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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第5節 昭和戦前期の社会

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2、凶作と災害

 

 昭和戦前期の凶作

 昭和戦前期の凶作は5・6・7年と続き、昭和恐慌や満州事変と重なる社会不安の大きな要因であった。

 上富良野の6年の凶作は「昭和六年度事務報告」によると、春から気候不順で雪どけが遅く、5月下旬から7月下旬まで冷寒打ち続き、8月に気温回復しても遅くて水稲は全村を通じて「約四割内外の凶作」「畑作は八割以下」であった。生産物価格の暴落もあって農民は救済事業がなければ「生活不能の窮境」に陥るよりほかになかった。翌春、上富良野は「救済払下米」を448俵の配当を申請した(『旭川新聞』昭7・3・5)。

 翌7年の凶作は9月の水害による打撃もあって、深刻さを増し、上川管内15カ町村の代表は道へ大挙陳情した。『旭川新聞』は7月10日から「赤裸々な農村の姿」(農村実情座談会)を連載し、各町村の「欠食児童すら救済できぬ惨状」などを報道するなかで、上富良野は比較的楽であるとみられた。吉田村長は良いわけではないが、「今、速急に食うに因るというものではない」という認識であった(昭7・7・11)。ただ、水田には適種のチンコ坊主のほか各種合わせて作付けし、畑も同様に小麦・ビート・亜麻などを植えてきた結果であると語っている。さらに同紙によれば、8月はじめの富良野地方の水害でも上富良野はその被害を免れた模様である。

 なお、『北海道凶荒災害誌』(昭和12年刊)によると、上富良野における降水量は8年8月4日から9月15日までに、全道的に多い500〜600abの範囲にあった。6年は、米作被害では、収穫皆無が全体の約30lである。その他、6年の凶作地窮民に対する済生会巡回診療や、7年水害凶作被害などに、上富良野は挙がっていない。先の「昭和六年度事務報告」にみられる村民の窮乏はこのような被害を受けていても、他町村と比較していくらか救われていた、ということなのであろう。医療面では、7年に上川支庁から上富良野へ農漁山村救療費186円が割当てられ、管内の医師の応援で「二箇所二日間」巡回診療があった(『旭川新聞』昭7・10・23)。

 

 害虫対策と霜害予防

 凶作の要因に、水害・低温など自然現象の一方に、稲や作物を襲う害虫被害があった。上富良野では、3年7月7日甜菜に発生した夜盗虫の駆除指導(上川支庁)を受け、翌年7月には全村あげて3日間、泥負虫を駆除した(『旭川新聞』昭3・7・2、4・7・25)。

 凶作の昭和6年には、水稲の泥負虫の発生が村内に蔓延し、農会と連携して薬剤散布、舟形網などを使って極力、被害を防いだ。

 さらに、9月中旬から稲の成熟前の霜害予防を「公職者」の応援を受けて行ない、10月に入って燻煙を6回(3・4・9・10・12・15日)実施した(「昭和六年度事務報告」)。

 道は米の増産をめざしていたが、害虫発生被害に対処するため、5年以降病害虫防除の訓練日を設けるようになった。7年は7月5日から3日間で、上富良野へも「試作場本間技手」が来村した(『旭川新聞』昭7・6・17、7・6・27)。

 しかし、9年には除虫菊に萎縮病が蔓延し、薬品防除が遅れて5割余りの減収となり、加えて8月からの冷雨と9月9日の暴風雨は前年の5割の減収を来し、水田耕作者の疲弊を増大させたのだった(「昭和九年度事務報告」)。経済更正計画などに位置付けて、全村あげての害虫・霜害対策が続けられた。