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4章 大正時代の上富良野 第8節 大正期の生活

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1、労働の多様化と農民の団結

 

 労働

 大正に入り人々の生活は、農村振興が経済と軍事の両面から求められ、あらゆる団体が民力涵養に務め、国民精神作興の運動を一体となって展開する時代のなかにあった。第一次世界大戦、凶作そして十勝岳爆発と個人の力では太刀打ち出来ない事象が続出した。だが、上富良野の畑作、米づくり、造材、酪農、鉱業そして、農村振興の目標でもあった副業(果樹、綿羊、養鶏、ホップ、亜麻、除虫菊など)に村民の知恵と努力が注がれ、生産と生活を豊かにする土台づくりがはじまったといえよう。必然のこととして農民の団結を生んだ。多様な生産の開始は、労働の多様化でもある。女性の賃金労働が全国的に増えたのは大正時代であり、上富良野においても見られた。

 多様化した労働のなかから、いくつかを上富良野における聞き取りの蓄積を生かして、先人の具体的な労働を見ていきたい。

 

 畑作のくらし

 大正3年に勃発した第一次世界大戦によって、上富良野からも青豌豆などが輸出用にドンドンと出荷され、いわゆる豆成金が誕生した。伐木したあとの山岳地帯は可能なところから、豆がまかれ、人々が集住し、学校も建てられていった。

 大正元年に静修地区へ入植した春名金太郎は豆成金による人々の盛衰をも見てきた1人である。春名は岡山団体の一員でいったんルベシベ(美瑛村)を開墾したあとで、売り出された静修の七条農場へ移った。農場といっても付与検査にもれた荒地だったが、「自分でコツコツやるより得だ」と言って、よく働く夫婦者を雇って、2、3年で10町歩拓いたという。その頃、浜の方から来たのか、「満州もどり」か、労働者が入って来ていた。馬も使いはじめ、2頭引で起こし、上富良野の市街へ2時間かけて出かけたものだった。「豆ばっかりやった。青豌豆や手亡は、外国いっとるんだ。1俵27円が3年続いたんだからな。米1俵4円20銭ぐらいの時、成金は6年で終わった」。おおいに儲けて、使ってかえって借金する者もいた。米の味が恋しくて造田したけれども、うまくいかず以後畑作ばかりであった(春名金太郎談「古老のテープ」昭55年96歳)。

 また、倍本(東中地区)の橋野農場が開設された明治41年に入地した瀬戸市松も豆成金の体験者であった。農場との契約は1反歩につき開墾料30円であった。土地は大木、桂が生い茂り、地味は良い方でも、笹が多く、そのうえ石だらけで、笹を刈り払って、火入れした後に島田鍬で一鍬づつ掘り起こして窓鍬で耕した。はじめの年は菜種・ソバ・稲藁をばら蒔いたのだった。開墾料は現金ではなく、松岡商店から生活用品を現物でもらい、作物がとれるようになった3年後まで現物支給であった。大正元年でも葦原が続き、倍本から18号を通ると、家は草小屋で5、6戸。馬屋の小さいのがあった。「うっかりマッチすって火を出したら、ここらは下まで泥炭地で、一カ月でも燃えとった」という。

 やがて、5年まで在場した瀬戸は、凶作など経るうちに、近所の人たちが「そのうちイヤになって、わしらの居る処から出てしまった。もと来た三人、北見とかね、内地に帰って、うち(瀬戸)だけ山におって、近所のひとが入って居った家、屋敷の縁の良いところばかりをね、何処でも歩いて作った。そこで、青豌豆の値の良い時に、八〇俵か九〇俵とった」。「青豌豆と、小手亡の値段が八〇〇円、千円かな‥トンでもない相場があってね」。そして、「事務所の前を通れんぐらいの借金を返して」、8年に現在地(東4線北18号)を譲り受けて移ってきたのだった。成金の利益を遊興費で使い果したり、雑穀を売る時期を逸して儲けそこなった人々の例はよくある話で、手堅い者は、益金を元手に金を貸すことも出来た。人生模様、さまざまに展開した時期であった。(瀬戸市松談「古老のテープ」昭57年86歳)

