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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第6節 昭和戦前期の教育と青年団

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4、戦時体制下の教育

 

 戦争勃発と小学校の役割

 昭和12年7月7日の盧溝橋事件から始まる日中戦争は、全国民をいわゆる戦時体制に巻き込んでいった。上富良野でも、国民精神総動員運動が展開されるのと前後して、銃後後援会が設立され、軍人やその家族に対する慰問・慰謝、労力援助がなされた。

 小学校は、役場や学校、農会、組合等の首脳が派遣されて、国民精神総動員や国民精神作興をスローガンとした講演会や懇談会を行う会場(『我村』第25号昭12・8・25、『富良野毎日新聞』昭13・11・7)を提供し、「非常時」に対する村民の覚悟を喧伝する場として利用された。また慰問の実践や「非常時」への認識は小学校教育でも重視され、昭和12年11月13日〜19日の国民精神総動員強調週間には、「在満在支の陸海軍郷土将兵に対し、各学校生徒の児童をして感激慰問の手紙を作成せしめ、優秀なるものを発送」したり、「非常時心身鍛練」のための「遠足行事体操会」が開催された(『我村』第26号昭12・11・25)。特に出征兵士への慰問文はその後も盛んに書かれ、村報『我村』にも掲載された。また昭和13年には上富良野尋常高等小学校の5年生以上の市街地通学生たちが、農繁期休業を利用して応召軍人家族の農業手伝いをしたり(『富良野毎日新聞』昭13・10・11)、東中尋常高等小学校が剣道用具購入準備金を得るために、映画会を開催し、通学区域一般住民の入場料をその費用にあてる(『富良野毎日新聞』昭13・12・11)といった活動もみられた。

 

 小学生の献金

 一方この時期には国防費への献金や慰問袋の発送が盛んに行われ、特に国防費への献金は、大人だけでなく小学生の間でも行われた。『我村』第25号には、上富良野尋常高等小学校児童一同が34円43銭、同校高等科卒業生女子一同が4円の献金を行ったことが掲載されている。また『我村』第26号にも、旭野尋常小学校児童一同が1円20銭、上富良野尋常高等小学校高等科一年農業三班が1円70銭、上富良野尋常高等小学校尋常科四年男組一同が2円83銭の献金を行ったことが記され、「献金美談・童心の赤誠」として、小学生の献金のエピソードが綴られている。たとえば「上富尋高校尋三、河村悠紀子、河村キミエ、松浦アサ子、中尾栄子さん達は古雑誌を売却し、お小使を節約して金三円を国防費に献金」、「上富尋高校尋二、成田美喜子さんは糸を売ってこしらへたお金二円を献金、校長先生も大変感心して手続下さる」、「同校鈴木サカヘ、菅野チエ子、菅野フヨノ、田中ミツ子、山本幸子さんの五人はお小便を資にして行商で得たお金を五円五銭献金して、金子村長を感激せしめた」、「江花校西村信枝さんはお小使を節約して赤心五十銭を献金」といったものである。

 

 軍事教練と青年学校

 上富良野の国民精神総動員への取り組みは、かなりの成績をあげ、昭和13年6月19日には、金子浩村長が本道を代表して「自治運営の根基強化に就て」と題するラジオ演説を全国にむけて行い、上富良野における国民総動員実践運動の成果を発表した。そのなかで青年学校に関しては、次のように述べられている。

 

 殊に次の時代に活躍すべき青年教育の重大性に鑑みまして、全村青年総動員の下に青年学校に入学出席の督励を厳に致しました結果、入学出席共に頗る優秀の成績を挙げて居ります。校下の父兄竝に青年学校後援会は、克く時局を認識して呉れまして、村内四つの青年学校に対し、女子部の教室一教室を初め、機関銃訓練銃等約五十円の寄付があり、又小学校に対しては、同窓会の醵金に依り価格一千五百円のピヤノ一台、及山本逸太郎氏は価格三百円の拡聲器一台の寄付等、物心一如の是等尊き後

 援に対し深く感激致して居るのであります(『我村』第28号昭13・7・25)

 

 このように、上富良野における国民精神総動員運動では、青年学校における教育が重要な位置を与えられており、父兄や後援会からの寄付も盛んに行われた。金子村長の演説のなかに出てきたもの以外にも、毛利勝太郎や田中勝次郎などの個人、東中住民会や吉田貞次郎を代表とする第二区住民などの団体が、各地区の青年学校に教練用の銃や軽機関銃などの戦備品を寄付している(『富良野毎日新聞』昭13・5・3)。また昭和13年2月には、江幌青年学校が上川支庁147校の青年学校から選ばれて「青年学校教育研究学校」に指定され、道庁から施設奨励費の交付を受けた(『我村』第28号)。

 一方具体的な取り組みとしては、青年学校の生徒たちを「突如動員下令」して夜間訓練を課したり(『我村』第25号)、村内各青年学校合同で軍事教練(『我村』第26号)を行うなど、「青年の心身鍛練」に重点が置かれた。また金子村長のラジオ演説によれば、このような大規模な軍事演習のほかにも、毎月鍛練日を定め、生徒が各自の家で育成している馬を持ち寄り、教練に参加するという、「青年の心身鍛練」と「軍馬の鍛練」を同時に行う「一石二鳥」の訓練が行われたり、東2線北27号の射撃場工事に青年学校の生徒が労力奉仕を行ったりした(『我村』第28号)。さらに昭和12年10月に結成された上富良野村防護団にも、青年学校の生徒が青年団員や女子青年とともに動員され、防衛の中核を担うものとして位置づけられた(『我村』第26号)。

