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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第1節 苦境と戦時下の村政

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1、噴火災害と村政

 

 復興策の検討

 噴火災害から5日目の大正15年5月30日付『北海タイムス』は、「三十年来住み馴れた墳墓の地を離散せしむるのは何としても忍びない事である。如何に多額の失費を要するとも復興の決心で」という吉田貞次郎村長の談話を掲載していた。これから間もなくの6月1日に、道庁・上川支庁の担当官吏、上富良野村では村長・助役・村議・校長ほかの公職者60人が集まり、災害の善後策を協議する会合がもたれた。吉田村長は冒頭の挨拶で、「三十有余年来、辛苦艱難漸く美田を造成し来った吾等は、今回図らずもこの災害に遭遇し可惜美田を遂に泥海せしめ、多くの功労者を失なった事は是に遺憾な事であるが」と災厄にふれ、今後の善後策につき「隔意なき意見」を求めた(『北海タイムス』大15・6・2)。この会議にてどのような話合いがなされたのか続報がないので不明であるが、これは実は災害後、公職者が一同に会して対策を検討した初の会議であったのである。これ以降、復興策、被災者救済策などが徐々に検討され、実施されていくようになるが、特に復興策には困難な問題が多くたちはだかっていた。

 それはまず第1に放棄説の台頭であった。既に6月4日付の『北海タイムス』でも、「富良野の将来に関する三つの説 放棄説=復興説=折衷説」として各説を紹介しており、放棄説も有力な一説として主張されていたのであった。しかしながら、吉田村長は、「罹災民ヲシテ其ノ土地ニ止マラシム一日モ速ニ之ヲ復興セシムルヲ以テ適当ナリトス」とし、確固とした英断でもって復興策をとり、以下の7項目の「災害地復興要目」を策定することになる(『十勝岳爆発災害小史』大15)。

 

 一、田畑ニ泥土ト共ニ乱入堆積セラレタル無数ノ流木ヲ除去シ土地整理ヲ図ルコト。

 二、泥土及流木ニ依リテ埋没セル河川ヲ浚渫整理スルコト。

 三、道路橋梁ヲ修築シテ交通ノ便ヲ復スルコト。

 四、潅漑排水ノ溝路ヲ掘鑿シテ田畑ヲ造成スルコト。

 五、住屋ヲ造営シ生活ノ本拠ヲ定ムルコト。

 六、流失破壊ノ小学校ノ造営ヲ為スコト。

 七、産業組合ニ資金融通ノ方法ヲ講シ経済ノ復興ニ資スルコト。

 

 二、三に関しては地方費をもって道庁がいちはやく罹災者救済事業を実施しており、事業終了を前にした8月12日には、吉田村長からは事業継続が申請されていた(『災害関係書類』上富良野町蔵)。その他の復興計画・事業は後述の政府復興費、義捐金の配分決定を待って実施されていくようになる。

 

 写真 噴火災害の善後策と協議(俵会議)

  ※ 掲載省略

 

 複興事業の実施

 復興計画は吉田村長のつよい意志と熱意もあって道庁、政府も認めるところとなって、10月には(1)国庫支弁6万1,875円、(2)国庫補助71万3,712円、(3)国庫貸付金42万7,233円、合計120万2,820円の復興費が決定し(『北海タイムス』大15・10・12)、数々の復興事業が実施されていくこととなる。また、全国各地から十勝岳爆発救済委員会(会長中川健蔵道庁長官)へ寄せられた義捐金も、9月30日までに20万6,131円に達し、その配分案も10月8日に発表されていた(同、大15・10・9)。

 村内でも9月15日に、

 

 第一条 本村災害地復興事業調査ノタメ災害地復興委員九名ヲ置ク。

 第二条 前条ノ委員ハ村会議員及公民中選挙権ヲ有スル者ヨリ村会ニ於テ之ヲ選挙ス。

 第三条 委員ノ任期ハ事件終了迄トス。

 

と規定する上富良野村臨時委員設置規則を設け、9人の災害地復興委員が置かれていた(『大正十五年村会』)。10月25日の村会にても村の復興と村民の救済措置に関係する、@第二期地方税反別賦課の件、A産業組合建築資金転貸の件、B罹災小学校建築費起債の件、C歳出入追加更正予算の件、D不動産収得行為をなすの件などが協議されていた。