 豆景気も下った7年から、多田農場(旭野地区)を開墾した多田ナヲが思い出す苦労話は荒地を開いたことだった。「ヨシヤチ開いてね、島田鍬で。夜、寝るひま余計ないんですよ。女なら、(一日に)二畝も起こせば、手いっぱいだね。力を入れて起こせば石が出るものの、鍬はつぶれるもの。力を入れなければ、(根は)切れないもの。ヨシは楽だったけれど、後始末が大変で、軽い鍬で(ヨシを)刻んで、天日に乾かしてハローをかけて、土ならしをした。プラウの先にナタを付けてね。石のない所は二年で収穫あるけれどもね」。多田農場の長男、近一と倶知安で前年末に結婚したナヲは20歳であった。その頃、肥沃な中の沢の高台まで、通いで豆を蒔いたという。豆を蒔く時は「湿り気がないと芽が出ないので、雨の少ない年には夜露をたのみに、月明かりのこともあった」。月が雲間に入ると、家に帰り、仕事着のまま横になり、明るくなり始めると、また出て行って種を蒔いたのだった。3年目の9年から馬を使っていた。馬鈴薯は中の沢へ移ってから作り、夫の近一が喜茂別にいた頃からの希望で、澱粉工場を操業、澱粉1,800袋も出荷したこともあった。7年には私設の学校を多田農場に作ったので、「子どもを学校で教えてもらえる」と言うことで、働く人が入ってきた。備わっていたオルガン、大きなソロバンは、後に十人牧場の特別教授所に寄付し、現在は郷土館に保存されている。(多田ナヲ談「古老のテープ」昭55年78歳)

 

 米づくりのくらし

 上富良野の稲作について『上富良野町史』は、東中の十川茂八(東7線北16号)が、地元で水稲の元祖≠フ1人といわれ、大正9年の北海道産米百万石祝典に水田試作功労者として表彰されたと記している。明治41年ころに私設の潅漑溝がつくられ、大正11年には東中富良野土功組合が発足し、「東中米の産出に貢献」(『東中郷土誌』)することになった。そこには、米づくりへの努力の積み重ねがあった。

 また、大正4年、23歳で富山県から東中の実兄をたよりに来道した丸山久作は、7年には植えた豌豆が売れたら「内地へ帰るつもり」だった。結婚して、1反5畝ほど土地を耕した。そこは以前に小作で入っていた人から、「丸山さん、えらい所へ入ったなあ、あそこは米がとれんぞ」と言われた田んぼであった。土は「二度耕しをしてもかたく、締まってダメでした。代かきをしても二、三日は良かったが、草取りに入ると、もう固く締まっていて、少しもぬからず、柔らかくするために毎年堆肥を入れた。一反に十二束、九十から百束ずつ、戦争で藁が買えなくなるまで入れて」改良に努めたのだった。1年目は何も穫れず、次の年には5俵位。それから2年かかって土地を5反にふやし、20俵ぐらい穫れたという。(丸山久作談昭55年、聞き取り岩田賀平)さらに、同じく東中の水田農家であった床鍋正則による「水田農作業の移り変り」(『かみふらの郷土をさぐる』4号)から、造田のはじめのころの作業の手順をみたい。

 農作業は冬の間に、秋の取り入れの準備をする。俵あみは「大抵は女たちの仕事で、寒い納屋で湯たんぽをかかえての作業だった」、縄ないやサン俵作りを終えると、雪解け前の堅雪を利用した堆肥出しである。「朝五時頃から始める。堆肥を橇に積み、前で綱を曳く者、後押しする者が力を合わせて運ぶ」、太陽が昇る前の作業であった。のちに馬力を使った。

