郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

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2、幼児教育の始まりと郷土教育

 

 幼児教育の始まり

 上富良野における幼児教育は、昭和4年に開設された託児所に始まる。この託児所は、聞信寺住職の門上浄照が「幼児保育施設の重要性を痛感し」て、当時の村長である吉田貞次郎の支援をうけ、同年5月1日に寺の本堂を開放して開設された(「幼稚園々舎建設趣意書」、門上美義所蔵)。この託児所は「最初の間は託児所の如何なるものなるやを理解する者尠く、従って託児の数も尠く、僅かに2、3名にすぎなかったが、各方面より熱心勧誘の結果、追々一般の認むる所とな」り、42、3から50余名の出席があったという(『旭川新聞』昭4・5・30)。また季節的託児所であったため、春の農繁期の終わる6月9日にいったん閉所し、秋の農繁期にあたる9月16日から10月15日までの期間に再開された(『旭川新聞』昭4・6・16)。

 その後この託児所は「楽児園」と名付けられ、春・秋の農繁期、5月から6月の末と9月半ばから10月末までの年2回開所された。開設当時は門上キヨノ、門上キヨヱが保育にあたり、昭和8年以降は門上信子が参加した。出席する園児は3才から7才までの50〜60名で、6、7才の園児が最も多く、午前7時から午後6時までの保育時間に唱歌、遊戯、談話、散歩、手工などの保育を行った(『旭川新聞』昭6・7・8)。昼食は各自持参し、おやつが毎日2回支給され、保育料は徴収しなかった(『旧村史原稿』)。

 またこのような託児所事業は、戦時体制下の銃後事業としても重視され、門上は昭和13年には応召者の多い東中地区でも源照庵寺を会場に「銃後託児所」を開設し、主任である門上の献身的努力と地域住民会有志の後援によって好成績を収めた(『我村』第28号、昭13・7・25)。ただし源照庵寺は昭和15年に廃寺となり、その後は東中会館が会場に使用された。

 

 郷土読本の発行

 昭和7年7月、上富良野村教育部会は『郷土読本』を編纂した。ちょうどこの時期は、全国的な教育動向として、郷土愛の育成による愛国心の養成を目指した郷土地理教育が重視されており、また満州事変や五・一五事件後の昭和恐慌による農村疲弊への対応から同7年9月頃より農山漁村経済更生運動が本格化した。したがって『郷土読本』は、まさに「愛郷心の養成」が最も強調された時代状況のなかで編纂されたものであり、小学生が「郷土のありさまを知る」ことを課題とした副読本であった。

 内容は、まず「テイシャバ」、「ヤクバ」、「ジンジャ」、「トカチダケ」がそれぞれ写真入りで紹介され、「私どもの村」の項で村の沿革が述べられている。また全編を通じて「頭注」が設けられ、上富良野の村治、経済、産業などについての説明や統計が記されている。また特に力を入れて紹介されているのは、「学校」と「十勝岳登山」についてである。「学校」の項では、各学校を写真入りで紹介し、「汽車の中から見た上尋校」、停車場を降りると市街地の左手の町はずれの落葉松森のそばにある「上富良野校」、春の遠足で行った「東中校」、「春の江花校運動会見物」、「秋の遠足里仁校より江幌校」、「夏不息校から日新校へ」と、各学校へ向かう道路や周辺の風景、授業の様子などが述べられている。また「十勝岳登山」の項では、「六月二十八日」に児童が実際に登山をしたという設定で登山道の情景や名所、噴火口の様子などを紹介する一方、巻末には十勝岳噴火で罹災した児童の感想文も掲載している。したがって内容的には、ただ単に「愛郷心を養成」するだけでなく、児童に「泥流災害」と「登山・観光」についての知識を与え、上富良野が「十勝岳」といかに共存するかを学ばせる構成となっている。