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4章 大正時代の上富良野 第5節 大正期の教育と青年会

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4、教育財政の逼迫と村営問題

 

 起債と授業料徴収

 さきに述べたように、村財政に対する教育費の増大は、明治以来上富良野の抱える慢性的問題であった。大正年間には、さすがに明治期のように村財政の約70lを教育費が占めることはなくなったが、それでも常時村財政の40〜65lを占めている(表4−16)。そのため少しでも教育費を節減しようと、3学級以上の学校なら使丁を常時雇用しなければならないところを冬季間のみの臨時雇いにし、不作の時にはそれすら雇用しなかったり、学務委員の給料を減額するといった措置もとられた(『大正十二年村会』役場蔵)。

 一方、資金調達の手段としては、大正期になると「起債」という方法がとられるようになった。たとえば大正3年7月には、教育費に充当する目的で北海道地方費から無利子で1,900円を借り入れ、大正4年3月まで据え置き、大正4年度から3ヵ年年賦で償還するという内容で起債がなされている(『大正三年議案綴』)。ただしこの償還の財源は特別税の戸別割であり、結局は村民の税負担となるわけである。

 また大正8年8月18日の村会では、「尋常高等小学校授業料制限外徴収ノ件」が議案として提出され、同日可決されている。これは村内の高等科の生徒から、大正8年9月1日から大正10年3月31日まで授業料を徴収するというものである。金額は村内の児童が1人月額50銭、村外入学者は月額1円、1家で2人以上児童が同時に就学する場合、2人め以降は半額とする(『大正八年度村会』)。上富良野では既に明治39年度から高等科に限り月額30銭の授業料を徴収していたが、今回はさらに値上げして50銭となったのである。

 ちなみに「小学校令施行規則」第175条と第176条では、町村の小学校の高等科の授業料は月額「三十銭以下」とするが、「特別ノ事情アル」場合に限り、文部大臣の認可を受け、「期限ヲ定メテ」30銭以上の授業料を徴収できることとなっており、上富良野の措置はこの規程に基づいている。しかしこの程度の増収では根本的な解決にはならず、結局授業料の徴収は大正10年度以降も継続され、さらに大正10年1月30日の村会では、可決はされなかったが、尋常科の生徒からも授業料を徴収しようという意見まで出された(『大正十年村会』)。

 

 表4−16 歳出に占める教育費の割合

年度

歳出

教育費

教育費の占める割合

大正2

20,387円55銭

13,605円90銭

66.74%

大正3

 

 

 

大正4

 

 

 

大正5

 

 

 

大正6

 

 

 

大正7

23,724円

11,178円

47.12%

大正8

54,544円

28,034円

51.40%

大正9

 

 

 

大正10

56,459円

27,618円

48.92%

大正11

71,004円

34,132円

48.07%

大正12

73,490円

33,711円

45.87%

大正13

70,960円

33,975円

47.88%

大正14

100,011円

34,804円

34.80%

大正15

87,974円

31,778円

36.12%

   〔出典〕『大正十四年村勢要覧』、『村会議事画(予算決算書)『昭和二年村勢要覧』

   ただし、大2、大7、大8、大10、大11、大13の数字は予算額である。

 

 校舎建築の村営化問題

 一方、大正8年11月から12月にかけての村会の主要議題は、役場吏員・学校教員の住宅建築問題であった。当時村内における役場吏員・学校教員の住宅は極めて不足しており、これを解決して吏員・教員の待遇改善を図ろうというのがこの議題の目的であった。11月4日にはその費用捻出のため村起債をおこすことが提案され、北海道地方費から年4分8厘、15年年賦で1万5,000円を借り入れし、償還財源は特別税段別割、地方税戸別割でまかなうことが可決された。

 しかし審議過程では、吏員・教員の住宅建築を村費でまかなうことは「旧慣ヲ破ル」ものであるとする意見も出されている(『大正八年度村会』役場蔵)。確かに上富良野では、これまで教員住宅を建築する場合、その費用を地域住民の寄付でまかなっており、村で負担したことはなかった。これに対して塙浩気村長は、学校や住宅は本来村が建築費を負担するべきであるとして、今後の村営方針を明確にした。