 具体的な復興事業は第1節にて詳述されている通りであり、また『十勝岳爆発ニ因ル災害復旧経過大要』(『災害関係書類』に所収)にも報告されているが、村税に関わるものでいえば罹災者に対する村税減免の措置がなされ、町村費支弁による復旧工事がある。復旧工事は総工費12万5,590円、内10万472円を地方費の補助を得て10月14日から施行され、翌昭和2年12月31日に竣工している。北26号より29号までの各町村道、西1、3、4線の各町村道の復旧、江幌完別川、トラシユ江幌完別川、江花江幌完別川の復旧などが主なものであったが、工事そのものは村の直営とし、「罹災民ヲ使役シ各自生活ノ資ニ供セントスル」こと、すなわち救済事業を兼ねる目的を有していたのである(十勝岳爆発ニ因ル災害復旧経過大要)。しかし、村税の減免、町村費による復旧工事の実施、また後述の信用組合への起債などは不安定な村財政を圧迫し、復興をめぐる村内の政争の遠因ともなっていった。

 

 「反対派」の吉田村長告発

 村長の吉田貞次郎は、噴火災害で母親が行方不明となっていながらも、私事を押さえて日夜、被災者救済に立回っていた。5月27日に母親の遺体が発見されたが、その折の吉田村長の応対につき『北海タイムス』(大15・5・30)は、以下のように報じている。

 

 老母があの暴虐な惨禍に痛ましい犠牲となったにも拘らず、罹災者救護や惨禍後の復旧等に不眠不休、先頭に立って活動して居る吉田村長に対しては全村民は挙[こぞ]って衷心より感謝して居るが、廿七日夕刻母堂の死体が発見されたけれ共村長は寸暇なく、二十九日午前二時形ばかりの弔ひを為したが、孝心篤き氏の心情を察して村民は共に涙に暮れている。

 

 このように救済に奮闘する吉田村長であったが、多額の費用をかけての復興策には反対する勢力もおり、やがて政争へと発展していったのである。

 村では起債をもとに国から貸付を得て信用組合に5万4,600円の融資の件が、10月26日の村会にて決議された。この決議から間もなく、市街の商業者の間で上富良野起債反対同盟会が結成され、これに反対する運動が展開されることになった(『旭川新聞』、大15・11・16)。そして11月18日には共楽座にて村民大会が開かれて融資反対のみならず、復興事業や義捐金品の分配などにおいて吉田村長に不正行為があるとして糾弾し、排斥運動へと展開していった。

 村及び吉田村長の施策に反対する人々をここでは仮に「反対派」と仮称しておくが、12月10日に反対派の7人は吉田村長を涜職罪及び背任罪で旭川地方裁判所へ告発し、抜き差しならぬ事態へと至ったのである。涜職での告発内容は5点、背任では四点であったが、それらを摘記すると以下の通りである(『北海タイムス』大15・12・16)。

 

   涜職罪

 一、被災者に耕地整理組合への加入を強要し、応じない者には義捐金を配分せずと威嚇した点。

 二、僅か七、八十戸の上富良野信用組合を救助する為に起債を村会に議決させた点。

 三、耕地整理組合と信用組合をもって自己の利益を謀り、職権を濫用した点。

 四、三〇戸に対して貸付け肥料代金と義捐金を相殺した点。

 五、自己の計画実施の為に被害以前から戸数割を二倍ないし五倍に増徴した点。

   背任罪

 一、四九日分の配給米のうち、四三日分しか配給しなかった点。

 二、配給米は吉田村長の実弟が経営する商店から購入した不正、不良米である点。

 三、義捐品の建具、ミルク等を分配せずに勝手に処分した点。

 四、村医の診察、往診料金を数十日間も支払っていない点。

 

 事件を報道した『旭川新聞』などは「評判の模範村長排斥の村民大会 理由が薄弱で問題外」(同、大15・11・16)、「顰蹙[ひんしゅく]される村民大会 社会正義に惇[もと]る復興反対の理由」(同、大15・11・19)と評し、世論はこの反対運動には与していなかった。また、上川支庁でも村、吉田村長を擁護し、「理由なき村民大会 一路復興に精進あれ」(同、大15・11・20)と北崎支庁長も反対派の理不尽をなじる発言をしていた。

 

