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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第8節 昭和戦前期の村民文化

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3、さまざまな文化活動

 

 短歌と俳句

 大正期におこった上富良野における文芸活動は、昭和期に入っても衰えることはなかった。昭和5年9月20日には、村の広報として『我村』が発刊されたが、これにも発刊当初は青年会会員の投稿論文にまじって巻末に短歌や俳句の掲載欄があり、大正期に続いて創作活動の活発さがうかがえる。

 一方昭和3年7月には、松浦勇(孤星)がすずらん会を組織し、同人誌「すずらん」を発行した(『上富良野町史』)。昭和5年1月には小田観蛍も属する『潮音』系の北海道結社である新墾社が組織され、昭和16年11月には東中の青地繁(紫雲)が札幌新墾社に入社し、小田観蛍の指導をうけた(『上富良野町史』)。また戦時下にあっても人々の創作意欲は失われず、青地のほかにも和田耕人、石川清一らが中富良野潮音会に参加し、同会は昭和19年5月に機関誌『富良野路』を発刊している(『中富良野町史』)。

 

 講演会・活動写真会・演説会・弁論大会

 大正期にはじまった「民力涵養」への取り組みは、昭和期になっても続いた。「昭和五年度事務報告」によると、「民力涵養ニ関シテハ、常ニ意ヲ注キ之レカ完壁ヲ期セント努力シツヽアリ。今ヤ農村住民ノ覚醒ニ依リ、堅実ナル農村建立ノ方針確立スルニ至リタルハ、洵ニ欣幸トスル所ナリ。」(『昭和六年村会』役場蔵)とあり、昭和期にも「民力涵養」への取り組みが、村政のなかで重要視されていたことがうかがえる。

 一方その手段としては、やはり大正期と同じように、講演会や軍事講話、活動写真会の開催という方法がとられた。特に活動写真会は、上富良野村や北海道庁主催であっても、1〜2千人を集める大盛況であり、またそれ以外でも在郷軍人分会の余興や信用販売購買組合主催で慰安活動大写真会などが開かれていた(『旭川新聞』昭4・3・12、3・24)。

 また昭和初年には、政談演説会なども盛んに行われているが、とくに上富良野では、昭和4年頃に弁論研究会の活動があり、村民の弁論への関心が高まっている。『上富良野町史』によると、このころは富良野線沿線における弁論全盛時代といわれており、研究会が結成されたのもこのような風潮の影響と思われる。ちなみに同年8月23日午後6時には夏季弁論大会が開催され、学生の帰省時期と重なり、かなりの盛況であった。論題は、「機械文明の影響」、「農村青年の使命」、「農村経済の合理化」、「神社と宗教」、「農村経済の樹立」「国体精神の涵養」、「外来思想の弊害」、「革命の烽火」、「中国民の愛護」など、農村問題から宗教や道徳、思想に至るまで多岐にわたっていた(『旭川新聞』昭4・8・26)。

 

 華道・茶道

 大正期からはじまった吉岡有香の華道・茶道の出張教授は、昭和6年ごろまで続いたといわれているが、一方昭和3年ころからは、中富良野神社の宮司植田鷹平に華道池坊流を習いにいく人々もいたらしく、高畠清子、佐藤ミサヲ、佐藤サカヱらが弟子となっていた(佐藤輝雄談)。また昭和6年ごろからであろうか、植田は上富良野への出張教授をおこない、この時期植田から華道の薫陶を受けた人々のなかから、戦後上富良野で華道の一派を立てる人もでてきた。また茶道のほうも、昭和期には自ら教授する人もでてきた。たとえば佐藤サカヱは大正8年ごろから和裁を教え、富良野、布礼別、茂尻などまで出張教授を行い、昭和2年ごろからはミシンを教えるようになっていたが、その佐藤は、昭和初期から和裁生徒のなかの希望者に茶道も教授していたという(佐藤輝雄談)。また戦後上富良野で茶道の師匠として活躍したのも、やはり吉岡の高弟であった人々であった。

 このような華道や茶道の普及の様子は、当時の上富良野とその周辺市町村における文化の波及のありさまをよく表している。なお旭川からの出張教授も、土田カネのはからいで昭和15、6年ごろ行われていたらしいが、戦局が悪化した昭和18年ごろに中止されたという(星野富美子談)。

 

 写真 池坊橘会上富良野支部の記念写真

  ※ 掲載省略

 

 舞踊・音楽

 昭和戦前期に舞踊が上富良野の人々へどのように普及していったかは明らかでなく、木村清臣という教員が舞踏や演劇などを指導したらしいが、詳しいことは不明である。

 洋楽のほうは昭和8年市街地を中心とする中央青年団の団員に音楽愛好者がおり、バイオリン、アコーデオン、ギターなどを持ち寄って音楽サークルを作っていたという(『上富良野町史』)。またブラスバンドに関しては、桐山英一が組織した桐山ブラスバンドが結成されており、同バンドが昭和12年11月、日中戦争の戦勝祝賀のため村主催で祝賀旗行列が行われた際、先頭に立って全村民を神社まで先導し、またその夜の商工会主催の祝賀提灯行列でも村民の先頭にたって市中を一巡したという記録がある(『我村』第26号昭12・11・25)。またこのバンドは、日中戦争勃発後は、出征兵の歓送、歓迎の際の演奏を一手にひきうけていた(『我村』第28号昭13・7・25)。

