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4章 大正時代の上富良野 第3節 大正期の商業と工業

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1、市街地と商業

 

 市街地

 大正期の上富良野市街地の様子を知る手掛かりはごく限られている。そのなかで数少ない手掛かりのひとつは統計資料である。大正13年、14年、昭和2年の各年度『村勢要覧』が道立図書館などに所蔵されているが、そこから当時の商工業家戸数をまとめたのが表4−11である。一方、この時期の総戸数、総人口と農業戸数、農業人口の比較を記すと4−12のようになる。例えば14年版『村勢要覧』によれば兼業も含むが1,164戸、7,059人である。同じ年の上富良野における総戸数1,998戸、総人口1万439人から農業戸数、農業人口の差を求めると、概数で約800戸、3,000人という数字になる。もちろんこれらの非農業戸数や人口が全て市街地の住人だったというわけではないだろうが、これに先に掲げた商工業家戸数の数字を重ね合わせると、大正期の上富良野における市街地の規模や様子がおぼろげながら浮かび上がるのである。

 ところで、大正期における上富良野の戸数や人口は、6年の中富良野分村以降、概ね戸数2,000戸、人口1万人前後で推移した。そのことから類推すると表に掲げた二百数十戸という商工業家数は、豆景気の好況で潤った時期など、多少の出入りはあったとしても、分村以降はほぼこの戸数で推移していたと思われる。しかし、非農業戸数は昭和初期でも500戸前後であり、この時期の約800戸というのは、明治期から昭和にかけて確認できる統計データのなかではひとつのピークといってもよい。なぜこれほどまでに非農業戸数が膨らんだのか理由は分からないが、農業の項に述べてあるように、この時期は小作農の急増と自作農の減少が目立ち始めた時期に重なっている。背景にはこうした動向との関係も考えられるのではないか。

 

 表4−11 商工業家戸数

 

大正12年

大正13年

大正15年

物品販売

82

109

93

製造業

36

43

41

運送業

2

2

1

質屋

1

1

2

請負

9

13

11

旅宿

5

4

4

料理店

7

8

9

理髪

5

5

5

湯屋

2

2

3

仲買

6

6

9

飲食店

12

14

12

その他

32

31

37

合計

199

238

227

   出典 『村勢要覧』

 

 表4−12 人口動態

 

大正10年

大正11年

大正12年

大正13年

大正15年

戸数

1,985

2,017

2,058

1,998

1,710

人口

11,259

11,346

10,689

10,492

10,064

5,776

5,321

5,116

4,913

5,118

4,984

農業戸数

1,254

1,209

1,198

1,164

1,137

農業人口

7,529

7,204

7,142

7,059

6,433

非農業戸数

731

808

860

834

573

非農業人口

3,730

4,142

3,547

3,433

3,631

   出典 『村勢要覧』

 

 写真 大正初期の市街大通

  ※ 掲載省略

 

 上富良野魚莱卸売市場

 上富良野に限らず市街地が発展してくると、開拓期のように雑貨店としてあらゆる商品を取りそろえるのではなく、次第に扱う商品も絞り込まれ、商店は専門店化していくのが全般的傾向である。先に掲げた上富良野の商工業家戸数では、物品販売業は約半数の100戸近い数にのぼっている。そのなかで魚屋など魚菜類を扱っていた店の数がどの程度であったか、正確には分からないが、村全体で人口1万人という規模から考えると、決して少ない数ではなかったと思われる。しかし、上富良野は内陸部に位置する関係からとくに鮮魚などの仕入れには問題や苦労があったと考えられ、大正期に入ると魚菜卸売市場が設立されている。

 「合名会社設立登記公告」(『旭川新聞』大10・10・6)によれば、設立は10年10月3日。『上富良野町史』は10年6月5日としているが、おそらく誤りであろう。会社名もこのときの登記では合名会社上印魚菜問屋。目的は「生魚、塩魚、干魚、野菜、果実、乾物類ノ委託卸売業」とあり、代表社員は伊藤喜一郎、資本金は1万円であった。社員(出資者)と出資額は次の通りである。

伊藤喜一郎(3,000円)

吉田吉之輔(3,000円)

梶原與十郎(500円)

二村謙次郎(500円)

末広六兵衛(500円)

寺山勝治(500円)

新井新之助(500円)

山口與三松(1,500円)

 『旧村史原稿』では会社名を株式会社上印上富良野魚菜卸売市場とし、設立を13年3月、資本金2万円としているが、この時点で組織変更と増資が行われた可能性もある。また、『上富良野町史』は初代社長が吉田吉之輔、支配人毛利勝太郎であったとしている。

 

 絲屋銀行上富良野派出所

 十勝岳が大爆発を起した15年5月24日、上富良野に派出所を設けていた絲屋銀行が休業した。翌昭和2年に金融恐慌が始まり各地で銀行が倒産、取り付け騒ぎが起きる先駆けとなったできごとでもあったが、十勝岳噴火の多くの被災者は絲屋銀行に預金をしており、上富良野には二重の大打撃を与えた事件でもあった。

 絲屋銀行は明治31年、兵庫県の農村で金貸し業の田中清助が設立した個人銀行だったが、急速に拡大する北海道内陸部の開拓と、旭川を中心とした商業活動に目を向け、34年には旭川支店(後に本店)を開設、営業の主力を北海道に移し、上川地方や道北を中心に発展した銀行だった(『新北海道史』第4巻)。とくに、第一次世界大戦が巻き起こした好況は、銀行の活動にはずみをつけ、上富良野派出所の設置もこの豆景気全盛の大正6年に行われている。

 だが、第一次世界大戦終了後の不況は、絲屋銀行の経営を直撃した。戦争中の不動産貸し付けや雑穀などへの投機的貸し付けがたちまち焦げ付いたのである。そのため店舗増設による預金獲得などで延命を図ったが、ついに休業へと追い込まれたのである。

 「絲銀問題の全道預金者大会三十箇町村代表集まる 昨日旭川に於て」(『北海タイムス』大15・6・8)など、預金者たちは全道で救済に向けた運動を始め、一方道庁も「当局に折衝の内務部長 絲銀、富良野の両問題を提げて」(同、大15・6・6)と、預金者救済へと動き始めた。この際、上富良野の十勝岳噴火被災問題とからめながら、報道されているところが興味深い。

 こうした結果、大蔵省、日本銀行、さらに休業前から絲銀への資金供給に主要な役割をもっていた北海道拓殖銀行(以降、拓銀)などの協議が行われ、結局日本銀行の融資によって拓銀が買収合併のかたちで引受けることになり、大正15年10月4日までの元利金100円に対し48円9銭を支払い、残額は切り捨てる形で問題は決着した。『上川開発史』によると絲屋銀行が休業した時点で、上富良野の人々の預金は約600口24万円、ほかに三重団体350口15万円があったといわれる。それがこの倒産で半分以下に目減りしてしまったのだから打撃は大きかった。なお、この買収で旧絲屋銀行の支店網は拓銀に組み入れられることになり、絲屋銀行上富良野派出所も大正15年12月23日には拓銀上富良野派出所に変更されている。