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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第3節 昭和戦前期の商業と工業

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3、観光への取り組み

 

 吹上温泉と硫黄山駅逓所

 大正15年の噴火で幸い被害を受けなかった吹上温泉だったが、『上富良野町史』によると噴火翌年の8月、飛沢清治の経営する吹上温泉宿が硫黄山駅逓所になったことが記されている。駅逓をなぜ設置することになったのか、理由については『十勝岳爆発災害志』が次のように記す。

 

 大爆発以来幾度もの小爆発に人心は不安の念に藉[カ]られ為に熱心なる山岳研究者の外、普通浴客は絶無の状態となり、経営者は到底収支償はないので、一時は殆ど閉鎖状態に立至り折角の観測も中止し様と迄なったが、其の後漸次同温泉の真価も世人に諒解され、浴客も増加し、一方十勝岳登山者の来往も多く、殊に近時近隣部落に入地し開墾に従事する者が次第に増加する趨勢となり、自然同温泉を訪ふ者が増した。然るに同温泉の宿舎は不完全にて、且貨客運輸の便が不十分のため、一般交通者の不便が尠くないので、上川支庁長は上富良野村長と協議の結果、同温泉を官設駅逓所となすべく、昭和二年三月、道庁にその旨上申した。

 

 ここでは様々な理由が述べられているが、やはり最大の目的は噴火後、調査のために多くの学者や研究者たちが入山しており、計器の設置や宿泊など噴火に関する調査基地を設ける必要があったためと考えられる。

 『十勝岳爆発災害志』によればこの申請に対し道庁道路課は昭和2年6月24日付けで硫黄山駅逓所の新設を許可している。

 同時に2,809円の建築費も認め、温泉宿の改築も行われた。工事は昭和3年6月末日の竣工を目指して進められ、『上富良野町史』には「駅逓となった時、温泉の客室は10畳4室、娯楽室24畳を増し、浴室には廊下がつけられ、吹上温泉の面目はこのときに実現した」と記されている。駅逓事務取扱人には飛沢辰己が任命され月給が支払われた。また、官馬3頭が貸し付けられたことも『十勝岳爆発災害志』には記されている。噴火によって存亡の危機に立たされた吹上温泉は、こうした駅逓の設置によって経営の継続が可能になったわけである。

 『上富良野町史』によると昭和7年に、山本一郎、西谷元右エ門、吉田吉之輔など有力者をはじめ約100名が出資し、吹上温泉は株式会社になったとある。これと駅逓の関係がどのようなものであったか分からないが、18年に捕虜収容所として軍に接収されるまで、駅逓と温泉の営業は続けられたことが『上富良野町史』には記されている。

 

 十勝岳とスキー

 大正期から学生たちなどの十勝岳登山が、新聞などにたびたび報道され、また「北海道山岳会ニテ石室其他施設計画中」(大正13年版『村勢要覧』)など、登山愛好家の間で十勝岳は道内でも人気のある山だったのだが、昭和に入るとスキー場としての人気が高まってきた。加藤清「スキーの始まり」(『郷土をさぐる』7号)は次のように記す。

 

 大正十五年五月二十四日十勝岳の大爆発に依り一瞬のうちに大森林地帯が根本から土砂と共に押し流されたが、泥流跡地が後にスキー場として、高度の技術を持った方の絶好のスロープとして親しまれることになる。未曾有の大災害がもたらした皮肉な一面である。

 昭和年代に入ると世界各国のスキーの有名人が来村され、十勝岳で滑り、これがきっかけとなり、十勝岳はスキー場として広く世に知られるようになるのである。

 

 なかでも、昭和4年に当時の名スキーヤーだったオーストリアのハンネス・シュナイダーが、十勝岳で滑り、雪質など「東洋のサンモリッツ」と賞賛したことから一躍、スキー場としての名が広まったといわれる。『富良野毎日新聞』(昭13・3・27)には上富良野駅の調査による十勝岳への一般登山客数とスキー客数が掲載されている。

 

 

一般登山客

スキー客

昭和7年

420名

675名

8年

790名

924名

9年

800名

942名

10年

1,000名

1,080名

11年

1,290名

1,420名

 

