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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第1節 苦境と戦時下の村政

571-579p

2、村政の推移

 

 吉田貞次郎村長

 大正8年に一級町村制の施行にともない村長に選ばれた吉田貞次郎は、就任早々は民力涵養運動に取組み、その成果を受けて12年に再選されていた。そして15年5月25日に発生した噴火災害から復興策を推進し、これが評価・支持されて昭和2年6月に、三たび村議会にて村長に選ばれた。これは彼の復興策が支持されたものとみなすことができる。そして続いて6年6月25日にも四選を果たし、吉田村政が展開されることとなる。だが、4期日に入ると5年の大凶作をはじめとして6年、7年と凶作、風水害が続き、農民は窮乏と疲弊にあえぎ、上富良野村も経済更生計画樹立の必要に迫られ、村政は行き詰まりをみせてくるようになる。

 こうした趨勢の中で吉田貞次郎は村長職を退く道を選んでいった。剛毅で果断な彼の人間性は、支持者と共に敵対者も多くつくるようになり、議会での五選は困難との見通しのもとでの退任であったろう。それでも彼を強く支持する三重団体では、村民大会を開き彼の続投をはかる計画もなされたようであるが、最後はトラブルもなく円満に退任したようである。退任後も彼は、「同〔富良野〕線一の人物であり産業組合の発達には献身的な貢献をなされ村民からは生神様の如く慕はれてゐる」とされ(『富良野毎日新聞』昭11・7・3)、村民からの信頼と名望は変わることがなかった。

 

 退任後の吉田村長

 吉田貞次郎は後述のように昭和10年6月に村長を金子浩に引継ぎ、村政から離れることとなる。貞次郎は在任中からも、

昭和3年4月1日

上川町村長会会長

7年4月1日

北海道農会議員

8年10月

酪農義塾理事

8年11月20日

北海道製酪販売組合連合会幹事

9年6月12日

帝国在郷軍人会上川連合分会長

10年2月5日

上川支庁管内土功組合連合会副会長

10年2月14日

上川家畜保険組合副組合長

などの公職、要職を兼帯していたが退任してからも、

昭和10年8月6日

北海道信用購買販売組合連合会監事

11年5月

北海道製酪販売組合専務理事

12年6月30日

帝国在郷軍人会審議員

12年6月30日

財団法人軍人会館評議員

12年8月

上富良野村共立産業組合長

13年10月13日

北海道捕獣株式会社社長

14年6月

北海道燕麦生産者連合会理事

14年7月

北海道製酪連合会理事組合組合長

16年2月

大政翼賛会上川支庁支部協力会議議長

大政翼賛会北海道支部協力会議員

16年2月

北海道信用購買販売組合連合会理事

などの要職を数々つとめて活躍し(和田松ヱ門「吉田貞次郎を偲ぶ」『郷土をさぐる』第3号、昭58)、11年10月7日には永年にわたる在郷軍人会の活動が認められ北海道の開拓(軍事)功労者として、大演習のために来道中の昭和天皇から表彰を受ける栄誉をになっていた。そして17年4月30日には衆議院議員に当選し、国政の場へと雄飛することとなる。だが、終戦後は公職追放の処分を受けて自宅に引き籠もり、農業に打ち込み悲憤をまざらわしていたが、22年夏から病床の身となり、遂に23年7月25日に死去した(享年63歳)。

 病状が進んだ23年5月17日に、草分を中心とした村民によって吉田先生彰徳碑建立発起人会がつくられて村内に呼びかけ、9月17日に建碑委員会がもたれ基金の醵出がはかられ、彼の功績と遺徳を讃仰する「吉田貞次郎先生頌徳碑」がつくられた。しかしながら、公職追放者の記念碑建立に難色を示す上川支庁の意向により建立はしばらく延期され、24年6月12日にいたりやっと上富良野神社境内に建立されることとなった。

 

