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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第8節 昭和戦前期の村民文化

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1、十勝岳登山とスキー倶楽部

 

 十勝岳登山の流行

 昭和期になっても、旭川中学や旭川師範学校スキー部、旭川実科高等女学校の生徒が、泥流の跡をたどるスキーランニングや登山に挑戦するなど、相変わらず十勝岳登山の流行は続いた(『北海タイムス』昭2・1・7、12・21、『旭川新聞』昭2・10・4)。昭和3年1月22日には、北大生4名がスキー登山中遭難し、24日に無事救出されるという事件もおきている(『北海タイムス』昭3・1・25)。

 当時十勝岳は、例年7月5日頃から9月30日頃までが山開きの期間で、昭和3年の登山客は、旭川営林区署から登山票を交付された人だけで、男性292人、女性3人を数えている(『北海タイムス』昭3・10・20)。また昭和4年7月21日には、上富良野尋常高等小学校の6年生以上約160名が登山を行ったほか、旭川市連合青年団(『旭川新聞』昭6・7・26)や庁立旭川高等女学校(『旭川新聞』昭6・7・28)、旭川師範学校山岳部(『旭川新聞』昭7・7・15)など、子供や学生の団体登山が毎年のように行われた。さらに昭和8年7月28日には庁立札幌高等女学校、8月6日には静岡商業学校山岳部など、上川管内だけでなく、遠く道外からも登山者が来訪するようになった。

 このような十勝岳登山の流行に対して、上富良野ではさらなる登山客獲得のため、昭和13年6月25、26日の両日、旭川観光協会の大雪山祭りに呼応して第1回十勝岳祭りを開催し、一般の参加希望者を募っている(『富良野毎日新聞』昭13・6・15)。ちなみにコースは、25日に吹上温泉で1泊し、26日早朝より登山、旧火口前で祭典を行い、本十勝岳、前十勝新噴火口、泥流跡を経て下山するというものであった。

 

 写真 昭和初期の十勝岳山開きに参加した人々

  ※ 掲載省略

 

 十勝岳とスキー

 一方昭和期になると、十勝岳は夏の登山だけでなく冬のスキー場としても注目されるようになった。大正15年の十勝岳噴火により発生した泥流の跡が、スキー場として高い評価を得たからである。とくに昭和4年4月第七師団のスキーコーチとしてヘルセットが十勝岳を訪れ、吹上温泉一帯のスキー場を日本で最も理想的なスキー場であるとし(『旭川新聞』昭4・4・9)、翌五年にハンネス=シュナイダーが、十勝岳の雪質や変化にとんだゲレンデを絶賛した(『旭川新聞』昭6・1・18)ことから、スキーヤーの注目を浴びるようになった。冬季には小樽、札幌、旭川方面のスキーヤーの便宜を図るため、「十勝岳征服スキー列車」が運行され(『旭川新聞』昭6・1・21)、さらには昭和六年の北海道拓殖博覧会に農産物を出品するだけでなく、十勝岳スキー場を紹介しようという動きもあった(『旭川新聞』昭6・2・24)。

 

 二つのヒュッテ聞き

 昭和8年の1月から3月までで、十勝岳のスキー客は約1,000名を数えた(『旭川新聞』昭8・4・7)。このためスキー客の増加に対応すべく、吹上温泉にヒュッテを作る計画が具体化された。このヒュッテは昭和8年1月28日竣工して「白銀荘」と名づけられ、2月5日ヒュッテ開きが行われた。しかし「白銀荘」は、前年大雪山が国立公園に指定されたこともあって、名士の迎賓用として使われることとなり、一般には公開されなかった(『旭川新聞』昭7・12・19)。一方吹上温泉は収容力100人程度で、例年12月20日頃から北大スキー部の合宿が行われるなど、かなり混雑していた(『旭川新聞』昭7・12・19)。そこで昭和8年10月もう一つヒュッテが建設され、「勝岳荘」と名付けられた。

 

 写真 十勝岳でハンネス・シュナイダー

 写真 白銀荘前で佐上道庁長官と吉田村長

 写真 冬の勝岳荘

  ※いずれも掲載省略

 