 代かきは、泥炭地の場合にはぬかり易いので「馬にわらじを履かせて、急いで馬鍬で代かきをした」。粘りがない泥炭地では稲株が浮くので、「一尺に二尺もある下駄の先に縄をつけ、両手で交互に持ち上げながら田面を歩く」田下駄踏みをして稲株を落ち着させたのだった。粘りけのある堅い水田は「荒代をかいてから二、三日して畦塗りをする」。馬耕のあとに、窓鍬で畦の内側を削り、水もれ防止や畦の補強をした。

 籾まきは、第一次世界大戦後には水苗代栽培から、直播栽培が普及した。種籾は反1斗2升位、予め10日程用水路の水に浸けておく、「たこ足」といわれた直播器の底から伸びたブリキ製の8本のパイプ2列を通して、種籾を播いた(種下し)。この作業は「大抵女の人が受持ったが、1人1日5反歩から田んぼが大きいと8反歩も播くことが出来た」。冷たくて足の感覚がなくなったり、ゆでだこのように赤くなったという。

 草取りは、直播栽培では雑草も稲も発芽のスタートが同じだから、うっかり草取りが手おくれになったりすると、一面にすき間なく密生した雑草に稲は圧倒されてしまうのだった。品種は「無芒の坊主、チンコ坊主」で7月末に出穂、稗や雑草抜きを2回くらい行なって、稲刈りの準備に入るのだった。

 

 「やまご」のくらし

 大正12年1月14日に山本木工場が営業開始した。山本一郎(村会議員丸一山本運送店主)の多年の宿望が完成した式典に、吉田上富良野村長、五十嵐北電富良野出張所主任をはじめ30余名が列席した(『北海日日新聞』大12・1・22)。林業は上富良野の生産物総額に対して、10年以降急増して15年には24%(『村勢要覧』)を占めるようになり、依然として、農家の冬場の現金収入としても欠かせない仕事であった。

 佐川亀蔵(82歳)の「やまご物語」(『郷土をさぐる』10号)には、体験を通した仕事の段取りが詳しい。北海道では「山に入って木を伐ることを業とする人」を「やまご(山子)」といい、夏冬を通して専門に山を巡って歩く渡世人と、亀蔵のように、冬期間のみ稼ぐ「百姓の出稼ぎ」がいた。亀蔵らの身支度は良い方で「雲斉(うんさい)という木綿のズボンに、股下から紐で長い軍隊払下げの赤ラシャの脚絆」を着けた。角材を削る時は、軍手のほかに自家製の、指先のない手甲をはいた。「指を差し込むところは赤で丸く輪にしてあって、指先が自由で作業し易く手も疲れにくい、しかも母親やオッカア(妻)の心尽くしだから、実に暖かく冷たさ知らず」であったという。

 造材の段取りは、秋に始まる。小屋掛けは沢地の風当たりの弱い所に、事務所・物品売場そして、やまご・馬追い・人夫それぞれの別棟を建てた。伐採作業に入る前に、親方は鉞(まさかり)立ての儀式を行なう。新しく鳥居を建てて、山の神を祀り、お神酒を頂いて、その日は休んだ。伐採には、皆伐(かいばつ・有効な立木を全部伐る)と択伐(たくばつ・折損腐敗した枯損木と優勢木を調査して伐る)があった。調査木を分ける時、「最初の1本目は良い木を選んでやまご一人一人に割り当てされる。やり方は山頭が小枝を切って印をつけ、くじを引かせて決める」のだった。

 「やまご」には約束事があった。木を倒す時に、目的とする方向に倒すため切り口に段差をつけた印を「受け」といい、この部分を「サルカ」といって、伐り倒した後で「サルカ」を切り落とさねばならない。もし違反があれば、その材は出荷できない。馬追い・親方・山頭に見つかるとその材は受け入れにならなかった。

 後日見つかったとしても、材木に各山の印が付いているので、誰の仕事かすぐわかってしまった。「やまご」は鋸に神の名を書き、神聖なものとして扱った。鋸を叩いたり、楔と楔をうつことは「不慮の事故発生の場合の緊急信号」になっていたので、この錠に反した時は仕事を休むことさえあった。また、「朝から汁かけご飯を食うな。握り飯に味噌をつけるな」などの習慣や縁起を担ぐ、申し合わせによって、危険な仕事から身を守ったのだった。