 金子浩村長

 昭和10年6月24日に吉田貞次郎は任期満了につき退職し、7月10日に後任村長として助役であった金子浩が選出された。対立候補との決選投票はなく議会にて満場一致の選出であった。和田松ヱ門によると両者の激しい一騎打ちとなり、吉田派がやや優勢であったものの、「開票の結果は一名の寝返りで、二票差で敗れ」としている(和田松ヱ門「十勝岳爆発と復興反対」『かみふ物語』昭54)。だが、当時の村議会資料を検討したところ、議会では決選投票に持ち込まれてはおらず、金子浩ひとりの満場一致であった。和田松ヱ門の記憶違いかとみられる。吉田貞次郎はおそらく、反対派が多数を占めることとなったのでいさざよく身を引くことにしたとみられる。しかし、この村長選挙をめぐる確執が底流となって、20年に発生した農業会の会長をめぐる紛争のように村内はこれ以降、しばしば吉田派と金子派が対立することとなる。

 後継の村長となった金子浩村長は、21年に退任するまで吉田村長のひいた路線を継承し、凶作後の窮乏にあえぐ農村の再建に力を尽くし、そして戦時体制へと進む困難な時期によく村政をまとめるすぐれた行政的な手腕を発揮していった。

 金子浩は明治19年3月、富山県中新川郡東谷村字目桑に生まれ、34年3月に上川郡忠別尋常小学校高等科を卒業、38年3月に私立旭川中学校本科3学年、専科1学年を修業し、44年4月に上富良野尋常小学校の代用教員となった。大正2年12月に辞任後は農場経営にいそしむが(『北海道市町村勢要覧』第1巻)、大正6年6月の村会議員の補欠選挙に当選し、7年6月の改選で再選をはたす。8年6月の一級町村制施行後の選挙でも当選するが、吉田貞次郎村長に能吏としてみこまれて9年9月に収入役に抜擢された。

 そして12年9月に今度は助役に選ばれ、吉田村長の片腕としてよく補佐し村政の一翼をになっていたのである。

 村長就任1年後の11年10月、金子村長のことが「俺らが村サの生字引さまヨ」との見出しで、『富良野毎日新聞』(昭11・10・28)に以下のように紹介されている。

 

 …未だ五十一歳の働き盛りであり村役場でコツコツと十六年も働き、全くの生字引である。然して就任と共に村民百年の懸案した島津農場開散運動に尽力し、ものゝ見事これか実現も近きにあり、その手腕は勿論、人格、力量は全く相当なものと云はざるべからず。(中略)農場開放実現の暁は農家の負債整理に着手、更に吹上温泉の観光客誘致と十勝岳山麓、大雪山を巡る観光鉄道を建設、以て大々的躍進をなすと云ふ。…金子村長は将来の抱負を持ち寸時の余暇もなき努力家で、いま村民から恵父の如くあふめられてゐる。

 

 この時期、金子村長は自作農創設、農家の負債整理を村政の当面の課題としていたが、島津農場の開放については11年6月に自ら上京して島津家と交渉に当たり尽力していた。翌12年にいたり開放が実現し、6月6日に島津農場の彰徳碑竣工にあわせて盛大な記念祝賀式が行われた。

 14年6月25日に再び選挙で選ばれた(7月10日就任)。

 

 写真 金子 浩村長

  ※ 掲載省略

 

 助役・収入役

 吉田村政の一翼をになっていたのが助役の金子浩、収入役の朝倉一泰であったが、昭和6年6月に吉田村長の再任にともない、同じく9月10日にそれぞれ再任となっていた。しかし、10年に助役であった金子浩が村長に選ばれたため、後任助役には朝倉一泰がなり10年9月2日に就任した。ただ、朝倉一泰は在職機関が短く、11年5月18日に退職するが、その後任として白井重吉が5月25日に就任している。

 収入役にはもと東中小学校教員であった谷口清が、金子村政のもとで10年12月11日に就任する。谷口清は14年7月6日に辞任し、後任には村議であった新井與市郎が7月10日に選任された。新井與市郎はその後、18年7月15日に再任され、戦後は26年8月まで12年間の永きにわたり収入役をつとめた。

 

 『我村』の発刊

 村の広報誌として『我村』が昭和5年9月20日に、第1号が発刊された。「上富良野村々報発行規程」で村報『我村』は、「各種団体ト共同シテ発刊スルモノ」(第1条)とされ、まず団体相互の情報誌としての性格が付与されていた。そして、「村内各種団体竝ニ住民相互ノ意志疎通ヲ計リ以テ自治体ノ円満ナル発展ヲ期セントスルニ在リ」(第2条)とされ、自治の発展を期したものであったのである。吉田村長は発刊の辞の中で、『我村』の目的につき以下のように述べている。

