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4章 大正時代の上富良野 第9節 大正期の宗教

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3、天理教

 

 上富良野宣教所

 上富良野宣教所の起こりは天理教信徒の旭野(当時、コルコンニウシュベツと呼ばれていた)への移住開拓に始まる。その経緯を上富良野分教会の『第五代会長就任奉告祭』をもとに記載すると以下の通りである。

 明治39年3月に旭野の山田牧場(山田新吉経営)に開墾地の払下げを受けたのは高松彦太郎、正瑞喜太郎、岡沢政吉、佐藤正信、武田高蔵、清水與一、廣卯吉、伊藤雄太郎、木田軍平の9人であり、10万坪を10口に分割して所有したことから十人牧場と呼ばれるようになった。ただ実際に入植したのは高松、岡沢、佐藤、松下要助、沖野常吉、前川清作、木田桐江、林熊七、森喜四郎等であり、いずれも幌向支教会の信徒たちであった。彼らは江別、幌向、岩見沢、篠津に入植していた人々であったが、いずれも石狩川やその支河川によるたび重なる水害によって疲弊しており、水害のない好条件の地へ再移住を求めていた。その時に山田牧場払下げの情報を得、旭野に移ることになったのである。

 入植した信徒たちは毎月18日に講をもち信仰を守り続けていたが、夕張支教会では44年3月に藤崎幸一を布教専務員として彼らのもとに派遣し導き助けていった。この結果、間もなく教会を設置するにいたり、上富良野神社前の市街地1714番地に敷地を購入し、空き店舗の建物を移設してこの年の8月に竣工をみた。そして本部より6月20日に上富良野宣教所設置の許可を得、藤崎幸一が初代の所長に就任することになった。

 大正期に入り3年に神殿建築がなされ10月26日に竣工したが、5年10月に藤崎幸一が夕張支教会に戻ったのでしばらく所長が不在という事態を迎えた。しかし、佐藤正信が6年1月30日に就任し、宣教所の教勢拡大につとめていった。彼は徳島県阿波郡林村字岩津の出身であり、明治29年に江別村角山に移住している。大正2年、31歳の時に布教の道を志して天理教校別科に入学し、卒業後は北見、網走方面にて布教に当っていた。それ故に、後任の所長として迎えられたわけである。

 佐藤正信は上富良野宣教所の発展に尽くす一方で大正6年1月に美瑛に宇莫別宣教所(上富良野宣教所役員の高松彦太郎が所長に就任)、13年12月に下富良野に神富宣教所(松下要助が所長に就任)を設置し、上級教会である夕張支教会(大正6年に分教会に昇格)の拡張に挺身するなど、天理教の布教と教勢拡大におおいに貢献していたが、昭和6年3月に49歳で死去する。

 

 写真 天理教上富良野宣教所

  ※ 掲載省略

 

 旭江宣教所

 現在の旭江分教会の沿革については『天理教雨竜大教会史−部内篇』(平5)が詳細である。以下、同書をもとに旭江宣教所の創設まで記述していくことにする。旭江宣教所のもとを築いたのは大串新七であった。大串新七は徳島県板野郡一条村の出身であり、明治29年に屯田兵として雨竜郡納内村(現深川市)へ移住していた。彼が天理教に入信した契機は、父伊衛門の病気が旭川宣教所の植木才助の加護により全快したことであった。やがて布教の道を志して上富良野村へと移る。衣川に入植しての布教であったが、農業は両親、妻が営み、新七は専心布教に励んだという。

 布教の開始は大正5年1月であったが(『旧村史原稿』)、当初は教勢も伸びず困難を極めていた。しかし、7年夏に日照りの際に江幌で雨乞いを依頼され、3日3夜の祈禧によって雨を降らせたことから、にわかに信者となるものも増え教勢も拡大していった。

 やがて教会を設立することとなり、西12線北191番地に教会となる建物を建設し、本部から南海大教会雨竜分教会旭江宣教所の設置許可を12年1月29日(道庁許可は13年6月20日)に得た。初代所長には笹谷音之助が就任したが、13年3月に天理教校別科に入学して教導職の資格を得て戻った大串新七と交替し、新七が2代目所長に3月25日に就任した。

 

 北鎮宣教所

 東中で笹山喜五郎は天理教の布教活動を開始したのは明治37、8年頃であったというが、子息の一治がそのあとを受けて43年3月12日から布教につとめた。しかしながら、一治は大正7年に死去したために、再び喜五郎が布教を行い、13年4月14日に無養大教会北鎮宣教所を設置している(『上富良野町史』)。