郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

4章 大正時代の上富良野 第6節 明治・大正期の村民の文化

473-475p

4、石碑の建立と門上浄照

 

 史蹟・名勝・天然記念物の保存

 大正10年2月の上川管内町村長会議における「指示事項」に、「史蹟名勝天然記念物保存ニ関スル件」がある。これは、その2年前の大正8年に制定された「史蹟名勝天然紀[ママ]念物保存法」の精神を、道内各町村においても実現することを指示したものである。

 

  史蹟名勝天然記念物ノ保存ハ、国民的自覚ノ培養、審美心ノ涵養、乃至文化ノ源泉トシテ、学術上ノ研究ニ貢献スル所尠少ナラス。是ニ於テカ、一昨年該保存方ノ発布ヲ見ルニ至レリ。然ルニ従来之カ保存ハ、殆ント閑却セラレタル憾アルノミナラス、近時拓殖ノ進展ニ伴ヒ、漸次破壊湮滅ニ帰スルノ傾向アルハ、甚タ憂慮スへキコトニ属ス。各位ハ宜シク法意ノ存スル所ヲ体認シテ、精細ナル調査ヲ遂ケ、相当施設ノ下ニ之カ廃滅ヲ防止シ、其ノ重要ナルモノハ速ニ之ヲ申報スル等、保存上遺策ナキヲ期セラレタシ。(『自大正八年七月至大正十二年一月町村長会議要書』役場蔵)

 

 このような指示は翌大正11年にも出されており、この時には学校や青年会などに史蹟・名勝・天然記念物についての知識と理解を与えること、学校職員や神官、僧侶などがこの政策の普及徹底に努力することが付け加えられている(『自大正八年七月至大正十二年一月町村長会議要書』)。また同じころ、上川支庁から各町村長に対して、鉄道沿線における史蹟・名勝・天然記念物は特に停車場に案内標に記載し、一般に周知、紹介することが要請された(『上富良野沿革其之他参考』役場蔵)。

 

 門上浄照と石碑の建立

 このように史蹟・名勝の保存政策が進められていたころ、上富良野では聞信寺住職の門上浄照が、十勝岳に記念碑を建立する事業に取り組みはじめた。門上はもともと、十勝岳を北海道の霊山とし、「我が文明の父といふべく精神教化の母とも申すべき聖徳太子の聖像を安置し講堂を建てヽ、彼の日夕繁激な仕事に馳駆して心身共に疲れた人々を此霊場に遊ばせたい、崇高な太子の御生涯を偲ばせたい、講堂に徳者の提唱を聞かせたい」(大正10年8月「趣意書」『郷土をさぐる』第7号)と考え、記念碑の建立もこの計画の一環として位置づけられていた。

 門上が建立に関係した記念碑は、大正13年7月十勝岳白銀荘前に建立された長谷川零餘子の句碑「鬼樺の中の温泉に来ぬ橇の旅」(大正12年3月2日、俳人長谷川零餘子が旭川在住の石田雨圃子とともに十勝岳に橇旅行したことを記念した)、昭和2年7月十勝岳中茶屋入口に建立された石田雨圃子の句碑「秋晴や雪をいただく十勝岳」、昭和3年10月7日十勝岳泥流の丘に建立された十勝岳爆発災害記念碑、昭和4年7月9日十勝岳泥流跡に建立された九条武子の歌碑「たまゆらのけむりおさめてしずかなる山にかえれば美るにしたしも」(九条武子が昭和2年、北海道仏教婦人会大会出席のため旭川を訪れ、十勝岳の鎮静化を念じて詠んだ歌)、昭和17年7月十勝岳頂上に建立された十勝岳頂上碑「光顔巍々[こうげんぎぎ]」(昭和12年2月28日、西本願寺第23世法主大谷光照の来村を記念して建立した)などである(中村有秀「石碑が語る上富の歴史」『郷土をさぐる』第1、第3、第4、第8、第11、第12号)。

 

 写真 噴火後(昭和7年頃)の十勝岳泥流地帯

 写真 長谷川零餘子の句碑

 写真 石田雨国子の句碑

 写真 九条武子の歌碑

  ※ いずれも掲載省略

 

 上富良野における史蹟・名勝の保存

 では、門上はなぜこのような石碑の建立に取り組んだのだろうか。確かに十勝岳を北海道の霊山にするという目標からすると、門上の動機は宗教的なものといえる。また門上の事業を、「上富良野の観光開発に先鞭をつけた」と位置づけることもできるだろう(加藤清「聞信寺第二世住職故門上浄照師を偲ぶ」『郷土をさぐる』第7号)。ただここで指摘しておきたいのは、門上が十勝岳の記念碑建立に取り組んだ時期は、ちょうど「史蹟・名勝の保存」が国家的政策として推進された時期と重なるということである。

 他府県と違い北海道では、開拓を優先して史蹟や名勝を破壊する傾向にあり、また史蹟といえるもの自体、少ない。上富良野を例にとってみても、「史蹟名勝天然記念物保存」の指示があった大正10年2月の町村長会議に出席した当時の村長(おそらく吉田貞次郎と考えられる)は、上富良野で史蹟といえるものを連想して「憩いの楡」とメモを残している(『自大正八年七月至大正十二年一月町村長会議要書』)。

 しかし後世のわれわれにとって「憩いの楡」が上富良野発祥の記念すべき史蹟であったとしても、開村して20年余りの村民にとって、「史蹟」としての意識はなかっただろう。とすれば、せめて開村からこれまでの歴史を含め、今上富良野で起こっているできごとを目に見える形で残していくことが緊急の課題である。門上の取り組んだ石碑の建立は、まさにこのような動機に基づくものであり、単に宗教発展や観光開発という個人的な発想だけでなく、上富良野における「史蹟・名勝の保存」という国家政策の実現を意図するものであったのではないかと考えられる。