 

 自治の中枢である役場の音信を村内に周知せしむる方法として雑誌「我村」を発刊す。載する所専ら通信を主とするも之により村内各公職に関係ある人々は勿論、取り分け男女青年委員の人々に我が郷土の現情を熟知して貰ひ、村内各種修養団体及各産業団体と緊密に連絡を保ち、互いに研究を重ね無駄を省き効率を増進し、現在の境地を改善するに努むると共に、将来の指針を求め得るの一助ともならば洵の望外の幸福なりと信ずるものである。

 

 ここで『我村』は、「役場の音信を村内に周知せしむる」目的で発刊されたものとされているが、特に「男女青年委員の人々」が村の現状を知って「現在の境地を改善」し、「将来の指針を求め」るものとなることを希望している。すなわち、村の将来と自治をになう青年たちの雑誌をめざしていたといえよう。青年たちの短歌などの文芸欄、論説・主張、青年団の活動報告などは、まさしく意図した編集通りの内容といえそうである。さらには農業技術、農家経営などの情報・論説も掲載されていた。

 編集長は村長、編集主任は助役があたり、隔月に刊行された『我村』は、金子村長のもとでは村広報の性格を強めていくが、昭和15年1月1日発刊の第32号まで保存紙が残されている。おそらくこれが最終号であり、戦時体制となり言論統制も始まり廃刊となったと思われる。この種の広報誌を戦前に発刊していたのは道内の自治体でもまれであり、進取の自治精神を発揮した吉田村長の業績として評価してよいものであろう。

 

 写真 村報・我村

  ※ 掲載省略

 

 経済更生計画

 周知のように北海道は昭和5年から7年にかけ連続して深刻な凶作にあい農村は大きな打撃を受けることとなる。そのために政府では7年から窮乏した農村救済と再建を目的に農山漁村経済更生運動を推進するようになった。それを受けて道庁でも運動の指導のほか、各町村に経済更生計画の樹立を求めていった。

 上川支庁では8年1月から運動の指導を開始するが、以下の運動の大要項を定めていた(『旭川新聞』昭7・12・15)。

 

 一、農村政育[ママ]の実際的知識の注入と農村民たるべき堅実なる精神の振作を図ること。

 一、農村救済の充実向上を図らしむるための農業経営改善の要諦と隣保扶助の精神を活用し計画的組織的刷新を図らしむること。

 一、農村自活の円満なる発達を図らしむるため、各種機関を総動員し連絡協調を益々親密にし徹底的活動を図らしむること。

 

 そして事業としては町村経済更生計画樹立の指導、講習・講演会の開催、展覧会・実演会・競技会の開催などであったが、講演会は8年1、2月に支庁管内の各地で開かれ、上富良野村でも1月18日に上川郡農会技師水野良一を講師に迎えて行われていた。

 上富良野村では昭和7年10月に経済更生計画樹立の指定を受け、計画の策定に着手した。まず12月に経済更生計画樹立全村大会を開催して上富良野村経済更生計画実行委員会規程を制定し、あわせて同委員の選考も決定した。そして第一回経済更生委員会を開催していた。一般的に委員会は総務、産業、経済、社会、教化の5部で構成され、委員は産業団体、農事実行組合、青年団、婦人会、在郷軍人会、各種公的団体(納税・火防・衛生組合など)の代表、学校長などが網羅されていた。上富良野村では「計画ノ基礎調査及其ノ立案、各部ノ連絡統制」にあたる統制部、「生産経営ノ改善統制」の経営部、「金融、負債整理、販売購買利用」の経済部、「教育・教化改善、共済施設」の教化部からなる4部編成であり、各部の組織・役割は以下のようになっていた(昭和十三年『上富良野村勢要覧』)。

 

