業報告』(明憲寺蔵)からみると以下の通りであった。

 

 

15年度

16年度

17年度

18年度

定例布教

72回

36回

48回

48回

2,159人

540人

960人

960人

臨時

55回

43回

31回

31回

8,250人

3,010人

1,600人

1,600人

特殊

12回

2回

 

 

120人

20人

 

 

招聘

1回

1回

1回

1回

100人

100人

100人

100人

合同

1回

1回

1回

1回

200人

50人

50人

50人

檀徒数

 

260戸

260戸

260戸

 

 この戦時下にあって明憲寺では、17年10月25日に梵鐘を供出したが、「檀徒総出シテ上富良野駅ニ送出」したという。また、半鐘も17年11月に「戦時空襲警報用トシテ警防団へ供出」し、さらに18年12月13日には、本尊や祖師前の具足6組、仏飯器6本などの金属器を供出しており、苦難の時代を迎えていた。

 18年12月1日に総代世話方会を開き明憲寺国民貯蓄組合の設立も決定している。

 明憲寺の住職は、14年5月27日に近藤信行が第二世住職に就任した。また、寺の基礎をつくった開基住職の義憲は、同年9月29日に死去している。

 総代は5名で任期は3年であったが、「明憲寺寺院規則」によると、「総代ハ檀徒又ハ信徒ニシテ其ノ責務ヲ完ウシ、衆望ノ帰スルモノノ中ニ就キ総代ニ諮リ住職之ヲ定ム」とされていた。総代の役割は、「本寺院ノ護持経営ニ関シ住職ヲ扶ケ、本寺院ノ興隆発展ニ努ムベキモノトス」ることであった。この時期の総代の人びとの変遷を示すと以下のようになっている(『法流』明憲寺刊、昭63)。

 

畑中良太郎

41〜昭16

北村 吉間

9〜昭22

杉本助太郎

5〜昭7

高畠 正信

10〜昭37

佐々木喜太郎

11〜昭9

高松 由平

8〜昭34

小瀬市五郎

10〜昭21

荻野幸次郎

2〜昭44

岡田甚九郎

13〜昭34

西山 酉治

2〜昭18

林 吉三郎

10〜昭15

小瀬太治郎

10〜昭15

作家辰次郎

10〜昭20

道井太十郎

10〜昭35

野原 助七

10〜昭34

 

 

 

 また、16年12月17日に改選された総代は以下の通りであった。

高島 正信(市街地、薬種商)

荻野幸次郎(中富良野、農具商)

岡田甚九郎(西5線北176番地、農業)

高松 由平(東6線北21号、農業)

野原 助七(東2線北122番地、農業)

 

 19年10月1日の改選に当たっては、住職出征中につき以上の5名は留任に決定していた。

 檀信徒数は6年では317戸、16年から18年はほぼ倍の260戸となっていた。寺内の組織としては上富良野婦人法話会があり、同会は「真宗ノ教旨ニ基キ信念ヲ確立シ婦徳ヲ涵養スルヲ目的トス」とされていた。

 

 聞信寺

 真宗本願寺派の聞信寺は、大正13年3月に死去した開基住職である門上晴雲の跡を受け、15年4月7日に副住職から第二世住職に就任した門上浄照のもとで、安定した発展を続けていた。

 この時期の事跡としては、昭和4年7月9日九條武子(21代法主大谷光如の次女)の歌碑除幕式に際して大谷光明、12年3月3日に23代法主大谷光照が十勝岳登山の折に、それぞれ聞信寺に巡錫したことであった。前者の歌碑は浄照が発起し、檀信徒の協力により建立されたものであった。後者に関してはこの時、浄照は記念碑の建立を企図し、光照に「光顔巍々」という銘文の揮毫を得ていた。そして17年8月26日に、十勝岳山頂に碑が建立された。

