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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第5節 昭和戦前期の社会

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1、医療と衛生

 

 衛生観念の普及と結核予防

 昭和戦前期の医療と衛生は、明治期から富国強兵政策のもとで、国民体位の向上に務めることを目的に、学校衛生、徴兵検査の機会を通じて、推進されてきたことに加えて、全国的には丈夫な子どもを育てる母子保健思想の普及や健康保険制度がはじまった。

 北海道では昭和2年7月、全道衛生連合会第四回総会(旭川)が開催され、6市25町村の衛生組合代表が集い、提出議案の第1に「北海道結核予防についてその筋へ建議」(福島村)をあげた(『旭川新聞』昭2・7・7)。衛生上の問題は、乳児死亡率の高いことと、結核が都市部だけでなく農漁村部の青年層にも蔓延し、結核死亡率が昭和10年以降戦後に至るまで死因の第1位を占めることであった。

 ただ、農家衛生の改善に対して、「飲料水の改善 寄生虫の駆除 トラホーム予防及び治療 医療機関の充実 公設産婆及び巡回衛生婦の設置」を上川支庁では2年9月に「更に一段の努力」を求めた(『至昭和二年町村会議要書』)。これらは昭和戦前期を通しての課題であった。

 上富良野衛生組合は、『上富良野町史』によると大正15年創立とあるが、14年版『村勢要覧』にはすでに登載されているので、その創立は14年以前と思われる。

 村の衛生事業は、昭和6・9年度歳入歳出予算(『村会』資料)によると、衛生諸費の中から、トラホーム治療薬品・蛔虫駆除薬・狂犬予防薬などを用意し、16区の各衛生組合へ配布。各衛生組合では、衛生事業として地域の各戸をまわり、各戸の清掃検査を行い、独自の「検査済」のステッカーを戸口に貼った。各区単位の衛生組合の発足年は、不明だが『衛生組合会計簿』(郷土館蔵)が残されており、町内毎に月会費を徴収し、上部へ上納していた。

 衛生観念の普及に女性たちの活動が期待された。女子青年たちは第7節昭和戦前期の教育と青年団活動に見られるように、青年団活動とともに実業教育の充実によって学習の機会も増していた。とくに衛生については大日本連合女子青年団発団式(昭和2年8月東京)において「婦人衛生と育児」(吉岡弥生)、第一回北海道女子青年団指導者講習会(昭和4年7月苫小牧)で「家庭衛生上の諸問題」(道庁学校衛生技師)など各種の催しにおいて必須の講演内容であった(『自大正九年処女会ニ関スル書類』)。

 結核予防に精力的に取り組んできた、飛沢清治医師は、牛乳から栄養を摂ることを村民に普及するために、まず自分で牛を飼う事から始めた。道庁に掛け合い江花地区へ導入した。また、家屋に日光を取り入れ、換気をするためにガラス戸を、はめ込みの4枚から6枚の引き違い戸を勧めていた。よく飛沢医院へ農家の人たちが「先生、見てくれや。6枚戸いれた」と報告にきたものだという(飛沢尚武談)。役場では予算に伝染病予防宣伝費の他、昭和14年に「結核予防宣伝ビラ代」を組んでいる。

 なお、昭和初期の上富良野における「結核予防デー」の啓蒙仮装行列が、駅前で勢揃いした記念写真(上富良野町郷土館蔵)が残されている。2階建ての家にも届くような数本の、竿の先に、太陽の模様と「日光消毒」の標語を書き込んだ大判の旗、また「ゴミバコニハ・・石油乳剤・・・」などの宣伝もみえる。日よけの傘をさし、背広姿の吏員、白粉をぬり、祭りの衣裳の女たち、日の丸をもった割烹着姿の主婦や子どもたち、「金太郎」の腹前掛けや袴姿もさまざまに100名以上の賑わいであった。

 

 国民健康保険制度と保健婦の配置

 上富良野の衛生事情は、実のところ民家の散在する地域では充分な治績をあげることは出来なかった。衛生組合があっても他動的活動の範囲で、「公衆衛生思想の欠如」が問題であり、また財政的な裏付けが村政においても望まれていた(昭和6・10年度「事務報告」)。国民健康保険法の成立は昭和12年で、全国550箇所(内北海道30)の国民保健所が計画されたが、道内には同年1箇所にすぎなかった(『富良野毎日新聞』昭12・4・24)。上富良野では衛生関係者の努力に期待するところとなっていた。

 それでも、太平洋戦争に突入した翌17年10月1日、上富良野村健康保険組合を創立したが、『上富良野町史』によると、その給付事業は行き詰まり18年事実上休止状態になったという。だが、保健婦事業は村民の衛生に大いに寄与して喜ばれた。特に市街から離れた東中へ19年から保健婦(金子和子)が常駐したことが、戦後に道立東中診療所として発足する足掛かりとなった。上富良野の保健婦1号は田中安子(在籍17〜21年)で、他に7人の保健婦が在籍した。