 一、統制部

   村長ヲ以テ部長トシ委員会ノ統制、計画全般ニ亘リ指導監督ヲナス計画樹立、計画実行ニ必要ナル諸般ノ調査、委員会ノ開催。

 二、経営部

   農会長ヲ以テ部長ニ充テ、主トシテ村農会ガ中心トナリ各戸計画、部落計画ノ実行ヲ指導督励ス。主タル担当事項次ノ如シ。

   農業技術ノ改善、生産ノ拡充、経営ノ改善、農事実行組合ノ活動促進、生活改善其ノ他ノ指導。

 三、経済部

   産業組合長ヲ以テ部長ニ充テ産業経済ニ関スル全般ノ事業ヲ担当ス。

   即チ産業組合ヲ中心トシ農事実行組合ヲ率イ統制的ニ活動セシム。

   専ラ販売購買、金融、利用ノ改善指導ニ衡ル。

 四、教化部

   中心小学校長ヲ以テ部長トシ青年団、婦人会、教化団体等主体トナリ計画遂行ノ活動力トモナルベキ農村精神ノ作興、教化ニ衡ル講演会、講習会ノ開催、敬神思想ノ普及徹底、郷土運動其ノ他。

 

 なお、12年7月に開かれた委員会では40名の委員が出席したというから(『富良野毎日新聞』、昭12・7・3)、要員は各部10人構成であったようである。

 翌8年1月には農事実行組合の組織整備、基本調査の実施、経済更生計画趣旨普及講演会の開催などが行われていたが、続いて2月に経済更生委員会を開催して各戸経済更生計画並に部落計画を樹立し、4月に開催された経済更生委員会では、村計画の樹立を行っていた。こうした各戸、部落、村の経済更生計画がそれぞれできあがり、9月に計画の完成をみるようになり、北海道経済更生委員会の審査を受けて計画の実行がはかられるようになる(『上富良野町史』)。

 経済更生計画は農事実行組合の組織整備、農家経営の改善と安定、農家負債の整理、自作農創設などを眼目としていたが、計画の第3年次に当たる11年の年頭に吉田貞次郎村長は、「(一) 増収、(二) 副業、(三) 生活改善、(四) 負債の整理、(五) 備荒貯蓄の五大実行事項を一層励行し、速に本村の充実を図り進んで本道拓殖の進展に寄与するの模範を示されんことを提唱」しており(『我村』第18号)、五大実行事項は上記のものであったとみられる。計画にともなう事業項目、経費については表5−1の通りであった。

 経済更生計画はいちおう12年で終了し、13年から第2次の五ヵ年経済更生計画に入り、上川支庁でも各町村から計画書の提出を受けたようである(『富良野毎日新聞』、昭13・4・8)。ただし、戦時体制に入りどの程度の実効性を持つようになっていたのか不明であるが、上富良野村では引き続き経済更生計画の実行に意を注いでいたようである。例えば、13年8月13日から4日間、大規模な農事実行組合員全村講習会を開催しておりその背景は、「上富良野村では戦時体制下の時局に鑑み本村経済更生計画の実行を促進し、農業生産の拡充と国民生活の安定を図るは長期抗戦に対する戦勝の秘訣であり、銃後農民の負ふべき重大任務であるとの信念に立脚」してのものであったと説明されていた(同13・8・9)。

 

 表5−1 経済更生計画実行項目

  (甲) 特別助成に依るもの

 

項目

経費

1

共同利用種畜設置計画

1,300円

2

家畜共同診療所設置計画

6,035

3

共同調製所設置計画

7,526

4

貨物自動車設置計画

4,770

5

共同冠婚葬具設備計画

1,780

6

共同澱粉工場設置計画

9,612

7

集積倉庫新設計画

7,241

8

畜力用噴霧器共同購入計画

2,400

9

農事実行組合備荒林設置計画

6,400

10

牝牛共同購入計画

24,000

11

堆肥厩舎新設計画

12,423

 

  (乙) 特別助成金を申請せざるもの

 

項目

経費

備考

1

経済更生委員会の活動

300円

継続

2

産業団体の活動助成

1,400

3

技術員の設置

5,240

4

青年学校専任教員の設置

2,880

5

中堅青年の養成

600

6

部落常会の開催

200

7

生活改善の奨励

120

8

農業簿記の奨励

540

9

品種の改良

408

10

牝豚及び牝緬羊共同購入

4,250

2ヵ年

11

耕地防風林設置

4,000

5ヵ年

12

学校営繕林の造成

840

2ヵ年

13

優良農具の普及

7,200

3ヵ年

14

特殊土壌の改良

24,475

5ヵ年

   出典:『昭和13年上富良野村勢要覧』

 