 現代の感覚からすると、決して大きな数字とはいえないが、スキーを楽しむ人口がごく限られていた当時、冬季間だけで1,000名を超える人々が十勝岳をおとずれたというのは、相当な人気といっていいだろう。

 

 写真 昭和10年頃の吹上温泉玄関前

 写真 ハンネス・シュナイダーと飛沢清治

  ※ いずれも掲載省略

 

 白銀荘の建設

 こうした人気を受けて、スキーヤーや登山者のためのヒュッテ「白銀荘」が、吹上温泉の近くに8年2月、竣工している。佐上信一北海道長官が7年に十勝岳に登山した際、吉田貞次郎村長の要請で建築が決まったものといわれ、落成式を伝える『小樽新聞』(昭8・2・8)には次のように記されている。

 

 本ヒュッテの建坪階下十六坪四分、階上九坪その他一坪の合計二十六坪四分、丸太造りの建物であるが、階下は玄関、ホール、休憩室、番人居室、湯殿、便所に分かれ、階上は大部分を寝室にさき、一部を物置に充当してゐる。然も便所は放流式になってをり、採光、通風、保温にも至れり尽くせりの考慮が払われてゐる。建築費と設備費は建築材を除いて三千三百円余。

 

 また、この文章に続き「様式のモダンにして堅牢、そして原始味の豊かなこと、設備の完備せることなど、先ず道内第一をほこるに足る」という道庁林務課長のコメントを『小樽新聞』の記事は紹介しているが、翌年には村費で「勝岳荘」も建築されている。2つのヒュッテは役場で管理することになるのだが、白銀荘、勝岳荘ともに十勝岳の姉妹ヒュッテとして、スキーヤーや登山者たちに親しまれることになるのである。

 

 写真 冬の白銀荘

 写真 村費で建築された勝岳荘

  ※ いずれも掲載省略

 

 大雪山国立公園指定

 十勝岳がスキーヤーや登山者たちから注目を集めた理由には、自然環境のすばらしさもさることながら、昭和9年に十勝岳を含む一帯が大雪山国立公園の指定を受けたことも大きな理由のひとつであったと考えられる。

 日本の国立公園の正式な誕生は、昭和6年に国立公園法が制定されてから以降ということになるが、7年に北海道からは大雪、阿寒を含む全国12カ所が候補地に指定され、その後、調査が進められてきた。8年8月には「田村林業博士の大雪調査 石狩川水源地探検は断念 更に十勝岳へ向ふ」(『小樽新聞』昭8・8・30)などの報道があるように、調査団が大雪や十勝岳入りしている。この結果、9年3月の富士箱根など3カ所に続き、11月には大雪山も国立公園として正式に指定され、8年には上富良野でも十勝岳観光協会(会長・吉田貞次郎)が発足していたと思われるが、以降、国立公園関連町村が連携して積極的な観光振興策が推進されるのである。13年5月20日付け『富良野毎日新聞』には「観光大雪山の世界的施設決定旭川、上富、上川三協会協力」という見出しで、次のような記事が掲載されている。

 

 旭川観光協会では上富良野、上川両協会と協力して国立公園大雪山を世界観光ルートに迄持って行く方針の下に、急速に諸施設を調査中であった。其結果主なるものは左の如くに決定を見た。

 ▲十勝岳吹上温泉から三段山頂に至る四キロの間に新たに登山路を新設。

 ▲吹上温泉から噴火口に至るオキナ温泉を経て山加農場に至る十七キロ間に自動車環状路線新設。

 ▲上富良野、中茶屋間鉄道新設。

 ▲松山温泉クマノ沢上流大湯沼を開放ホテルを建設

 ▲層雲峡上川間に鉄道敷設。

 ▲黒岳から大雪山の頂上二ヶ所にヒュッテを建設。

 而して四季を通じて観光客の誘致に務める事になった。

 

 ここに掲げられている計画が、経済性を含めどこまで練り上げられた案であったかは不明である。しかし、交通の整備や宿泊施設の拡充、近隣市町村の連携などは現代の観光推進と通じるものがある。戦争の進展とともに国レベルの国立公園整備をはじめ、観光推進の数々の施策は霧散してしまうのだが、この時期、こうした観光振興策の前史があったということは注目していいだろう。