 吉田村長擁護の動き

 これに対して吉田村長派は告訴側を逆に誣告罪で訴えるか、あるいは告訴取下げの和解調停へ持ち込むか協議をしていたが、吉田貞次郎自身は、「村長にして一片の疾[やま]しきことなければ事茲[ここ]に至った以上、此際強硬なる態度に出で公平なる世論に訴へ飽くまで対抗策を講ずる模様である」とされ、「公平なる世論」に審判を仰ぐ決意を固めていたようである(『北海タイムス』大15・12・17)。

 こうしたさなか、吉田村長を支持する14人の村議、14人の部長、4人の常設委員など村内の主要な有力者55人から、「本村理事者ニ於テ一点ノ不審ヲ留メザルヲ証」する以下の「陳情書」が出され、吉田村長への擁護活動が行われていた(『災害関係書類』)。

 

 本村大正十五年五月二十四日十勝岳爆発ニ因ル災害復興並ニ罹災者救護ニ対シテハ、国ヲ挙ゲテ深甚ナル御同情ヲ辱フシ、殊ニ中央政府並ニ北海道庁長官閣下ニハ格別ノ御同情ヲ賜リ事業着々其ノ功ヲ奏シ、罹災者ハ勿論一万ノ村民ハ只管感泣致シ居候。翻テ本村理事者ハ上司ノ慈示ヲ体シ、社会ノ同情ニ報ヒントシテ災害発生以来、混乱ノ渦中ニアリテ一家罹災ノ私事ヲ抛チ寝食ヲ忘レ、一意専心這般ノ復興ト罹災者ノ救護ニ努力シ、日モ尚足ラザル状態ニテ奮闘シアル状況ハ、吾等本村公職者一同感謝措グ能ハサル次第ニ候。然ルニ先般本村住民中一部ノ者ニ於テ、本村復興ノ事業ニ対シ彼レ是レ反対説ヲ唱へ事業ノ進捗ヲ阻害セント致シ、御庁其他ニ訴願陳情シタル趣キ承リ候。若シ彼等ノ陳情果シテ事実ナランカ、開村三十年来平和円満裏ニ発達シタル本村ノ一朝災害ニ逢着シテ、如斯汚点ヲ村史ニ残スニ忍ビザル已ナラズ、災害復興ノ為メ頗ル遺憾ノ儀ト信ジ、不取敢本日左記公職者並ニ有志ノ者集合ノ上、理事者ノ措置其他ノ事情ニ付キ真想ヲ仔細ニ検討シタルニ、毫モ不法不正ノ行為ヲ認メズ、村長ニ於テ実施セントスル方策ハ何レモ本村復興ノ大計トシテ急施ヲ要シ、村民ハ協同一致シテ其ノ遂行ヲ期シ以テ国家ノ援助ノ方ノ同情ニ報ヒザル可ラザルモノト確信致シ候。就テハ下名等茲ニ連署ノ上、本村理事者ニ於テ一点ノ不審ヲ留メザルヲ証シ本書及提出候。希ハ多数村民ノ裏情御閔察ノ上、速ニ初期ノ計画ヲ遂行。

 

 「陳情書」では吉田村長の公正を擁護すると共に、吉田村長が策定した方策を「本村復興ノ大計」を支持していた。だがそれよりも「陳情書」のねらいは、「反対派」による行動が政府、道庁に対して復旧事業への悪影響を及ぼすことを懸念してのものとみられる。

 

 「反対派」との和解

 「反対派」の告訴を受けて昭和2年1月13日に、旭川地方裁判所の検事が来村し取調べを行ったが(『旭川新聞』昭2・1・14)、告訴のような容疑事実はなく起訴には至らなかった。しかし、村内にはいまだその後も政争がくすぶり続けていたようであり、3年6月1日に実施された村議選挙では、先の「陳情書」に署名しなかった議員のほとんどは当選しておらず、復興派と「反対派」の対立は根深かったといえる。

 そのような村内の状況をみて和解調停が試みられてくる。『旭川新聞』(昭4・1・16)によると、「今回村医師飛沢清治氏の熱心なる和解勧告によりその意のある□を諒とし、無条件を以て解散し挙村一致村治を扶け村民福利の増進を計るべく、これが手打式を一月十三日午後一時より上富良野役場楼上において挙行せる」とされ、飛沢清治の和解調停により4年1月13日に「手打式」が行われていた。「これによりて村内の確執も円満なる解散を見ることとならう」と推測されていたが、2年4カ月にも及んだ復興をめぐる政争がやっと清算されることになったのである。