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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第3節 昭和戦前期の商業と工業

620-622p

1、昭和戦前期の市街地と商業

 

 昭和初期の市街地

 十勝岳噴火による大災害の復旧から上富良野の昭和は始まった。直接の被害は受けなかったにしろ、市街地やそこに住む人々も大きな混乱のなかに巻き込まれたことはいうまでもないだろう。『旧村史原稿』には昭和戦前期の市街地の様子について、次のような記述がある。

 

 大正十五年五月十勝岳爆発のため村は大打撃を被むりたるも、商工業者にはさしたる影響を受け者〔ママ〕なく、現在にては市街も五百戸を超え商工業者も二百軒に重んとし、開拓当時掘立小屋に於て僅かに日用品を販売せしを思う時、轉に無量の感を抱く。

 

 また、「本村ニハ上富良野市街地ト東中市街地トノ二市街区画アリ。商工業者ノ大数ハ上富良野市街地ニ在リ」と昭和13年度版『村勢要覧』に記されているように、明治期の神田和蔵の商店開業以来、市街地を形成しはじめていた東中市街地も、大正5年の東中産業組合、11年の東中郵便局設置など、大正に入ってからの発展期を経て、昭和初期にはさらにその機能を充実していたと考えられる。

 上富良野における昭和初期の商工業家数は別表(表5−22)の通りだが、大正期同様ほぼ二百数十戸で推移している。また、総戸数、総人口に占める非農業戸数、人口を各年度版『村勢要覧』から求めてみるとほぼ500戸で、先に紹介した『旧村史原稿』の「市街も五百戸を超え商工業者も二百軒」という数字にだいたい対応している。

 

 表5−22 商工業者戸数

 

大正15年

昭和6年

昭和8年

昭和11年

物品販売

93

77

83

83

製造業

41

47

49

49

運送業

1

1

3

3

質屋

2

1

1

1

請負

11

10

10

10

旅宿

4

5

5

6

料理店

9

5

5

5

理髪

5

8

9

9

湯屋

3

2

2

2

仲買

9

14

14

14

飲食店

12

7

8

8

その他

37

41

45

45

合計

227

218

234

235

 

 表5−23 人口動態

 

大正15年

昭和6年

昭和7年

昭和8年

昭和9年

昭和11年

戸数

1,710

1,720

1,718

1,711

1,698

1,768

人口

10,064

10,492

10,481

10,436

10,365

11,284

5,116

5,348

5,378

5,355

5,317

5,712

4,984

5,108

5,103

5,081

5,048

5,572

農業戸数

1,137

1,160

1,162

1,229

1,201

1,228

農業人口

6,433

7,283

7,503

7,998

7,700

8,158

非農業戸数

573

560

556

482

497

540

非農業人口

3,631

3,209

2,978

2,438

2,665

3,126

   各年度『村勢要覧』より作成

 

 写真 昭和10年頃の市街大通り

  ※ 掲載省略

 

 上富良野商工会

 上富良野商工会は村内商工業者の協調とその発展を図ることを目的に、昭和11年に設立されている。当時、札幌、旭川など市部で設立されていた商工会議所と性格は同じもので、町村を基盤とし、法人ではないところに違いがあった。初代会頭には山本一郎が就任している。

 『旧村史原稿』によれば、商工会の事業として商工業に関する通報、仲介または斡旋、調停または仲裁、証明または鑑定、統計または調査、建議または答申、そして講習会の開催などが掲げられていたが、なかでも特色として打ち出していたのが、十勝岳の各種施設の宣伝など観光事業の推進である。後述する十勝岳を含む大雪山国立公園の指定が昭和9年にあり、この時期、上富良野で観光推進の機運が盛り上がっていたことも、商工会の事業に取り入れられた大きな理由であろう。

 なお、戦時統制が進むなか昭和18年には商工経済法が公布され、全道に88あった商工会は解散し、北海道商工経済会にその会員は組み入れられることになる(『新北海道史』第5巻)。上富良野に関しては資料が残されていないため、詳細は不明である。

 

 写真 商工会創立第1回総会記念写真

  ※ 掲載省略

 

 上富良野合名会社

 商工会の設立と同じ11年に、出資額3万円で上富良野合名会社が設立されている。『旧村史原稿』によれば農産物の販売、加工、肥料の売買が目的で、代表社員が四釜卯兵衛とある。この時期は産業組合が拡充五カ年計画を掲げて、購買及び販売事業をより積極的に展開していた時期と重なり、道内各地で産業組合と小売業者など商業者が対立することがあったというのはよく知られている。その意味で同社も商業者たちが産業組合に対抗して設立した可能性もあるが、代表社員以外の出資社員名が不詳のため、この会社がどのような性格のものであったか実際のところは分からない。設立後の動静について、『旧村史原稿』では次のように記している。

 

 その後、漸次業務の進展に伴い同十四年十月七日一万三千五百円を増資し、社務の発展に資するところあり。而るに支那事変勃発後、統制経済の波及は事業措置にも相当の変更を見るに至り、昭和十六年五月社員数名勇退し現在に至る。

 

 上富良野商業組合

 戦時色が色濃くなってくるなか、昭和14年には上富良野商業組合が設立されている。物資や物価の統制を強化するために各地でほぼ強制的に設立された(『新北海通史』第5巻)もので、『旧村史原稿』にはその目的が次のように記されている。

 

 上富良野村地区内に於ける各種商業の改良発達を図るため共同施設をなし、時局下配給の重要任務にある商業者の指導統制ある機関とし、村民一般の生活必需物資荷受機関とし、且つ配給の万全を期する上に調査研究金融等の利用機関たり。而して国家の要望する村民生活の安全性を確保せんとするものなり。

 

 また、組織される業種は次のように書かれている。

 

 同地区内に店舗を有する荒物雑貨、呉服を始め米雑穀、薬種、文具、小間物、魚菜食料品、皮革製品、履物、家具、金物、燃料、木材加工品、自転車、時計、貴金属各販売業者を以て組織をなす。

 

 実質的には上富良野の販売業者すべてを含んだといっていいだろうが、この上富良野商業組合は94名の組合員を擁し、理事長は金子全一が就任したほか、理事としては、吉田吉之輔、高畠正男、金子政三、高畠孝文、山本逸太郎、鹿間勘五郎、四釜卯兵衛、山口梅吉などの人たちが記録されている。

 なお、18年には商工組合法の制定により、商業組合は商工組合へと改組される。さらに配給統制組合への改組もあり、商業活動は停止に追い込まれ、各販売店は単なる配給所へと変化していくのだが、上富良野商業組合に関しては資料がないため、この間の経緯については不明である。また、関連していえば、こうした統制の強化とともに企業整備も強行され、多くの商店は転業、廃業を余儀なくされたのである。