 負債整理組合

 先の経済更生計画の資料として昭和8年1月に実施された基本調査によると、上富良野村における農家(総戸数1,160戸)の収支は以下のようになっていた(『上富良野町史』)。

 

全村合計

1戸平均

収入総額

61万3,052円

529円

支出総額

79万6,918円

687円

預貯金総額

47万0,732円

406円

負債総額

139万6,883円

1,204円

 これによると1戸平均でみると、支出の方が収入より185円も多く、負債は1,204円という巨額に達していた。収入の2倍以上であり、しかも支出の方がまさっており、預貯金は406円となっているが、こうした現況では負債の返済はほとんど不可能であったのである。この結果、11年に負債整理組合がつくられることになった。組合では国から資金の貸与を受け、これを返済資金として一括処理するものであった。組合は日新、草分、北富(現在の里仁)、江幌、静修、江花、日ノ出、岳南(島津)、旭野、富原、東中、倍本、昭和(東中南部)の13組合であり、まず9年に日ノ出、岳南、江花、東中、倍本の5組合が設立され、11年に日新、北富、江幌、静修、旭野、富原、昭和、草分の8組合が設立となった。『昭和十三年上富良野村勢要覧』によると先の5組合に対して11年5月5日に4万6,400円、後の8組合に対して12年9月27日に14万2,200円、合計18万8,600円が貸与となり、「要整理負債額八七万五〇四一円也ヲ整理シ各戸ノ経済力ヲ充実セシメ著々経済更生ノ実績ヲ上ゲツゝアリ」と説明されている。

 ただ、『富良野毎日新聞』によると後の8組合(この報道には北富が抜け江花が入っている)には12年5月3日に貸与となり、この日、200余人の組合員は上富良野神社に集合、参拝して「絶対返済方に滞納せざるべき誓言式を挙行し」、貸与を受けたという(昭12・5・6)。13組合の組合員数、負債額などは表5−2の通りであった。

 

 表5−2 負債整理組合の一覧

組合

設立

員数

負債額  1人当り

行政区

日ノ出

9.3.31

54

36,200円 670円37銭

6区

岳南

3.31

87

76,250  876.44

8

江花

6.19

81

62,010  765.56

5

東中

11.22

102

141,002 1,382.37

11

培本

12.5

37

30,122  814.11

12

昭和

11.9.25

85

120,112 1,413.08

14

江幌

9.25

50

42,193  843.86

4南

富原

9.25

59

84,330 1,429.32

10

旭野

9.25

53

57,089 1,077.15

9

日新

9.25

48

79,429 1,654.77

1

北富

9.25

41

40,661  991.73

3

静修

9.25

33

46,246 1,401.39

4北

草分

10.21

61

59,397  973.72

2

   出典:『昭和13年上富良野村勢要覧』

 

 村財政

 表5−3は昭和4年度から12年度まで、及び15年度の上富良野村の歳入、歳出(経常部・臨時部)の予算の推移を示したものである。4、5年度は噴火災害の復興資金の投入もあって10万円以上を超える順調な伸びであったが、6年度以降は凶作の影響を受けて村税が伸びず10万円を切り、しばらく緊縮財政を余儀なくされていった。

 歳入の約5割は戸別割、反別割の村税がしめていたが、凶作にょる農家経営の悪化、負債の増大は村財政にとっても深刻な問題であった。『昭和六年度上富良野村事務報告』は、「本村ハ大正十五年ノ十勝岳爆発ニ次クニ一昨年来ノ世界的不況ニ風靡セラレアル時ニ於テ、本年ノ未曾有ノ大凶作ニ遭遇シ農ヲ以テ立村トスル本村並ニ住民ノ苦衷、又計リ知ルへカラズ」と述べ、「農ヲ以テ立村」としている上富良野村の苦しい状況を端的に伝えていた。また、「本年ノ納税ノ徴収ハ其窮状ヲ慮ヒテ厳重ナル督励ヲ加へズ」とされ、歳入不足は歳出節約と借入金によって「経理」する方針が立てられていた。

