郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

4章 大正時代の上富良野 第10節 十勝岳大爆発

537-540p

1、噴火の概況

 

 大正噴火と泥流被害

 上富良野の歴史上、最大の事件は大正15年(1926)5月24日におこった十勝岳の噴火である。この噴火とそれにともなう泥流被害は、上富良野の村としての存続をもゆるがし、村民は開拓以来、最大の苦難に直面することとなった。

 大正噴火と泥流の発生に関する地質学上のメカニズムは第1章第3節に詳しいが、ここでは噴火と直後の泥流が村を襲う前後の状況を当時の史料をもとに紹介しておきたい。

 

 火口ハ昨年末以来屡々鳴動噴火シ、夜間火柱ノ現出ヲ見タルコトアリ。四月ヨリハ活動ノ勢力益々増進シ、五月二十四日午前十一時半頃ニ至リ、俄然第一回ノ大噴火ヲナシ午後四時頃再度ノ爆発ヲ起シ、泥流ヲ現出シテ山腹ノ急斜面ヲ落下、蝦夷松白樺ノ密林約一方里ノ積雪、表土、樹木、岩石等一切ヲ根底ヨリ席巻シテ富良野川ノ狭谷ニ突入シ、泥壁四、五十尺ヲ上下シツヽ新井牧場ノ岩盤上一切ノ物体土砂ヲ呑ミ尽シ、加速度ニテ猛威惨憺トシテ一気ニ三重団体ノ平野ニ侵入シ、人畜、建物、田、畑、道路、橋梁、潅漑溝、鉄道、排水、河川等、苦心経営三十年ニシテ漸ク建設シタル総テヲ厚サ数尺ノ泥土ト無数ノ流木ヲ以テ被覆シ尽シ、更ニ低地ヲ逐ヒテ中富良野方面ニ泥土ノ堆積、侵入ヲ現出シタリ。此間僅ニ二十七分間、自然ノ暴威只々驚嘆スル外ナシ。又山腹ニテ別流トナリタル一条ノ大水団ハ、美瑛川ノ流域ニ突進シ、七、八尺ノ大浪トナリテ汎濫沿岸耕地ヲ侵害シタリトス(『十勝岳爆発災害小志』、『自大正十五年六月至昭和三年八月十勝岳爆発ニ因ル災害復旧事業施行経過ノ大要』、以下『経過ノ大要』と省略、役場蔵)。

 

 この史料によると、5月24日の噴火までにはいくつかの前兆があったことがわかる。また噴火の直前にも、新聞紙上で5月4日頃から火山活動が活発化し、7日の夜には火柱が目撃されたことが報道されており(『北海タイムス』大15・5・19)、24日の泥流も実はこの日2度めの噴火によって引き起こされたものであった(最初の噴火時刻は『十勝岳爆発災害志』によると午後0時11分)。一方泥流が村に到達するまでの時間は、25分(『十勝岳爆発災害志』)とも27分ともいわれ、火口から25`離れた上富良野まで秒速15〜17bという驚異的なスピードで到達したことになる。このように大正噴火は、今日でも上富良野の十勝岳防災を考えるうえで多くの教訓を与えている。

 

 写真 噴火後の泥流地帯

  ※ 掲載省略

 

 被害状況

 この噴火により上富良野はどれほどの被害を受けたのだろうか。『十勝岳爆発災害志』によると、被害戸数299戸で全村戸数の2割に達し、平山鉱山、新井牧場、三重団体のほとんどは全滅、江幌、日の出、市街地の一部、島津農場にも被害が及んだ。また罹災者総数1,401人のうち、死者・行方不明者は137人(男60人、女77人)、負傷者19名にのぼった。特に平山硫黄鉱業所では、事務員、坑夫、炊事婦などあわせて25名が犠牲となった。一方建物に関する被害は、村全体で364棟(7,646坪)、金額に換算して20万4,020円となり、その内訳は住家の流失54棟、半壊18棟、浸水67棟、非住家の流失112棟、半壊29棟、浸水81棟、公共建物は日新尋常小学校(流失)、上富良野尋常小学校(流失)、草分青年倶楽部(半壊)、日之出青年倶楽部(全壊)、農産物検査所第二区派出所(流失)などに被害があり、専誠寺(泥土侵入半壊)、大雄寺(浸水)などの寺院も被害を受けた。

 一方家資については、商品、貯蔵穀物、機械器具、家具類、衣類、有価証券その他を概算して7万4,670点、金額で24万4,859円の損害がでた。また家畜は、牛3頭、馬25頭、豚10頭、鶏603羽、ウサギ3羽の総額8,070円の被害があった。

 一方田畑への被害は、田が5,060反埋没流失し、作付労銀・肥料・種子代の損害10万8,790円とあわせて112万790円の損害、畑は2,250反が埋没流失し、やはり耕作被害2万250円とあわせて11万250円の損害があった。土地に関する被害は、このほかに雑種地、学校用地、市街宅地にも及び、124.4反、9,040円の損害があった。

 道路は12里30町、6万1,200円の損害を受け、このうち準地方費道が1里18町で8,000円、町村道が11里12町で5万3,200円という内訳だった。また橋梁は、33カ所、1万3,800円の被害があり、このうち準地方費支弁の橋は3カ所、3,000円、町村費支弁の橋は30カ所で、1万800円の被害をうけた。潅漑溝は草分土功組合の水路が被害を受け、被害金額は12万円だった。河川は富良野川とエホロカンベツ川が被害を受け、総額5万5,000円のうち、富良野川が地方費支弁1里、村費支弁4里で被害金額1万2,000円、エホロカンベツ川が村費支弁2里で4万3,000円の被害をうけた。その他国有林被害が19万4,224石、12万6,315円、鉄道被害が2万6,332円、電信・電話被害が1万3,000円、平山硫黄鉱業所の被害が35万円で、上富良野が受けた被害の総計は194万7,030円にのぼった。

