第4章 大正時代の上富良野 第3節 大正期の商業と工業
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2、大正期の工業
澱粉工場
第一次世界大戦による「豆景気」は上富良野の経済を大いに潤すことになったが、前節「大正期の農業と林業」でも触れられているように、豌豆や菜豆だけではなく澱粉もまた価格が上昇し、輸出が急増した。戦争前、ヨーロッパで主要な澱粉供給国はオランダやドイツだったのだが、生産を中止したため、北海道からイギリスなどに大量の澱粉が輸出されることになったのである(『新北海通史』第5巻)。そのため馬鈴薯生産の60lは澱粉原料にあてられたといわれ、全道で澱粉工場が続々と設立された。上富良野でも大正6、7年を境に急増しているが、『上富良野町史』などをもとに大正期に設立をされた澱粉工場を設立年次ごと整理すると次のようになる。
大正元年 |
作佐部牧場澱粉工場(日新) |
位置が日新地区とあることから第一作佐郡牧場であろう。 |
美濃澱粉工場(東中) |
既に精米工場を操業していた美濃喜太郎が五十嵐農場で馬鈴薯を耕作し8年まで操業。 |
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4年 |
津郷澱粉工場(里仁) |
津郷農場主の津郷三郎が小作料を馬鈴薯の物納にして経営。動力は馬であったといわれる。 |
西谷澱粉工場(東中) |
西谷元右エ門が精米工場を兼ねて経営。 |
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5年 |
板東澱粉工場(旭野) |
板東幸七が水車を動力に経営。 |
6年 |
松井澱粉工場(江幌) |
設置場所以外の詳細は不明。 |
新井牧場澱粉工場(日新) |
新井牧場主の新井鬼司が経営。動力は水車。 |
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佐藤澱粉工場(旭野) |
商店などを経営していた佐藤卯之助の経営。動力は水車。 |
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7年 |
和田澱粉工場(日の出) |
和田松ヱ門元町長の父・和田柳松の経営。ヌッカクシフラヌイ川から水を引き動力とした。 |
岡田澱粉工場(江幌) |
明治期から操業していたカネキチ農場澱粉工場を引き継いで、岡田甚九郎が経営。 |
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梅沢澱粉工場(里仁) |
経営者が梅沢金太郎であったこと以外の詳細は不明。 |
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村上澱粉工場(旭野) |
場所は現在の自衛隊演習場内。経営者は村上忠吉であったとされる。 |
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8年 |
三好澱粉工場(江花) |
江花地区では最初の澱粉工場。経営者は三好勇吉。 |
佐々木澱粉工場(里仁) |
佐々木兵三郎が経営したこと以外の詳細は不明。 |
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福島澱粉工場(富原) |
福島農場主の福島新五平が経営。不在地主だったので中沢忠次郎が管理したという。 |
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吉村澱粉工場(富原) |
吉村啓四郎の経営以外の詳細は不明。 |
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9年 |
多田澱粉工場(旭野) |
多田牧場主である多田安太郎が経営。牧場敷地内で何度か移転したことが『上富良野町史』には記されている。 |
広瀬澱粉工場(東中) |
美濃澱粉工場を引き継ぎ広瀬七之亟が経営。 |
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13年 |
中沢澱粉工場(静修) |
経営は中沢新松。『上富良野町史』の澱粉工場に関する記述のなかでは昭和5年の創業になっているが、同じ『上富良野町史』に収められている戦後の会社、工場調べでは大正13年設立となっている。 |
14年 |
川端澱粉工場(東中) |
川端勇吉の経営で年産800から1000袋の生産があったという。 |
このほか、大正期の設立で正確な年次が分からないものに、沼崎澱粉工場(里仁、沼崎重平)、高橋澱粉工場(東中、高橋大三)、野崎澱粉工場(旭野、野崎孝資)などがあるが、これらのなかでやはり目につくのは農場主、牧場主といった地主たちが澱粉製造に乗り出していることである。もちろん地主層でなければ工場設立の資金は出せなかっただろうが、投資するだけの商品価値が澱粉にあったということも事実であろう。
