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4章 大正時代の上富良野 第4節 交通と通信の整備

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3、運輸業の進展

 

 運送店の発展

 明治42年発行の『上富良野志』には、上富良野村管内の運送店として「境、森川、是安、加藤等あり」と記している。このうち「境」は境柳助、「加藤」は加藤源太郎のことである。同書の「興信録」によれば、前者は上富良野駅前で明治32年から、後者は中富良野市街地で同34年から、それぞれ上富良野・中富良野駅の開業と同時に営業を始めたということである。

 大正期に営業した運送店について、『上富良野町史』はこの両店の他に、小田島運送店(小田島市太郎)、山本運送店(山本一郎)、金井運送店(金井吉太郎)、西川、森川、是安、樋口、伊藤、近沢各運送店をあげている。また、山本運送店について、大正4年の創業で、同7年に一印上富良野運送社と改称し、同7年には右の諸運送店を吸収して1店に統一したと記している。同13年版の『上富良野村勢一班』が運送業として2店しかあげていないのは、この吸収の過程を示すものであろうか。

 大正期には上川管内の運送店で作る組合があったようで、当時の新聞記事にその会議の模様が記されている(『旭川新聞』大13・3・28)。それによれば、大正13年3月27日に「旭川運輸事務所管内公認運送取扱ひ人組合」の第5回定時総会が旭川商業会議所で開かれ、上富良野からは「小本」某が出席したという。このことは、大正期に入って上富良野の運輸業が旭川運輸事務所を通じて道内物流網の一環に組み込まれたことを示していよう。ちなみに、この総会では関東大震災による影響が話題となっている。なお、新聞記事中の「小本」某は恐らく「山本」の間違いであろう。

 

 馬による輸送の展開

 上富良野村には入植と同時に馬が入ったようで、明治32年に松原勝蔵(『上富良野志』には「松原勝三 東八線北百九番地 馬売買業」として見える)が農耕馬4頭を引き連れて、東中中島農場開墾の計画を立てて東8線北18号に住んだという証言がある(加藤清「上富良野開拓と馬の普及」『郷土をさぐる』第2号、昭57)。

 前述のように、大正7年には軍馬購買地に指定されるほど当時の馬の普及は目覚ましいものがあった。この馬を使った馬車・馬橇の利用も上富良野では比較的早くから始まったようである。『旧村史原稿』は馬車・馬橇の創始を明治35年頃「杉山氏」によると記している。これについては、馬橇の製造は同34年の夏に岐阜県出身の杉山九一によって始められ、「札幌型そり」といわれたものが長く使用されたという証言がある(長瀬勝雄「上富良野地方の馬車と馬橇」『郷土をさぐる』第5号、昭61)。

 明治44年頃の様子を示す『村勢調査基楚』には「荷積馬車九七台 荷車八台 荷橇三七二台」とある。それに対し、大正13年版『上富良野村勢一班』には荷馬車369台、荷車36台、馬橇885台とある。これは、大正期に入って馬の普及がみられ、道路網が整備されたことにともなって、馬車・馬橇の利用が急増したことを示していよう。また、この『村勢一班』によれば大正13年の時点で、「車馬橇」の製造工場は2カ所あり、従業者数は5名、生産台数2,805台であったことがわかる。

 馬車と馬橇では冬季積雪時の利用や道路事情もあって、右の数字にもわかるように馬橇の方が利用度が高かったようである。その用途としては、日常の荷物運搬の他に、こどもの通学路の確保に、また娘の嫁入り用にも使われたという(前掲「上富良野地方の馬車と馬橇」)。他にも、客土事業用に、また十勝岳で採掘した硫黄や鉄道・道路事業用の砂利、上富良野で多く産出した木材の運搬に、さらには温泉利用客の送迎用などにも使われた。十勝岳噴火後の復旧事業にも大いに活躍したという。

 

 自転車利用の始まり

 上富良野村に自転車が入ったのは、『旧村史原稿』によれば、明治45年に福屋貢が旭川から買い入れたのが最初で、その後大正4・5年頃に西川竹松が自転車販売業を始めてから徐々に普及し出したという。

 ただし、大正13年版『上富良野村勢一班』は自転車の数を87台と記しており、大正期にはまだ本村では十分に普及しなかったようである。参考までに、同12年当時の上川支庁における自転車保有数をあげると3,612台、うち旭川の保有数が2,908台であった(『上川開発史』昭36)。