 次に戦時下における聞信寺の様子を昭和15、16年度の『寺院事業報告』からうかがってみることにしよう。まず、布教状況であるが、それは表5−44にまとめたように18種の布教・法要がなされていた。ここから当時の法要暦もわかり興味深いのであるが、このうち3、10、11、14、17、18を除いていずれも布教使を招待しての布教が行われていた。また、9事変戦没者の追弔法要、16時局大講演会などのように戦時下に即した布教もみられていた。布教の回数、延べ人員が最も多かったのは、毎月行われていた婦人会定例会における布教となっている。

 

 表5−44 聞信寺の布教状況(昭15・16)

布教種類

昭和15年

昭和16年

開催日

回数

集合延人員

回数

集合延人員

1

定例婦人会

12

980

12

600

毎月

2

御正忌報恩講

4

300

4

240

1月14〜16日

3

前住上人祥月

2

200

2

120

1月17〜18日

4

記念法要

3

450

3

180

2月23〜25日

5

彼岸会法要

7

550

4

500

3月18〜24日

6

永代経布教

5

600

5

500

4月17〜18日

7

正徳太子

2

250

2

250

4月11、12日

8

宗祖大師降誕会

2

300

2

300

6月1、2日

9

事変追弔会

1

200

1

200

7月7日

10

太子慶讃法要

1

400

1

300

7月8日

11

臨時布教

1

80

 

 

8月2日

12

盆会法要

3

450

3

450

8月14〜16日

13

宗祖大師報恩講

6

800

6

800

9月13〜15日

14

彼岸会法要

4

200

4

200

9月24〜27日

15

永代経布教

5

500

5

350

11月5〜9日

16

時局布教

1

200

3

240

 

17

先帝聖忌法要

1

150

1

200

12月25日

18

出張布教

8

340

8

180

 

 

58

6,950

66

5,640

 

   出典:『〔聞信寺〕寺院事業報告』(聞信寺蔵)

 

 公益事業としては15年度の場合、以下の3点が記されている。

 

 (1) 境内地約三〇〇坪、本堂・廊下等約五〇坪、庫裏ノ一部壱弐坪ヲ使用シ昭和四年以来毎年五月十一日ヨリ七月十四日マデ、及ビ九月十六日ヨリ十月三十日マデ四ヶ月、農繁期托児所ヲ開設。

 (2) 毎月ノ興亜奉公日ニハ未明ニ喚鐘ヲ打鳴シ、町内会員ヲ本堂前ニ集合セシメ宮城遙拝、戦没将士ノ英霊ニ感謝ノ黙想及ビ前戦将士ノ武運長久ヲ祈リ神社参拝、参道清掃ヲ励行ス。

 (3) 毎月庫裏ヲ使用シ町内常会ヲ開催ス。

 

 (2)(3)からはきびしく迫った戦時下の様相がよくうかがわれる。託児所に関していうと、浄照が吉田村長の支援のもとで本堂を利用して昭和4年5月1日に、上富良野村託児所楽児園を開設することになる。楽児園には15年に皇后陛下より御下賜金が授与され、これをもとにして幼児の守本尊として聖徳太子像が安置されることになった。厨子は愛国婦人会、国防婦人会からの寄進になり、15年7月8日に聖徳太子御尊像の入仏式慶讃法要が執行された。当日は伶人奏楽のもとに稚児も参加して行われ、聖徳太子像を供奉したにぎやかなお練りの行列が、駅前から市街大通りを経て聞信寺にまで行進し、そして盛大な法要が厳修されたという(「幼稚園々舎建設趣意書」聞信寺蔵)。

 次にこの時期の檀家(檀信徒)数の推移をみると、

 

6年

125戸

9年

128戸

10年

130戸

11年

138戸

12年

144戸

13年

143戸

15年

143戸

16年

142戸

 