 

 劇場の変遷

 大正期繁盛した共楽座は、いつのころからか経営不振に陥り、その後は田村徳一、伊藤勇太郎、葛山勝太郎の共同経営による三共座を経て、昭和11年ごろには伊藤七郎右衛門が新築した永楽座が本町3丁目付近にあった(『上富良野町史』、「今から六十年前、昭和十一年頃の上富良野村市街地・街並み推定概略図」)。その後永楽座は、旭川美満寿館の弁士であった桐山英一が経営に携わり、昭和16年11月5日に上富良野劇場と名前が改められた(『上富良野町史』)。

 

 新聞事情

 上富良野を発祥とする新聞が発行されるのは戦後のことであり、開拓が開始された明治期には報知新聞や毎日新聞、大正期には小樽新聞、北海タイムス、旭川新聞、北海日々新聞などが多く読まれていたといわれている(『上富良野町史』)。

 一方昭和7年になると、富良野で『富良野民報』に勤務していた近野藤太郎(陽翠)が『暁報新聞』を発行し、昭和11年には日刊紙として『富良野毎日新聞』を旭川で印刷した(『富良野地方史』昭44)。その後『富良野毎日新聞』は、昭和12年11月26日に上富良野支局を開設し、支局の担当には佐藤敬太郎が指定された。上富良野における支局開設は、近野にとって「当初より包懐したる」ことであり、これを報じた『富良野毎日新聞』の紙面で近野は「上富良野村のため、郷土愛護の精神と新聞紙本来の重大なる使命を自覚する」と決意を明らかにしている(『富良野毎日新聞』昭12・1・26)。

 

 村史の編纂

 昭和18年、村役場の書記であった熊谷一郎により、『上富良野村史』が執筆された。

 『上富良野村史』は、上富良野の開基50周年を記念して執筆され、『上富良野志』の編纂以降、初めて本格的にまとめられた村史である。項目も第1編沿革から、村政、地史、経済、文化、交通通信、軍事関係、十勝岳爆発などで、『上富良野志』編纂以降、とくに大正、昭和戦前期の上富良野の様子が網羅されている。ただし昭和18年という時局からであろうか、この『村史』は刊行されず、現在残されているものは東中中学校で発見された当時の草稿原稿のみである。

 

 写真 50周年を記念して執筆された村史原稿

  ※ 掲載省略

 

 ラジオ放送をめぐって

 日本でラジオ放送が開始されたのは大正14年のことであり、以後放送網は全国に拡大し、開局の年36万人であった契約者が、満州事変以後には100万人を突破した。上富良野でも、「大正十五年、突如として無線にて話の分かるもの駅前小松商店に出現し、村民驚異の的となる。之ぞラジオにてありき」と『旧村史原稿』にあるように、大正末にはラジオの普及が始まったと考えられる。また十勝岳の噴火や模範村としての上富良野に注目が集まったからだろうか、昭和11年5月19日午後7時30分より「十勝岳爆発十周年に際して当時の回顧談と其の後の十勝岳竝に遭難地域の変遷復興の状況」と題して、前上富良野村長の吉田貞次郎が、また昭和13年6月19日には「自治運営の根基強化に就て−国民精神総動員実践運動−」と題して、金子浩村長がラジオ出演している。さらに昭和13年8月9日の『富良野毎日新聞』には、村役場の全職員が体位向上を目的として、毎朝7時50分からと午後2時40分からラジオ体操を行っているという記事がある。

 一方、村内では電池式ラジオの経費がかさんで思うようにラジオ聴取ができないという地域もあった。そこで昭和15年11月、東中の床鍋正則らが地区の25戸のうち、電灯のある家に親受信機を設置して無灯火地帯に有線ラジオを送るという共同聴取施設の設置を計画した。しかし太平洋戦争勃発直前であり、また資材不足のため昭和18年まで計画は棚上げされ、一時は専門家から設置は不可能であるとまでいわれたが、床鍋や蝶野ラジオ店の尽力により、同年8月13日午後2時ころ地区の全戸にラジオが聞こえ、共同聴取に成功した(本田茂「ラジオ共同聴取の沿革」『東中郷土誌』)。このような有線放送は、道内では喜茂別が最初で、次いで上富良野で行われたとNHK旭川放送局では記録されているが、認可を受けずに放送を行っていた1年間を加えると、上富良野が道内初だという(『上富良野町史』)。

 

 写真 昭和初期のラジオ

  ※ 掲載省略