 

 国民学校の設立

 昭和16年4月1日「国民学校令」が施行され、従来の小学校は国民学校と改称された。国民学校は「皇国の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為す」ことを目的とし(「国民学校令」第1条)、国家主義的傾向の強化される社会情勢に対応した教育改革を実施するためのものであった。これにより初等科6年、高等科2年が義務教育と定められ、学科も国民科、理数科、芸能科、体練科、実業科(高等科のみ)の5教科となり、従来の学科目が編成替えとなった。

 上富良野でも、「国民学校令」の施行により全ての尋常小学校、尋常高等小学校が国民学校と改称した。ただ問題は、上富良野には上富良野尋常高等小学校と上富良野尋常小学校があったことである。これらは国民学校と改称した場合、ともに「上富良野国民学校」となってしまい、これまで以上に区別がむずかしくなってしまう。そこで6月11日上富良野尋常小学校のほうを「創成国民学校」と改称し、この間題は解決された。

 

 青年学校の統合

 一方、壮丁学力検査で尋常小学校卒業者の低学力が問題視され、青年学校を義務制にせよとの声が各方面で強まったため、昭和14年青年学校は義務制となった。義務制は同年度普通科第1学年に入学したものから実施され、本科5年までを義務制とし、この結果勤労青年が尋常小学校卒業後7年間の教育を受けることとなった。ただし上富良野では、同年上富良野、東中、草分、江幌の各青年学校に男子普通科、女子部研究科が増設されたが青年学校の増設は行われず、昭和17年1月28日になって江花、里仁、旭野、日新、清富の各尋常小学校に青年学校の設置が認可された(『旧村史原稿』)。

 ところが翌18年、各青年学校は6月10日付で上富良野青年学校1校に統合され、上富良野校以外の8校は分教場となり、校長には東明武雄が就任した。この結果、学科は各分教場で教授され、教練の場合は全生徒が上富良野校に参集して行うという形態をとることとなった(「昭和十八年度事務報告」『昭和十九年議決報告』役場蔵)。

 また敗戦直前の7月には、統合された青年学校を母体として「上富良野村国民義勇戦闘隊青年学徒隊」が結成され、隊本部長には東明校長が就任し、郷土防衛を目的として各地区ごとに小隊や中隊(市街と東中)が置かれた(『郷土をさぐる』第2号)。

 

 太平洋戦争下の学校生活と援農

 太平洋戦争下の学校生活については、上富良野も、道内あるいは全国どの地域もそれほど違いはなく、勉強二の次で芋拾いや赤クロバー採取、イタドリ採集、亜麻引き、ヨモギ取りなど各種の作業に動員され、春の種まき、夏の除草、秋の収穫などの援農や家の手伝いにかりだされた。昭和18、9年頃までは修学旅行や運動会なども行われたが、終戦近くなれば時局を考慮して全て中止となり、専ら防空壕掘りやタコ壷作り、防空演習などに明け暮れていた(『郷土をさぐる』第6、第12、第13号)。

 一方全国的には、大学・高等専門学校生の学徒出陣や国民学校初等科児童の学童疎開が行われ、昭和18年以降本格化した学徒勤労動員では、中等学校生徒が軍需工場で作業したことはよく知られている。ところが同じ学徒勤労動員でも、食料増産のため中等学校生が農村に派遣され、授農に従事したことは案外知られていない。

 上富良野でも援農は行われ、昭和16年7月25〜28日に北海道庁立旭川商業学校が、水田除草作業に従事したのが最初とみられる。援農は、春と秋の農繁期を中心に短期で4日、長期で7カ月にも及び、少ない時で1校36名、多い時で1校240名もの学生が動員された。そのほかに上富良野に派遣された学校で判明しているのは、昭和17年の旭川師範学校、昭和18年の旭川商業学校と市立旭川中学校、長野県立南安曇農学校、岐阜県立郡上八幡農学校、同可児実業学校、山口県立小郡農業学校、同宇部農芸学校、福岡県立八女農学校、長崎県立(諌早)農学校、昭和19年の長野県立北安曇農学校、茨城県立大子農林学校、私立札幌商業学校、旭川市立旭川中学校、昭和20年の北海道庁立旭川中学校、東京経済関係高専、私立小樽双葉女学校、北海道庁立函館商業学校、小樽市立女子商業学校で、まさに全国各地から学生が動員されている(下田達雄『続昭和の軌跡−上川管内学徒勤労動員∧援農∨の実態』)。

 動員された学生たちは合宿して各農家に通うか分宿し、田植えや水田・畑地の除草に従事した。合宿した生徒は、援農する農家までの遠距離を徒歩で通わなければならず、また各農家に分宿した生徒は、各農家の生活時間に従うため作業時間外まで働かなければならなかった(『郷土をさぐる』第6号)。勤労動員は、勉学から遠ざけられ、空腹や病気、怪我に見舞われる学生も多く、学徒出陣とともに日本教育史の悲劇として語られることが多いが、上富良野における援農の実態を調査した下田達雄著・編『学徒勤労動員その実態−北海道空知郡上富良野村の場合−』に寄稿された援農学生の文章には、親元から離れ、厳しい農作業に従事したものの、上富良野は比較的食料豊富だったことや分宿した農家とのふれあいが綴られている。

 

 写真 宇郡農芸学校の学徒援農隊と農家主婦たち

  ※ 掲載省略