戦争終結とともにオランダやドイツは澱粉生産を再開、大正10年頃を境に海外への輸出は激減する。だが、豆生産のように澱粉工場が壊滅することがなかったのは、モスリン生産の糊用、菓子原料など国内需要がさらに高まり、本州などに移出する道が残されていたためである。
精米工場
稲作の進展とともに大正期にはいると精米工場も増えていったと考えられるが、残されている記録はごく限られている。とくに市街地の精米工場は米穀商がその業務の関係上、兼営したものが多かったと思われるのだが、明治期に創設されていた幾久屋金子商店のような有力業者を除くとほとんど手掛かりが失われている場合が多い。
水車など動力の関係からか、澱粉工場との兼営が多いが、『上富良野町史』などをもとに大正期に設立されたと思われる精米工場を掲げると次の通りである。
大正2年 |
清水精米場(江幌) |
清水市之亟の設立。 |
菊地精米場(日新) |
菊地長右エ門が設立。近隣の農家が利用。 |
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3年 |
西谷精米場(東中) |
西谷元右エ門が澱粉工場とともに操業。 |
6年 |
及川精米場(日新) |
及川万次郎が菊地精米場を引き継ぎ操業。 |
8年 |
吉村精米場(富原) |
吉村啓四郎の経営だが、同じ年に澱粉工場を設立しており、兼営だったと思われる。 |
9年 |
三好精米場(江花) |
三好勇吉は前年に澱粉工場を始めており、これも兼営と考えられる。 |
和田精米場(富原) |
和田柳松の経営で七年から澱粉工場を操業していた。 |
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14年 |
玉島精米場(東中) |
玉島梅太郎が5馬力の発動機を動力とする精米機を導入して開業。 |
15年 |
大福精米場(市街地) |
大福伊寛が製縄工場との兼営で開業。 |
なお、『村勢要覧』(大正13年度版、14年度版)の工場統計によれば、12年の精米工場が7場(従業者2名)、13年が9場(同17名)となっている。
農機具製造
北海道の農業は開拓当初からプラウ、ハロー、カルチベーターなど西洋農機具の導入が奨励された。明治も初期、開拓史が官営鉄工所を作り産業としての育成を試みたこともあったが、事実上は失敗に終わっている。大型農機具は輸入品との競争があり、小型農機具はまだ需要が少なかったのである。技術的にも優れ農機具製造を専門とする大規模な工場が道内には結局育たないまま、大正期に入ってプラウ、ハローなどが急速に普及し始めると、その製造を担ったのは全道各地で鍬などを作り、あるいは農具修繕などに携わっていた鍛冶職人や手工業者たちであった。彼らはその土地に合った改良や工夫を行い、なかから有力業者も育っていったのである。
大正6年、上富良野市街地で鍛冶屋を始め、後に菅野農機を設立した菅野豊治もそうした一人であろう。『上富良野町史』によれば、刃の強度を高める「炭素焼」の技術は旅の人間に謝礼を払って習ったのだという。以来、研究を重ね、昭和5年に北海道農事試験場の優良農具として合格、全道に「白プラウ」として普及したとある。
このほか大正期に鉄工場を営んだ人たちとしては、『上富良野町史』や『東中地区開拓史』(岩崎与一、昭54)などによれば、まず市街地では大正6年創業の多湖伝蔵、10年の鹿野原司、また、東中では大正元年の林牧一などがいる。
馬車・馬橇・蹄鉄
プラウ、ハローといった西洋農機具の普及は上富良野で飼育される馬の頭数をさらに増やすことになったが、それとともに蹄鉄師の仕事の量はさらに増大したはずである。明治期は鍛冶蹄鉄兼業で行われていた業態も、次第に蹄鉄専門となりその数も増え始めている。大正期に蹄鉄所を開業した人たちを『上富良野町史』にみると、市街地では及川清吉・平治兄弟、竹谷岩松、三枝光三郎、佐々木敬止、東中では佐々木亀吉などがいた。
同様に馬車、馬橇も大正期に入ると需要はさらに増したと思われる。前章でも述べたように、杉山九一が明治期から馬車・馬橇の製造に着手していたが、大正期には弟子入りしていた坂弥勇が11年、長瀬要一が14年それぞれ独立して、市街地に店を構えている。
坂弥勇は昭和6年に廃業、農業に転業して戦後は町議会議員を務めているが、長瀬要一は長瀬軽車両製作所として戦後まで長くこの仕事に携わってきた。女婿である長瀬勝雄は「上富良野地方の馬車と馬橇」(『郷土をさぐる』5号)のなかで次のように記している。