 「やまご」の道具は筵を四ツ折りに畳み、縄紐で両肩にかける背負子(しょいこ)に、鋸・鉞(まさかり)各種・角まわし・鳶口・墨壷と竹筆の墨差などを入れると、21、3貫(約50s)になったという。山の楽しみもあった。「きつい山仕事は一升飯が通り相場。飯場の親父さんが作ってくれた頭程の握り飯も、一切れの鱒の塩引きで食べるのだが結構うまかった」。3月末の総切り揚げを済ますと、帳場から稼ぎ高、物品の使用料等の精算を受け、他に特別賞与金が1円札で1、2枚。これは稼ぎ高に関係なく平等に支給された。仲間との別れを惜しみながらも、冬の間、ほとんど交信することが出来なかった家族のもとへ帰って行った。

 家では農作業の準備が待っている。

 

 さまざまな仕事

 上富良野における、十勝岳の硫黄の存在は古くから知られ、鉱区発見により明治31年には「評判一時に高まり」、十勝岳硫黄鉱区事件が起こるほどであった(『北海タイムス』明34・4・16)。

 「十勝岳硫黄山紀行」(同明34・10・23〜24)によると、2年前から硫黄山開掘のため、美瑛側から登った所に造られた事務所には「番人夫婦」がいた。そして、第二事務所・鉱夫小屋・倉庫が数棟、硫黄製錬場・製錬小屋が広く点在していたという。

 大正10年から平山鉱業所で働き、翌年18歳から十勝岳が爆発するまで、上坂定一は硫黄運搬にたずさわった。責任者は旭川から来ていた斉藤という親方であった。噴火口に近い元山事務所から、十勝岳の登り口の中茶屋まで1日1回、硫黄を300貫(1,215s)くらい運んだ。夏は「元山事務所から中茶屋まで丸太を敷いてねえ、棒の先にポロつけてさ、油ひいてさ、そして叺(かます)に入った硫黄を引っ張ったもんだ」という。長い橇に荷を積んで弟が後押しをして、定一が引っ張り運んだ。冬は馬橇であった。さらに硫黄を中茶屋から、駅前の吹抜き倉庫まで運搬した。九州からの労働者は70人であった。(上坂定一談「古老のテープ昭55年79歳、『郷土をさぐる』3号」また同じように大正13年、相良義雄も18歳で平山鉱業所へ入った。硫黄を採取するときは「鼻から(空気を)吸い込むと痛くてダメ。口から吸うんだ。鼻使わんから、ハナがでるんだよ。(亜硫酸ガスのため)目がまわるほど痛い。特にひどい時は、手拭いで鼻を覆って行ったもの」だった。醤油のような色をした硫黄の液体が烟道(えんどう)の出口からたれ落ちて、自然に固まる。その塊を軽便鉄索(てっさく)に積み込んだ。軽便鉄索は2本のワイヤーに2個の搬器がつき、1個に硫黄を積み込んで下ろすと、別の1個が空で戻る仕組みであった。冬には第二鉱で烟道の出口で固まった硫黄を叩き落として、硫黄の採取をした。「煙の出るところに、宿を作っておいて、1週間交替で泊りに行くんだわな。夏のうちに炭なんか上げておいて、飲料水はないから雪水を溶かしてつかう」。年前(としまえ)までは通うけれど、正月から2月いっぱい位は、「宿」へ泊った。4人1組で、1日交代で飯炊き、炭火おこし、雪溶かしなど受け持った。

 ところで、相良の記憶では、約100人が働き九州組と、福島組に飯場は分かれとったが食事は同じだった。九州組の人たちは、平山鉱業所で4月から10月まで稼いだのと、2月頃から12月まで1年間、朝鮮や中国へ稼ぎに行った金が同じであったから北海道は期間が短いので来たという。朝鮮人もいて、「人の嫌がるような仕事」ばかりしたが、1台いくらという賃金でトロ押しをしていた。トロから落とした硫黄を相良らは鉄索へ降ろしたのだった。(相良義雄談「古老のテープ」昭55年76歳、『郷土をさぐる』3号)十勝岳爆発は、こうした噴火口で働いていた人々を直撃した。

