郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

4章 大正時代の上富良野 第6節 明治・大正期の村民の文化

471-473p

3、十勝岳登山について

 

 北海道山岳会の結成

 十勝岳登山が本格的に行われるようになるのは、大正12年1月25日に北海道山岳会が結成され、この1カ月後の2月25日に上川支部が発足したのがきっかけである。山岳会設立の趣旨は、単に山登りをするだけではなく、北海道拓殖の開発と人文の発達に資する(『北海タイムス』大12・2・27)ことであり、単なるスポーツを超えた文化活動と地域振興を目的としている。

 また各支部は会員の獲得や寄付の募集、登山見学者の斡旋、道路保全、登山思想の養成に従事し(『北海タイムス』大正12・2・6)、北海道山岳会の活動を地方でサポートし、登山の便宜を図ることを主な任務とした。

 

 十勝岳登山の流行

 ところで十勝岳登山は、大正9年3月に北大スキー部の7名が十勝岳から芦別岳を踏破する(『北海タイムス』大9・4・10)など、北海道山岳会が結成される以前にも既に行われていた。しかし一般にはそれほど知られておらず、気軽に登山ができるようになったのは、大正12年に北海道山岳会が駒ヶ岳、羊蹄山、登別、支笏湖、阿寒岳、旭岳などとともに登山道路の新設(『北海タイムス』大12・1・27)を計画してからである。これにより、上富良野駅から約4里(=16キロ)で翁温泉に達する車道に加えて、温泉から頂上までの約1里半(=6`)の登山道が新設され、手ごろな登山が可能となった。

 大正12年6月24、25日には、早くも北海道山岳会上川支部主催の第1回十勝岳登山隊が組織され、歓迎の意味をこめて上富良野村民70名も同行し、約200名の参加者をみる盛況となった(『旭川新聞』大12・6・24)。

 その後北海道山岳会上川支部が主催する登山会は毎年計画され、また一般でも旭川市立商業学校(『旭川新聞』大12・7・25)、旭川師範学校(『旭川新聞』大13・7・9)、旭川高等女学校、旭川北都高等女学校(『旭川新聞』大14・7・8)など学生たちの登山が行われた。

 

 写真 登山を前にした海江田正信

  ※ 掲載省略

 

 案内組合結成の動き

 一方十勝岳への登山客を地元でバックアップするため、上富良野に対して上川支庁より大正12年7月、登山案内組合の結成が指示された。上川支庁から上富良野村へだされた「案内組合等組織ニ関スル件」によると、北海道山岳会の設立にともない、登山道の新設や休憩所の設置、講演会の開設、雑誌発行、登山会の実施などの事業が行われ、会員も増加して道民の登山気分は盛り上がり、北海道の文化発展に対する同会の役割は重要であること、しかし本州の山岳会では、登山道の修理や案内人夫の宿舎の手配、登山用具の供給は、地元の町村で組合を組織し便宜を図っているのが実態であることが述べられ、道内各地域でも案内組合を設置して、これらの作業を地元青年会などを中心に行うよう計画することが組合結成の趣旨となっている(『大正九年以降規則規定』役場蔵)。また10月にも、案内組合の設置と同時に登山道修理組合を組織し、登山道の修理に関して自治的活動を促す組合を組織化するよう、村は再び上川支庁より依頼を受けた(『大正九年以降規則規定』)。

 

 十腰岳噴火後の登山

 大正15年5月24日の十勝岳噴火は、十勝岳への登山熱を冷ますことはなかった。北海道山岳会上川支部は一時的に登山会の中止を検討したが(『北海タイムス』大15・6・27)、火口が鎮静化すると、むしろ火山研究者たちが調査・観察のための登山を奨励し(『北海タイムス』大15・7・10)、北海道山岳会も結局例年より1カ月遅れの8月21日、登山会を実施した。新聞に掲載されたこの時の登山記によると、「上富良野の某寺の一家族が登山して居るのを見た。四十才位と二十歳位の婦人と十一才位の少女も居り、而も危険なヶ所を踏破しつゝあるのを目撃して、その勇敢なことに一同驚嘆した。他に四人伴れの登山隊もあり、其中にも婦人が一名加はつて居た。」とあり(『旭川新聞』大15・8・24)、もうこの時期には噴火の被害者の供養も含めて、噴火前と同じように登山がなされていたことがうかがえる。

 

 写真 十勝岳山頂での吉田貞次郎ほか

  ※ 掲載省略