 

 開業医

 上富良野の昭和戦前期の開業医は、2院、医師2人で、上富良野の人口約1万人に対して2名の医師数は上川管内では平均的であったが、全道的には少ないほうであった。病院の1つは飛沢病院である。第4章第8節に記したように、医師飛沢清治の人となりは、同医院で賄い婦をしていた中野モヨや、飛沢医師が上富良野へ大正2年に招聘されて以来「お世話になった」と語る佐藤敬太郎の回想に詳しい(『郷土をさぐる』2・4号)。そして、病院経営・十勝岳の観光開発・剣道などの運動・酪農振興にも務めるなど、その医療活動は村民の生活と一体となったものであった。

 飛沢清治の次男、飛沢尚武(大正10年生まれ)は父の精力的な活動の一端を次のように語っている。農家の凶作、結核の蔓延を目のあたりにしたもので、「とにかく人の出入りの多い家でね、怪我をした馬喰や興行師もよく治療にきてね、治療費をとれないことも多くて、食べさせなくてはならんでしょ。牛・羊・鶏・七面鳥を飼いましてね。往診に馬を使ってましたよ」。「親父が死んだ昭和11年には石油箱(1斗缶2個入り)に証文がびっしり。兄英寿は証文を『あてにするな』と言って燃やしてしまいました。

 近所の高利貸から『飛沢先生から利子は、もらえない』と云われたほどでした」。秋田から嫁いだ母カネはこうした家庭を支え、母が寝ているのは見たことがないという。11年に2代目に英寿が継いだ。なお、この頃副医院長であった植竹久治郎医師は馬で、富良野町の「飛沢病院診療所」へ診療に出かけていた。(聞き取り平9・11・13)

 もう1軒の病院は中掘医院で、『上富良野町史』によれば大正15年に山藤医院を引継いだもので、上富良野で昭和7年の腸チフスが発生時に中掘医院も対応したことが『旭川新聞』に報道されている。同院は昭和17年に渋江医院が引き継いだ。

 

 写真 大正15年ころの山藤医院

  ※ 掲載省略

 

 その他の医療機関

 村民は病気になると、眼科・皮膚科・歯科などは上富良野から旭川へ汽車で約2時間かけて治療に通わざるをえなかった。ただ、歯科は旭川のほか、大正期には富良野町へも通院するようになり、やがて上富良野へ出張してきた歯科医師で明らかなのは、美瑛の園田歯科医院で、分院(大正14年から昭和8年)を駅前の福屋キヨ宅2階に開業した。その後、岡和田歯科医院(昭和13〜20年)・桐野歯科医院(昭和18〜19年)が治療に当たった。

 お産をになった産婆は、昭和戦前期には産婆2〜3人の登録である(『上富良野村勢要覧』)。なお、6年の「事務報告」によると産婆は3人で「免許産婆」2人、「限地産婆」1名の内訳で、9・10年は「免許産婆」2人の内訳であった。産婆の人数を上川管内でみると、2年には、69人(内「免許産婆」は47人)で医師の人数とほぼ同数(『旭川新聞』昭和2・5・27)である。お産は、近所のいわゆるとりあげ婆さん≠フ世話になることも多かった。

 なお、18年から実際に「開業産婆」の仕事に入った及川綾子(明治45年生まれ)は、遠くは美瑛の御料・美馬牛(阿波団体)そして、旭野までも、夏は自転車、冬は馬橇でかけつけた。

 まだ「お産は汚れる」という意識が残され、畳2枚くらいをはがして、筵(むしろ)や藁をしき、木灰をおき、使い古したボロの古布を重ねてつくった「産床」に産婦が座って出産する「座産」であった。

 また、相馬トラヨ産婆に弟子入りしたのが出発となった助産婦澤田ツヤ子(昭和4年生まれ)は、コの字型に積み重ねた叺(かます)にもたれて座り、天井の梁(はり)からつるした1本のロープにつかまり、陣痛が来ると、腰を浮かして息み、産み落とす出産にも立ち合ったことがあった。及川、澤田両助産婦の回想は、村の女性たちの衛生や栄養指導などで手助けしたことも、子どもたちの育ちを見守っていた産婆たちの想いとして伝えている。(『かみふらの女性史』)

 隔離病舎については、伝染病に罹った人数を「上富良野の衛生状況推移」により、昭和期を大正期に比べる。年間総数では30人を越える患者数が見られていたのが、20人を越える年が数年みられるような減少傾向が知れる。昭和13年以降の数値は見いだせないが、『村会』資料の歳入歳出では隔離病舎費が組み込まれていた。その隔離病舎費は7年と13年以降を比べると切り下げられ、手当では「看護婦一人日給二円・延九〇日分此金一八〇円」であったものが、「嘱託看護婦日給五〇銭・延べ六〇日分・三〇円」に6分の1、隔離病舎担任医師の手当も3分の2に削減された。