 このような村長の方針は、大正9年1月28日の村会でも「本村各小学校ノ改築及増築ハ従来各関係住民ノ寄附金ヲ以テ建設スベキ慣例ノ処、之レヲ本年度ヨリ村営ト為ス可否ヲ諮フ」という諮問案として提出された。もっともこの諮問案は、上富良野尋常高等小学校の通学区域住民からの請願に基づいて提出され、実施計画も同校の校舎増築を他校に優先する内容だったため、1月30日の村会では賛否両論の意見がだされた。賛成者は、寄附による学校建築は校舎位置が多額寄付者の方面に偏ることがあること、村負担が村税から支出することなら、寄付も村税も負担するのは住民であり、両者の違いは役場経由であるかどうかにすぎないこと、凶作のため現時点での寄附募集は不可能であり、村費支出が困難なら村営の方針だけでも決めるべきであることなどを主張した。一方反対者は、旧来から寄付による建築を行ってきたのに、いまさら村営とするのは凶作の後という点からしても住民の紛糾を招く恐れがあること、村費の増加により建築費をまかなうのは無理であり、決定を先送りすべきこと、多額寄付者が学校の増新築を随意にするのは当然であることなどを主張し、少なくとも現段階では村による全額負担はせず、補助の割合を定め、それ以外の建築費を旧来通り関係者が寄付でまかなうべきだとする意見がだされた。

 この結果大正9年度から5年間は、学校の増築には5割、改築には7割を村費から補助し、全額村負担とするのは大正14年度からとすること、上富良野尋常高等小学校は本年度2教室を建築し、そのうち1教室は村費支出で、1教室は区域住民の寄付で費用をまかなうこと、住民負担分は大正14年度に村が原価で買収することが議決され(『大正九年度村会』)、大正9年8月、2教室は完成した。

 

 大正11年の見直し案

 ところが大正11年(1922)1月23日の村会で、再び上富良野尋常高等小学校の3教室増築が提案された。これは1月17日付で同校通学区域住民一同代表より請願書が提出されたことによるもので、

 

  上富良野尋常高等小学校ハ年々生徒ノ増加著敷、従来関係部民ニ於テ所要ノ校舎ヲ増築致シ居ル処、世界戦終息以来、農産物ノ価格暴落ノ結果、部民ノ困憊其極ニ達シ、到底之ガ増築費ヲ寄付ニ求ムル事ヲ得ザルガ故ニ、一昨大正九年度ニ於テハ、既ニ関係部民ノ請願ヲ許容相成、一教室ハ村費建築セラレ、同時ニ部民一同モ亦一教室ヲ建築シ、尚建築費用全部ハ大正十四年度ニ於テ拠出、部民一同ニ対シ村ニテ買収スへキ御指令ニ基キ竣工致候。然ルニ又々本年度児童激増ニ伴ヒ、三ヶ教室及ヒ職員室ヲ増築セサレバ、収容致難キ状況ニ立至リ候。サレド部民ノ負担力ハ到底其半額ヲ寄付致ス事相成難ク候ニ付、右御賢察ノ上、左ノ条々御聴許、児童就学ニ支障ヲ来サヽルヤウ御取計相成度、此段請願候也。

 

として、大正9年度に寄付で建築した教室を大正11年度にいったん村が買収し、その代金を住民からの寄付として村が再び受理し3教室を増築すること、大正9年度に決議した学校増築費の住民5割負担を撤廃し、全額村負担とすることなどが請願されている(『大正十一年村会』)。

 これに対して1月23日の村会では、大正9年度の議決を覆すことへの批判から田中勝次郎、西谷元右エ門から反対意見がだされ、杉山九市からは同校が高等科を併置して1村を包含するため児童の増加は予想以上であること、増築にかかる多額の費用を通学区域住民の寄付に求めるのは到底現況では無理であることなどを理由に、3教室の増築を村費支弁とする要請がだされた。この結果折衷案として、3教室のうち2教室は大正11年度の村費で建築し、1教室は関係住民の寄付で建築すること、住民が建築した1教室は大正12年度村費で買収するが、大正9年度に住民寄付で建築した教室を14年度に村で買収するとした議決は取り消し、この時の建築費用は村に寄付することなどが提案され、可決された。これにより11年に再び同校の増築が実現したのである。