 噴火口の裏山に駈けあがった人々や、たまたま家に戻っていた人たちが命拾いをする一方で、道路沿いに逃げた人々が皆、泥流に呑込まれてしまった。ほかに、熊谷友吉「硫黄山で遭難した人の手記」も飯場の緊張した様子を伝えている(『郷土をさぐる』1号)。

 上富良野の産業の発展は、多様な道具の活用に支えられている。なかでも、大正6年に松岡鉄工所から独立した菅野農機具製作所の開業は人々の需要に応えたものであった。鍬(くわ)・鉞(まさかり)や山しごとの道具を作りはじめ、翌年春にはプラウの修理が120台にもなったという(『菅野豊治を語る』スガノ農機株式会社1992年刊)。全道的にも機械が注目され、同7年8月開催の開道五十年記念博覧会(札幌・小樽)では農業館・工業館・機械館が大規模に設置され、9年の北海道農具共進会(札幌)に上川管内からも、美瑛のプラオ・中富良野の籾摺機・東旭川の馬具(カーラ)などが出品されるようになった(『北海タイムス』大9・7・14)。こうした勧業的集会へ、農会や各地域の農友会を通して、参加が奨められたいた。

 また、農業でも試験的な試みから栽培に成功したホップがあった。『本道におけるホップ栽培の沿革』『北海道ポップの沿革』(サッポロビール株式会社蔵)によると、大正3年には全道の試作地(16カ所)のなかでも、上川と空知に良品を産出することが判明したので、試作を一先ず打切り、12年になって上富良野農会に依託同村内の3カ所に各1畝歩ホップの試作を行なった。夕張町・遠別村も試作地であったが、「富良野が最も優れている」とされた。

 『上富良野町史』は試作農家に旭野の野崎孝資、草分の一色仁三郎、江花の五十嵐富一をあげている。

 「古老のテープ」の会話によれば、ビール麦の試作は大正2年頃に始まったという。上富良野のビール麦の元祖ともいえる野崎孝資は神居をへて大正2年、19歳で上富良野(川向)に来た。「あの若い人にビール麦の種子を持たせ、試作させたんだから、会社に相当信用があったんだね。大正2年の凶作の時に、野崎さんがビール麦を持って来てくれてすごく良かったと父からも聴いている」(林財二談)。野崎の妻スエノも「熱心さが認められておったんです」という。ビール麦は精農家にとってはよかったけれども、真似のできるものではなかったが、やがて、栽培をまねる農家も出てきたのだった。(林財二談「古老のテープ」昭55年78歳・野崎スエノ談「古老のテープ」昭56年86歳)

 さらに、亜麻・養蜂・除虫菊・果樹そして綿羊・乳牛など副業奨励による導入にあたっても、それぞれの試行錯誤を繰り返えしながら定着したのだった。工業では、石工の労働もある。技術を必要とされ、賃金は高かったという(林財二談「石の大鳥居」『郷土をさぐる』1号)。

 

 農民の団結

 上富良野の農場のなかで、小作人との契約が知られているのは、島津農場の「口約束」による3ヵ条である。開場以来

 一、国法を犯さざる事

 一、組内の平和を乱さざる事

 一、小作料を滞納せざる事

に違背した者は退場させられた(『島津農場概要』)。具体的には窃盗・喧嘩などとともに、徒党を組むことが含まれて、農民が団結することを禁じたものであった。『風雪八十年島津友の会十周年記念誌』によれば違反した者は、小作制度当初より、解放に至る迄、一人も、該当者は出なかったといわれている。