 

 写真 二次災害を恐れ避難する村民

  ※ 掲載省略

 

 噴火直後の上富良野

 さて泥流に襲われた上富良野では、消防組や青年会が出動して警鐘を乱打し、市街の大部分は被害から免れたものの、村民は大混乱し明憲寺などに避難した。一方吉田貞次郎村長は、上富良野市街大通4丁目十字街街頭に応急事務所を開設し、1本の旗を立ててその目標とし、これを救護本部とした。また電信・電話が美瑛−上富良野間で不通となったため、吉田村長は午後8時、鉄道電話により富良野、滝川を経由して上川支庁に状況を報告し、救援を要請した。さらに午後8時過ぎには被害調査のため、金子浩助役以下約20名が決死隊を編成し、三重団体方面へ出発した。

 後に吉田村長は噴火当日の夜のことを回顧し、「時々襲う鳴動の響きは、宛ら鬼哭啾々[きこくしゅうしゅう]の聲とも聞え、人々生きたる心地もなく、唯高き所を求めてのがれんとするもの、家財夜具等を背負いて露営の準備をするもの等続出し、傍流言蜚語[かたわらりゅうげんひご]頻りに伝はりて、第2第3の泥流襲来を報し、不安焦燥の内に其夜を明かした」と語っている(昭和11年5月19日午後7時30分より放送された「十勝岳爆発十周年に際して当時の回顧談と其の後の十勝岳竝に遭難地域の変遷復興の状況」、役場蔵)。しかし大惨事にもかかわらず、村民は「沈着にして少しも騒がず、秩序整然と規律的諸般の行動を採ってい」たといわれ(『北海タイムス』大15・5・27)、また災害直後から消防組や青年会、市街地の自警団や婦人会によって避難者収容や傷病者救護、炊きだしが行われた。またこの日のうちに中富良野村からは救護隊が派遣され、25日未明には、富良野警察署から鈴木東平署長が自ら署員を率いて応援にかけつけた。

 

 救護活動の準備

 一方25日未明には、金子助役らの決死隊が帰着し、新井牧場、三重団体等の全滅を告げ、被害の甚大さが明らかとなった。そこでさらに詳しい被害の程度と罹災者の避難状況を調査するため、村会議員、役場職員、行政部長、組長その他有志により方面委員を組織し、これを9班に分け、午前4時に各災害現場に派遣し、罹災者給与台帳を作成することになった。また三重団体鉄道終点国道(三重団体鉄道合宿所付近)に幕舎を設置して応急事務所の第二事務所とし、金子助役がこれを指揮した。さらに集合避難所が改めて明憲寺に設置される一方、罹災者が身を寄せる避難先の世帯主に依頼し、82カ所をそのまま避難所として指定した。

 集合避難所は、24日より27日まで毎日2,000名以上を収容し、82カ所の避難所にも、6月2日まで総数600余名が収容された。また生存者の救護や罹災者の収容、死体捜索、食料給与には、上富良野全村の住民会、在郷軍人分会、自警団、青年会、婦人会、処女会が総動員され、危険な鉱山事務所の捜索にも富原や十人牧場の青年団が派遣された(『北海タイムス』大15・5・27)。また富良野町、美瑛村、中富良野村など周辺町村の消防組や青年団、在郷軍人分会も応援に駆けつけた。

 25日の午前中には、北海道庁や上川支庁の救護態勢も整いつつあった。上川支庁からは北崎巽支庁長をはじめ、津田第二課長らが到着し、北海道庁からは松沢保安課長、橋本清吉社会課長らが派遣され、傷病者や衛生状態視察のために井上防疫医と中山巡査部長が薬品や医療具を携えて同行し、駅前の福屋貢方で応急治療を開始した。また旭川警察署、旭川の日本赤十字社北海道支部病院、旭川市医師会、上川郡医師会などからも医者や看護婦が派遣された。第七師団からは、歩兵第二八連隊石田少尉指揮の下、美瑛富良野方面出身兵士約50名が派遣された。これらの人々は、旭川駅より出発する救援列車で上富良野にむかったが、美馬牛−上富良野間の鉄道不通のため、美瑛から徒歩か、或いは滝川経由や富良野経由で来村した。また北海タイムス、旭川新聞、小樽新聞など各新聞社もそれぞれ特派員を派遣し、活動写真班を現場に急行させた。

 また25日の夕方には再び十勝岳が「鳴動」し、上富良野市街地は「点灯頃に至れば全部戸締りをして市街裏の妙見[ママ]山に引き上げ、殆ど人影すらも見当らず、只十字街の救援事務所に役員及び十数名の人夫と時折巡回する自警団の一隊をみるのみで、宛ら無人街の感」があり、また集合避難所に指定された明憲寺も、「本堂庫裡は人々が重なり合って僅かに露を凌ぐものや鐘楼付近には露天下に筵を敷いて雑魚寝するもの約千人に達し、さしもの広い妙見[ママ]寺内も殆ど立錐の余地すらなく、一家全滅し只一人生き残った老爺や親を失った幼児等、枚挙に遑ない程で、焚き出しの握り飯を暗がりの中でムサボリ食ふ惨状、言語に絶」するありさまだったという(『北海タイムス』大15・5・27)。