 12年度はしばらくぶりに10万円を超すも、これは自作農創設資金が臨時部に計上されているためであり、必ずしも産業の回復をあらわすものではなかった。それでも日本経済は12年から日中戦争が開戦となるに及び、戦争特需による好景気に見舞われるようになり、北海道でも11年以降は作物の稔りもよく、農村はやっと愁眉を脱するようになっていた。ところが、村財政では15年度も9万円余りであって、依然として緊縮財政をとっていた。

 

 表5−3 昭和前期の財政予算の推移                             単位:円

 

4

5

6

7

8

9

10

11

12

歳入

村税

53,437

53,097

42,298

45,214

45,591

46,376

47,070

47,145

37,431

その他

48,358

58,749

54,367

35,585

41,809

49,944

50,306

49,527

82,101

合計

101,795

111,846

96,665

80,799

97,400

96,320

97,376

96,672

119,532

歳出

役場費

19,509

18,234

16,245

14,725

14,940

15,324

16,100

18,169

20,510

土木費

5,967

5,305

4,485

2,598

4,000

4,450

4,450

3,850

6,850

教育費

40,275

40,977

38,442

36,602

35,092

39,556

40,526

52,565

45,256

衛生費

1,898

1,664

1,442

1,400

1,400

1,479

1,375

1,395

1,495

その他

11,858

9,254

9,336

10,473

11,909

11,796

16,102

14,421

10,673

臨時部

22,288

26,412

26,715

15,041

20,059

23,715

18,823

16,470

34,748

合計

101,795

111,846

96,665

80,799

87,400

96,320

97,376

96,672

119,532

   出典:『上富良野村勢要覧』

 

 世帯数・人口の推移

 この時期の世帯数と人口の推移をみると、表5−4の通りである。この時期は以前に比べて世帯数、人口ともに概して変化が少なく、静態的な傾向にあったといえる。

 まず世帯数は昭和19年までは、だいたい1,700戸台でありほぼ一定していた。人口は9年までが1万人台であり、10年からは17年までが1万1,000人台である(14年のみ1万0,544人)。そして戦争が激化して男子が出征、動員などで減少したために18、19年は再び1万人台に戻ることになる。

 また、人口動態を微視的に見ると男、女の人口比は開村以来、常に男が上回っていた。これは開拓地、農村では男子が出稼ぎなどで単身で移住するケースが多かったこと、働き手として男子が家に残り、女子は都市部へ就職する場合が多かったことによるものであった。ところがこの時期、14年に初めて女の人口が上回るようになり、15年にはいったん戻るが、16年以降はずっとこの傾向が続いている。ただ、この原因は主に男の人口減によるものであり、出征、動員など戦争の影響によるものと考えられる。

 戦後も女の人口比の方がまさるという傾向は続いていく。

 

 表5−4 世帯・人口表

世帯数

総計

 

2

1,737

5,159

4,950

10,109

12月31日現在

3

1,734

5,150

4,942

10,092

4

1,739

5,165

4,939

10,104

5

1,655

5,187

4,917

10,104

10月1日現在。国勢調査

6

1,720

5,384

5,108

10,492

12月31日現在

7

1,718

5,378

5,103

10,481

8

1,711

5,355

5,081

10,436

9

1,698

5,317

5,048

10,365

10月1日現在。

10

1,759

5,656

5,436

11,092

11

1,743

5,636

5,415

11,051

12

1,768

5,712

5,572

11,284

13

1,802

5,827

5,662

11,489

14

1,741

5,097

5,457

10,554

15

1,766

5,724

5,611

11,335

同 。国勢調査

15

1,781

5i689

5,539

11,228

12月31日現在

16

1,777

5,457

5,740

11,197

10月1日現在

17

1,779

5,539

5,653

11,192

18

1,788

5,286

5,699

10,985

19

1,765

4,619

5,482

10,101

2月22日現在

20

2,013

6,003

6,481

12,484

11月1日現在

   出典:『上川支庁統計書』(昭26)