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4章 大正時代の上富良野 第10節 十勝岳大爆発

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2、応急救護活動

 

 救護所の設置

 26日になると、上富良野の救護活動はいよいよ本格化した。応急事務所は、駅前の福屋貢所有の家屋に移されて上富良野臨時救護事務所となり、ここが罹災地全般の救護事務の本部となった。また上川支庁から上野勇事務官が事務主任として派遣され、道庁や上川支庁より派遣された役人や役場職員、公職者らによって救護事務の分担を定められた。会議室には、駅前の山本一郎村会議員宅の大広間が使用された。一方この日の正午には中川健蔵北海道庁長官が、林警察部長、百済文輔内務部長、加瀬清雄土木部長らとともに現地視察をし、吉田村長は長官に対して、倒産した絲屋銀行の預金特別払出しの方法を講じることや罹災地内外で村を去ろうとする傾向があることなどを訴え、一刻も早い罹災者の救済を陳情した(『北海タイムス』大15・5・27)。

 

 写真 街頭に設けられた救援本部

  ※ 掲載省略

 

 応急作業と他町村の応援

 また作業分担が明確化すると、当面の緊急課題である死体の収容、傷病者の救護、食料配給、衣料品・寝具の給与、泥流被害にあった道路の開通、河川の浚渫、流木除去、流失家屋の収容、家財搬出、牛馬の収容、物資の運搬などへの取り組みも本格化した。

 これらの作業は、もちろん村内の青年会や在郷軍人分会、消防組、婦人会、処女会を中心に村民総出で行われたが、上川管内の他の町村から派遣された救護隊もこれにたずさわった。各町村の救護隊は青年会、在郷軍人分会、消防組を中心に編成され、作業道具や食料、寝具を携帯して来村し、毎日午前7時から午後5〜6時まで作業に従事した。6月末までに救護活動に参加した町村は、中富良野村、富良野町、美瑛村、東鷹栖村、神居村、永山村、旭川市、美深町、東旭川村、神楽村、山部村、当麻村、愛別村、比布村、鷹栖村、名寄町、東川村、和寒村、下川村、士別町、上川村、多寄村、剣淵村、南富良野村、妹背牛村、天理教上川団、占冠村、上士別村、智恵文村、常磐村、中川村、江丹別村などである。また救護隊以外にも、上富良野村役場の職員が救護活動に忙殺されているところから、役場事務の停滞を補うため、応援職員を派遣した町村もあった。

 一方上川連合青年団も、管内30町村の青年会を6班に編制し、第1期は5月28日〜6月3日、第2期は6月22日〜28日に人員を派遣した。各班とも実働日数は2日間で、人数は第1班〜474名、第2班〜236名、第3班〜236名、第4班〜115名、第5班〜83名、第6班〜計106名となっていた。また主な作業は、死体の捜索や物品輸送などのほかに、後述する準地方費道の板橋道の設置や富良野川の流木除去や浚渫作業であった。特に第1期では、富良野川に無数の流木が堆積したため、水かさが増して排水が悪くなり、土壌の乾燥を妨げ、死体捜索にも支障をきたすことから、5月28日以降、消防組などとともに流木浚渫作業を行い、同日中に水面を約4尺(約120a)も低下させるほどの効果を得た(『十勝岳爆発災害志』)。

 また帝国在郷軍人上川連合分会も24分会を2班に分け、6月13日から17日までの5日間、各分会実働2日間で439名が派遣された。こちらも死体捜索のほかに、富良野川の流木除去や西1線道路西側の幹線道路排水掘削、板橋道の板を撤去して車馬道とする作業などに従事した。

 

 写真 駅ホームの救援隊の人々

 写真 駅前広場の救援隊の人々

  ※ いずれも掲載省略

 

 死体の収容

 死体の収容は、被害区域を6地区に分け、富良野警察署長の指揮の下、村内の消防員、青年会員、在郷軍人、他町村の青年会、消防組、在郷軍人分会などで構成される救護隊員を6班に分け、3班は北方から、3班は南方から捜索を行った。また別働隊も結成され、西3線北28号から30号の間と硫黄山の捜索を行い、特に硫黄山には北海タイムスや小樽新聞の写真班も同行した(『北海タイムス』大15・5・27)。