 

 東中富良野尋常高等小学校の火災と村営化問題の解決

 大正12年3月18日の午後7時15分、東中富良野女子実業補習学校の教室から出火し、約1時間半で同小学校校舎を全焼するという火災が起こった。火災の原因は不明で、ストーブから発火したものと推測され(『大正六年調小学校沿革誌』郷土館蔵)、これにより同校は「オルガン一台を持ち出した」(『旭川新聞』大12・3・20)以外、開校以来の書類の全てを焼失した。また当座の処置として青年倶楽部を校舎に使用し、4月16日その裏に15坪のバラックを急造した。また校舎を上富良野村東8線北18号の五十嵐佐一所有地4,500坪の地に新築することとし、23日には始業式及び入学式を挙行した。

 この火災に対して、4月28日の村会では、その再建計画が議論された。これによると同校の再建に要する予算は3万2,000円で、そのうち2万2,000円を起債に求め、7,000円は村の基本財産現金より支消し、3,000円は義務教育費国庫下渡金を充当するというものであった。また起債は、北海道罹災基金及び教育資金より低利債を求めることとしている(『大正十二年村会』)。このような提案に対して、杉山九市より、この再建計画は、学校建築の村営化を大正14年度まで先送りするとした大正9年の議決を撤廃することになるとして、反対する意見がだされた。

 これに対して西谷元右エ門から、この際大正9年の議決を撤廃し、今後各学校の営繕を全て村営とすることが提案された。また田中勝次郎は、同校の再建費用を村で支出するのは止むを得ないが、これをもって直ちに大正9年の議決を撤廃するのは「徳義」として賛成できないとし、前議決を重んじ各学校の村営化は14年度よりとすべきだと主張した。

 しかし村会休憩中に各員が協議した結果、田中勝次郎は発言を撒回し、大正12年度より学校建築は全て村が費用を負担し、今後学校の増改築、新築はその必要性を理事者が調査し、村会に付議する前に調査会で提議し、その結果を予算として計上するよう提案が出され、可決された(『大正十二年村会』)。これにより東中富良野尋常高等小学校の再建計画は承認され、大正13年9月、189坪の校舎が東8線北18号に竣工した。

 

 その後の校舎増改築

 ではその後の校舎増改築は、大正12年の議決のとおり、村営化されたのだろうか。大正12年12月には江花尋常小学校で教室の模様替えがなされ、大正13年12月にも再び同校で物置をつぎたし屋内体操場を設置する工事がなされているが、どちらも工事費は地域住民の寄付でまかなわれている。また上富良野尋常高等小学校の雨天体操場、便所、1教室増築に関しては、逆に増築自体が村会で容易に承認されていない。

 しかし一方では大正14年1月になって、学校改築費に充当するため、普通基本財産預金6,200円を支消すること、北海道拓殖銀行債券6,000円分を売却すること、さらに学校改築費と起債の償還財源を確保するため、大正14年度より27年度まで基本財産支消金の補填を停止することが、村会で可決されている。また今後の学校改築は大正14年より18年までに行い、村営とするからには2、30年間は維持可能な校舎を建築すること、その財源も借金ではなく

 基本財産より生じる収入から捻出することが理事者より表明され、また改築の順番も、有権者7名で構成する小学校破朽状態調査委員会を設置し、これによる実地調査の上、決定することが可決された(『大正十四年度村会』役場蔵)。

 ちなみに上富良野尋常高等小学校の雨天体操場その他の増築は、大正15年に経費1万2,000円を村で負担することにより実現したが、この経費は大正14年9月の戸別割及び反別割徴収期限前一時借り入れによってまかなわれており(『大正十四年度村会』)、基本財産による収入での増築費負担は容易でなかったとも推測される。