 中茶屋への鉄道敷設

 また昭和11年ごろから、上富良野ではさらなるスキー客の誘致をめざして、上富良野駅から中茶屋までの鉄道敷設が要望され、陳情が開始された(「北海道富良野線上富良野駅ヨリ分岐中茶屋ニ至ル鉄道新設ニ関スル陳情書」『昭和十年起陳情書』役場蔵)。昭和12年2月には、金子村長始め有志数名が上京し、衆参両院、鉄道省を訪問することとなった(『富良野毎日新聞』昭12・1・17)。この陳情は、その後札幌での冬季オリンピック開催の話がもちあがり、昭和13年5月に旭川観光協会、上富良野観光協会、上川観光協会が協力して国立公園大雪山を世界的観光ルートとする方針で協力することとなったことから、そのための施設整備の一つとして実現することとなった(『富良野毎日新聞』昭13・5・20、26)。

 

 さまざまなスキー客

 その後も十勝岳は多くのスキーヤーに利用され、昭和11年11月22日には吹上温泉旅館で、旭川営林区署長矢野義治、中部保勝会稲葉忠七、旭川運輸事務所営業掛長大島作造、旭川車掌区長京田直一郎、上富良野村長金子浩、上富良野駅長高橋証三郎の諸氏と旭川日刊新聞記者の合わせて24名が出席し、スキー座談会が開かれた(『富良野毎日新聞』昭11・11・25)。また昭和12年1月25日より、札幌逓信局主催の第2回集配人スキー講習会が吹上温泉を根城に実施され、十勝・釧路の集配人が講習生となった。北大スキー部の合宿も、例年12月下旬に1週間程度、吹上温泉を定宿にして行われている(『富良野毎日新聞』昭13・12・23)。

 

 上富良野スキー倶楽部と白樺倶楽部

 一方、十勝岳スキー場への注目が高まると、地元上富良野でもスキーの愛好者が出はじめ、上富良野スキー倶楽部が設立された。この倶楽部は吉田貞次郎村長、御子柴卓ほか25名の有志が発起人となり、「十勝岳の世界的スロープを世人に紹介すること」、「第七師団、北大等に依頼してコーチをなすこと」などを目的として発足した(『旭川新聞』昭5・1・28)。発会式は昭和5年2月9日に垂水山で挙行され、翌年には会員数が二百数十名に達し、毎年上富良野スキー大会を開催するなど、活発な活動をくりひろげた。

 また昭和12年6月、国際オリンピック委員会が1940年の第5回冬季オリンピック大会の札幌開催を決定すると、上富良野では、「将来本村より世界的大スキー選手を養成し、来るべきオリンピック大会に参加すべき各選手を送らねばならぬ」として、同年初冬、白樺倶楽部が設立された(『富良野毎日新聞』昭13・3・29)。この倶楽部は各種スキー行事や講習会、大会開催、各地スキー巡りを企画し、村内スキー団体の指導、後援、スキー及び登山の趣味の徹底、十勝岳の宣伝などを行い、上富良野スキー倶楽部と協力してスキーのオリンピック選手を養成することを目的としている。また興味深い点は、この倶楽部が年齢40才以上の男女によって組織されたことで、最初の参加人数は31名であった。

 その後昭和13年7月、冬季オリンピックの札幌開催は夏季オリンピックの東京開催とともに中止され、白樺倶楽部の設立目的は宙に浮き、この倶楽部が結局どうなったかは不明である。ただし昭和13年12月23日の『富良野毎日新聞』によれば、この時期上富良野には「老い込んではならぬ、身心鍛練に依って益鋭意を培ひ、次代の青年に範例を示そう」という目的で、「上富良野の老巧組」により白樺会が結成されており、白樺倶楽部はオリンピック選手の養成という目標は失ったものの、白樺会として存続したとも考えられる。またオリンピック参加の夢はともかくとして、十勝岳とその麓の富良野線沿線には、大人から子供まで多くのスキーヤーがいたことは確かであり、昭和15年2月4日には、中富良野弘楽園スキー場で富良野線方面の小学校体育会主催の第2回スキー大会なども開催されている(『富良野毎日新聞』昭15・2・6)。