 しかし捜索現場は、多量の泥土と流木により徒歩不可能な場所もあり、作業は困難を極めた。そこで板橋を用いるほか、上川支庁や旭川赤十字社の救護班が持ち込んだ旭川中島公園のボートや神居村在郷軍人分会会長の考案による下駄船が使用され、効果をあげた(『北海タイムス』大15・5・27、6・3)。また8月26日までに、上富良野における死者137人のうち115名の遺体が発見されたが、22名の遺体は発見できず、捜索は終了した。しかしその後、昭和2年4月以降の河川の浚渫工事などにより、4名の遺体が発見され、最終的な行方不明者は18名となった(『十勝岳爆発災害志』)。

 発見された遺体は、身元の判明した者は遺族に引き渡され、青年救護隊の手により火葬場で荼毘[だび]にふされ、また火葬場への交通が不便な場所では、適宜の場所を選定して火葬する処置がとられた。身元不明者は、山藤病院前収容所や聞信寺前収容所にそれぞれ収容され、後に仮埋葬の方法をとった。

 

 傷病者の救護と衛生状態の整備

 傷病者は、25日以降来村した医師や看護婦により治療を受け、必要な場合は市街地の飛沢病院、山藤病院、中堀病院に収容された。しかし患者は比較的軽傷で、擦過傷や打撲傷、裂傷などが多く、入院患者も13人に止まり、また外傷患者以外では、泥土嚥下[えんか]による胃腸カタルや寒さによる感冒、下痢などの症状を訴える患者が多かった。また26日には道庁、日本赤十字社北海道支部病院、旭川医師会などの医師や看護婦らが災害地を巡回治療したが、同日中に終了し、応急治療は26日中にほぼ終了した。治療費は罹災救助基金より704円65銭、義損金より1,000円を支出した。

 一方災害発生当初最も心配されたのが伝染病の発生であり、衛生状態の維持には細心の注意が払われた。道庁や旭川警察署が衛生状態視察や防疫のために医者や巡査を派遣したのはそのためであり、また避難所の設置により罹災者の衛生風紀の維持につとめ、浸水した米や麦、燕麦は食さないよう厳重に注意し、市街地では衛生掃除を励行し、市街地の浴場では罹災者を無料で入浴させた(『十勝岳爆発災害志』)。そのため寒さによる感冒以外には、さしたる病気の流行もなく、衛生状態は保たれた。

 

 写真 山藤医院に設置の救護所

  ※ 掲載省略

 

 食料の配給

 罹災者や避難者に配給する食料の確保は、山方面に役場職員が派遣され、食糧配給米の臨時貸し上げという形で行われた(『十勝岳爆発災害小志』)。一方食料の配給は、市街地では炊きだしと青年会員らの手によってなされていたが、新井牧場方面の遠隔地の避難所に対しては、青年会員が食料を背負って運搬した(『十勝岳爆発災害志』)。

 食料としては、米、梅干し、味噌、煮干し等で、その費用は5月24日から28日までの5日間と、翌29日から6月12日までの15日間は、ともに罹災救助基金法が適用されて地方費から食料費が給与された。6月13日から9月30日までは、義損金より7,930円が支出され、497人に1日26銭が支給された。また10月1日以降も、昭和2年4月30日までは引き続き1万2,932円が義損金より支出され、305人に1日20銭が支給された。この結果義捐金から支出された食料費は2万7,146円20銭となった。

 

 写真 救援物資の配付

  ※ 掲載省略

 

 被服・寝具の調達

 罹災者は着のみ着のままで避難し、そのうえ24日の豪雨にさらされたため、食料の配給は行き届いたのに対して、衣料や寝具はむしろ不足が目立った(『北海タイムス』大15・5・28)。そこで市街地では直ちに衣類の寄贈を募集し、メリヤスシャツ、腰巻、ズボン下、地下足袋を地元商店より購入して766人に支給したほか、反物を購入しこれを上富良野尋常高等小学校の女子教員3名と児童25名の手で袷[あわせ]にし、罹災者に給与した。また第七師団より赤毛布300枚の払い下げを受けた。被服・寝具費の総計5,146円45銭は罹災救助基金より支出し、さらに4,280円を義捐金から支出して、一戸あたり全流100円、半流50円、半潰25円、浸水15円の割合で被服費を支給した。

 

 御内帑金の下賜

 また救護活動の開始と同時に、上富良野に対する金銭的な援助も始められた。26日には、天皇・皇后より御内帑金[ごないどきん]2,000円の下賜が決定された。この報が道庁より伝わるや、吉田村長は一刻も早く罹災者に知らせ村民の復興意欲を鼓舞しようと、夜間にもかかわらず青年会員を各避難所に差し向け、その旨を伝達したという。また6月13日には、海員掖[えき]済会北海道支部総会に総裁として出席した伏見宮博恭より200円が下賜され、合計2,200円が7月11日の村葬後、死者137名に9円、傷者19名に3円、また全流失54戸に7円、半流失18戸に3円50銭、半潰57戸に2円50銭の割合でそれぞれに支給された。