となっている。

 檀家総代はこれまで西田與八、一色仁三郎、和田柳松の3名であったが、昭和3年11月より7名となり、上記3人のほかに水上栄吉、福屋貢、山崎小一郎、村上繁二郎の4人が新しく総代に加わった。12年5月に総代の改選が行われ一色仁三郎、西田與八、和田柳松、山崎小一郎、福屋貢、一色丈太郎、藤井定一、水上直吉の8名が選ばれている。

 寺内の檀家組織では仏教青年会と仏教婦人会の2会があった。

 仏教青年会は9年12月24日に、上富良野仏教青年会として設立が仏教青年会聯合本部から認可となり、10年1日10日に創立となり、会長に和田松ヱ門が就任していた(仏教婦人会は第5節に既述)。

 

 専誠寺

 真宗高田派の専誠寺は当時、西2線北28号に所在していたが、同寺も十勝岳噴火の大泥流の被害に会い、堂宇は大きな被害を受け寺観も損なわれることになった。だが専誠寺の復興については、「到底罹災檀徒ノ資力ヲ以テ復旧スル能サル事情ニ陥リタルヲ以テ」という理由により、義捐金の中から500円の補助を受けてなされることとなった。専誠寺が大正15年10月に提出した「寺院修理補助願」に添布した「理由書」には、以下のことが述べられている(『災害関係書類』役場蔵)。

 

 本寺ハ大正二年十二月二十六日寺号公称ノ御認可ヲ受ケタル所ニシテ境内地ハ三重団体ノ中央ニ位シ、檀徒亦本方面ニ最モ集中シ居リテ聞法上遺憾ナキヲ期シ来リタルニ、本春ノ十勝岳爆発ニ伴フ大泥流ハ恰モ本寺ノ檀徒ノ多数ヲ衝キ、本寺亦之カ惨禍ノ中軸ニ置カレ植樹ノ為辛クモ流失ヲ免レタリト雖、泥土ノ堆積ハ四囲五尺、屋内床上二尺ニ達シ今後本建築ヲ維持センニハ、現土台ヨリモ約六尺ヲ高ムルニ在ラサレハ到底使用ニ堪ヱサル状態ニ有之、之カ為多額ノ費用ヲ要スへキモ現在ノ檀徒ニテハ到底負担ニ堪エサル所ナリトス。尚モ公私ノ絶大ナル御同情ニ依リ復興ノ大策ハ已ニ成リタルヤニ聞キ及ヒ、カクテハ聞法ノ機会ヲ与へテ精神上ノ慰安ニ資スルハ復興促進ノ上ニ於テモ徒ナラサル様思考セラルヽニ付、特別ノ御詮議ヲ以テ願書記載ノ金額御補助相仰キ度ク茲ニ本願ヲ提出スル所以ナリ。

 

 ここでは泥土が境内地、堂宇に堆積し、修復は「現在ノ檀徒ニテハ到底負担ニ堪エサル所」であったこと、また修復は「聞法ノ機会ヲ与へテ精神上ノ慰安ニ資スル」ことであり、「復興促進」にも有益であることが述べられている。専誠寺の復旧工事が何時なされ完工したのかは不明であるが、おそらく昭和2年中には「復興」がなったとみられる。

 専誠寺では昭和2年8月23日に、本道を巡回講演中の長岡仙岳を迎えて講演会がなされ(『北海タイムス』、昭2・8・10)、また、後に高田派の第23世法主となる常盤井堯祺が4年8月、及び14年9月20日の2度にわたる北海道巡教の折に、専誠寺にても巡教が行われた。

 檀信徒数は6年の場合125戸であり、『上富良野町史』には復興時代の総代として以下の人々があげられている。

 

 吉田吉之輔   橋本宇三郎  鹿間勘五郎  高田 利三

 亀島久太郎   布施 正一  落合 善助  洒谷 寅尾

 伊藤七郎右衛門 中沢忠三郎

 

 専誠寺ではこの他に久野伝兵衛(大正7年2月20日死去)、田中栄次郎(昭和4年1月8日)、篠原音吉(17年1月1日)が戦前期の功労者として位牌が奉祀されている。