 大正デモクラシーの時期、上川管内では9年に、道内初の農民組合に組織された神楽御料地争議、そして富良野の磯野農場で11年に第一次小作争議、15年に第二次小作争議が展開されたことはよく知られている。14年の日本農民組合北海道連合会の結成により、各地の農民は支部を結成し、それは燎原の火のごとく波及したのだった。第二次世界大戦前における小作争議の一つのピークであった昭和2年に作製され、警察署が虎の巻と称して参考にした全道の「北海道関係農民団体一覧表」(北海道社会文庫蔵)がある。同一覧表には、日本農民組合傘下の40支部と青年部、全日本農民組合同盟傘下の3支部そして、東中村有地小作人組合(空知郡上富良野村東8線)ほか17の単独農民団体が明記されている。

 東中村有地小作人組合は、中西覚蔵の回想(『かみふ物語』)・(中西覚蔵談「古老のテープ」昭55年68歳)によれば、風防林(殖民区画の段階で、その中央につくられ、幅100間)が村有林として、一般に貸付けされ、小作人が入地したのは、大正元年であるという。開墾した後の切株には一家揃ってお座りが出来るほどの大きなものが残っていた。27戸が小作人組合を作ったのは7年のことで、「収入役になった谷口さんがつくったもので、親父が組合長を二年務め」、その後を覚蔵が引継いだという。水田づくりへの願望から水利権問題を役場と団体交渉することになった時、「折衝の親分」が「頑固者の玉島梅太郎」であった。結局、6線18号に溜池をつくる事を条件に、水利権を与えられ、村有地内の水田づくりが可能となった。

 なお、大正9年1月10日村会決議された「村有林雇管理方法を定むる件」のなかには、「水利加入に要する費用並びに将来の潅漑溝維持修繕に要する費用は賃借人の負担とす」、また「小作料三カ年毎に更改し、付近類似地小作料の七割内外を以て評定す」とある。組合との折衝は継続されていたことが分かる。やがて、組合内に蓄積会をつくり、毎年お金を集めては、お金を貸し、借り手もあまた居たという。

 さらに、小作人が地主と掛合った、いわゆる小作争議があったのは、大正13年の五十嵐農場である。五十嵐農場の前身は中島農場であり、札幌で農場経営および金銭貸付業を営む五十嵐佐一に明治40年手渡った。当時、中島農場が「三十何万円で売らなければならない事情」があって、五十嵐佐一と島津にも売却の話があったという(海江田武信談「古老のテープ」昭55年)。五十嵐は札幌区会議員、五十嵐合資会社や札幌市街軌道(株)の役員、済生会へ寄付(1万円)、日赤の佩有功章社員、大正4年には同志会から当選した代議士などの肩書きをもつ「札幌屈指の資産家」であった(『明治の札幌』)。

 『上富良野町史』には五十嵐農場における農民たちの「造田と自作農への悲願」のいきさつが詳しい。造田によって米の収量が3俵半から4俵が一般的な時に、5俵獲れるようになると、小作料は約1俵の物納に変わった。そして、人々は精魂込めた水田の解放を望み、9年に小作人の総会をもち、特別の名称はつけていなかったが、解放運動の14人の委員(代表荻野幸次郎)が決まったという。個別の土地売買による、解放は9年から11年にもあったが、12年(総戸数60戸)に至って先の委員による、地主との直接折衝が始まった。土地ブローカーの介入を退け、42人の小作人が出札したのは13年である。

 各新聞報道をみると、「小作人50余名農場解放を叫んで、大挙出札し、場主に陳情−上富良野五十嵐農場の争議」(『旭川新聞』大13・11・4)、「農場解放運動−五十嵐農場の」(『小樽新聞』大13・11・4)、「五十嵐農場小作争議−風雪を信じ小作人が騒いだもの」(『旭川新聞』大13・11・6)と見出しは伝えている。秋の取り入れを待って、11月2日正午、札幌に到着。翌3日に地主五十嵐佐一に会見、「寝耳に水のことで、他日若し売却等の場合は、もちろん小作人に譲渡する」との地主の見解を聞き、一同安堵して3日午後の帰村となった。しかし、その約束も難しい状況となり、土地解放の売買が成立するのは翌14年11月であった。