本格的に北海道馬車と柴巻橇が出現し改良されていき、明治の末期には北海道開拓にはなくてはならないものになった。その頃で道内の馬車・馬橇が1万台を数える様になり、大正期には5万台を越え、昭和初期には10万台にも達した。富長野地方でも昭和10年頃には年間製作数200台を数え、この頃から集・運材及び農作物の大半の運搬輸送に供され、積雪寒冷地帯の唯一の運搬機具として馬と共に北海道の開拓に大きく貢献してきたのである。
木材工場
大正期の上富良野における産業のなかで林業や木材業の占める位置は、依然大きなものであったが、この間、いくつかの木材業者や工場の消長がある一方、後の有力工場がこの時期に開業、あるいは発展の基礎固めをしている。
まず大正3年、伊藤七郎右エ門が三重団体で水車を動力とする製材工場を開業している。『上富良野町史』によれば、三井物産が江幌で造材した後の残木を開拓民から買い入れ、それを製材して基礎を固め工場を拡張したとされる。やがて十勝岳噴火で被害を受けたため市街地に工場を移設。戦後になって再建されるが、戦時統制で幾寅に移転するまで村内の有力工場として操業を続けた。
『北海道市町村総覧』(北洋社、昭2)に「大正六年一月水力を利用して木工場を創設し、新式機材を装置して重に建築材の挽材を始め、その年産四千石を超過する」とあるように、6年には東中で西谷元右エ門が木工場を開業している。『上富良野町史』のなかには、西谷元右エ門が明治末期から大正にかけ橋野農場、新井牧場などの土地を入手、あるいは売買したことが記されており、造材も手広く行っていたと思われる。工場の創業はそのためだったとも考えられるが、『上富良野町史』では次のように記されている。
水車によって丸鋸を廻転させ開業したのであったが、其後需要が増大するにともなって工場を拡張した。大正十一年には動力をタービンにかえ、同三十年にはバンドソウを設備したが昭和三年火災に逢った。
木材需要の多い時なので復旧し、富良野山麓、ヌノッペ等の官林から払下げを受けた原木を製材した。元右エ門、その息子の西谷元雄と父子二代にわたる経営であったが、昭和十四年弟の五一にゆずり、年間六、七千石位の原木を消化した。
大正期に所有地の樹木はほぼ切り出し終わり、昭和期は国有林の払い下げに転じたということだと思われるが、戦時統制で昭和19年に工場を閉じるまで操業を続けたといわれる。
一方、明治36年に上富良野に移り住み、造材や木材販売を手がけていた山本一郎が製材工場を開業したのも大正期と思われる。『上富良野町史』には「父の事業をついだ山本逸太郎は昭和十二年に製材工場を設立して家業を拡張した」とあるが、成田アサ「生い立ちと上富良野への移住」(『かみふ物語』)には大正12年9月、上富良野に移り住んですぐ夫が山本木工場に勤めたと述べており、既にこの時点で木工場は操業していたことが推察される。
この時期の事業内容については分からないが、山本木工場は戦時統制のもとでも存続工場として上富良野で操業を続け、昭和42年に製材部を閉鎖するまで主力工場のひとつであった。
また、大正7年に分部倉三が発動機を導入して草分に木工場を設立したほか、大正期に設立されたものとしては、島津の細川木工場、富原の細川木工場(細川金蔵)などが記録に残されている。
『大正十四年度村勢要覧』によれば製材工場4、従業者数13名、生産額8万1,560円とある。
亜麻製線工場
亜麻も軍需品であったことから第一次世界大戦中、豆類や澱粉同様、製品の輸出が急増し、以降、全道で亜麻の作付けが広く行われるようになったことは既に述べたが、これに対応するかたちで製品の原料である麻繊維を製造する亜麻製線工場の設立が道内各地に相次いだ。
近隣では大正6年、下富良野に帝国製麻の製線工場が設立されていたが、9年には上富良野にも東洋製線株式会社、日本麻糸株式会社の2社が工場を設置することになった。ともに場所は島津農場内で、『島津家農場沿革』の7年の記録には次のような記載がある。
三月農場四百五十三番地ノ内畑地五町七反歩宅地予定地三町歩ヲ東洋製線株式会社へ二十ヶ年仮契約ニテ賃貸ス。
三月農場千五十三番地ノ内畑十三町二反六畝十五歩日本麻糸株式会社へ二十ヶ年仮契約ニテ賃貸ス。
十一月ニハ両会社共建物ハ全□ス
この記録では9年11月には工場が竣工していたことが分かるが、『上富良野町史』によると、工場の建築後、水質の問題で日本麻糸は操業に至らず、もう一方の東洋製線は13年8月に閉鎖されたとされる。詳細については分からないが、『大正十四年度村勢要覧』には製線工場1、従業者36名、生産額4万929円の記載があることから考えると、13年まで操業していたことは確かである。
また、10年5月の旭川憲兵分隊の照会に応じた役場文書(『大正十三年条例規則参文書』役場蔵)には、東洋製線の職工数は男32名、女24名とあり、次第に事業規模は縮小されていったようである。なお、12年に東洋製線は道内に所有していた2工場を函館船網船具に譲ったことが知られており(『新北海道史』第5巻)、12年の時点で工場名も函館船網船具上富良野工場に変更されていたと思われる。