 

 義捐金の募集

 大正15年5月27日の『北海タイムス』の社説「爆発の大惨事」に、

 

 吾人の広く道民に訴へたきは、遭難者に対する深甚なる同情である。かゝる危禍に遭遇したる人に対して、各人出来得る限りの金品を贈りて之を慰むるは、道民としての義務たるのみならず、人間愛の発露として当然なさるべきことである。本社は直ちに罹災義捐金の募集に着手したが、同情ある道民各位は進んで之に応ずべきことを信じて疑わぬ。

 

とあるように、各新聞社は災害発生直後の26日から義捐金の募集に着手した。27日には道庁と道内の日刊新聞社が協力して十勝岳爆発罹災救済会の結成が決定し、翌28日道庁において会則と義捐金募集規程を定め、中川道庁長官を会長として発会した。

 また道内新聞社に限らず、各市や支庁、三重県をはじめとする府県、道外新聞社、各地の学校、会社、組合、宗教団体、在郷軍人分会、住民会、青少年団、消防組、婦人会、処女会、各個人、さらには海外からまで実に多くの人々が義捐金を寄せた。さらに義捐金募集の手段として音楽会を開催したり(『北海タイムス』大15・6・8)、東京の北海道人会主催の民謡と舞踏の会が行われるなど(『北海タイムス』大15・6・21)さまざまな行事が計画された。

 また品物を罹災者に寄贈する場合もあり、鉄道省は27日、告示第88号をもって寄贈品輸送を無賃か半額で取り扱うことを発表した。なお義捐金は総額は21万443円5銭5厘に達した。

 

 鉄道開通と板橋道の設置

 災害発生後、直ちに着手されたのは鉄道の復旧である。鉄道は上富良野に物資や人員を輸送するために不可欠なことから、24日午後11時には旭川保線事務所から、五十嵐保線所長が自ら工夫30名とともに緩急車2両、貨車5両に枕木、筵、縄、その他木材を満載して現場に向かい、作業にとりかかった。当初の計画では25、26日に後片付けをし、27〜29日の3日間で砂利、レール、枕木を敷設し、30日の始発より運転再開の予定であった(『北海タイムス』大15・5・26)。ところが2,000人あまりの工夫を昼夜2交代で使役したこともあって、「レコード破り」ともいえる驚異的な早さ(『北海タイムス』大15・5・30)で作業は終了し、災害からわずか4日後の28日午後0時10分、開通した。

 鉄道の開通は救護に関わる輸送にかなりの便益をもたらしたが、一方不便な点もでてきた。というのも線路は上富良野に入る場合のほとんど唯一の歩行可能な道であり、各地から上富良野の親戚、知人を見舞う人々は、線路を通行して村に入っていたが、旭川保線事務所は25日午後、復旧作業の妨げになるとして救護班以外の通行を全面禁止とした。救護本部では、罹災者にとって親戚、知人、一般同情者の救助は不可欠であるとして、通行許可を事務所に申し出た(『北海タイムス』大15・5・28)が、結局27日からは係員の証明のある者のみしか通行が許されぬこととなり、28日の鉄道開通により遂に全面的に通行禁止となった。このため三重団体方面の避難者に食料を運ぶことすら困難となった(『北海タイムス』大15・5・29)が、災害地中央を貫通する準地方費道路旭川浦河線は全く開通のめどは立たなかった。そこで応急処置として旭川浦河線に流木を枕木として板橋道を開設し、通行の便宜を図る計画が浮上した。作業は5月28日より着手され、旭川市青年団、上川連合青年団を中心に進められた。しかし天候不順の時期と重なったうえ、災害現場の中心に進めば進むほど泥土が4、5尺(120〜150a)にも及び、流木の除去や用材の運搬にもかなりの困難をきたしたが、懸命の努力により6月3日、遂に開通した。工事費は3,629円90銭であった。

 

 工兵隊の架橋工事

 一方5月30日には、第七師団の渡辺師団長が上富良野の災害現場を視察した。翌31日には富良野川上流を調査し、その結果新井牧場と西2線道路との連絡を通じ、市街地との交通と食料供給路確保の必要があるとして、第七師団の工兵隊60名により富良野川上流に架橋工事を行うことになった。この工事は6月3日に行われ、上川連合青年団員も材料収拾、排水口掘削などで参加し、即日竣工した。