第4章 大正時代の上富良野 第2節 大正期の農業と林業
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6、大正期の林業
林業生産と林産物
大正期に入ってからも上富良野の林業は、3年に勃発した第一次世界大戦、さらには12年の関東大震災による需要増大などを背景に、生産を順調に伸ばしていった。『旧村史原稿』にはこの時期の上富良野における林業の展開を次のように記す。
明治四十五年には東中の松井木工場、大正三年には三重団体の伊藤木工場、大正五年には島津農場の細川木工場等相次いで設置を見るに至り。製材業も好況を呈し、林業一般に至りて活発なる展開を示せり。
表4−10は限られた資料のなかから上富良野における大正期の林業生産の推移を表にしたものである。大正初期における林業関係の統計資料がほとんどなく、また明治期に関するものは単位が統一されていない関係から、この表の生産額と直接、比較することはできないが、13年の関東大震災関連の特需と思われる産出額の急増など、大正期は上富良野における林業の歴史のなかで最盛期だったことは理解できるのである。
なお、この表の産出物のなかでその他に含まれる用材の内訳を列記すると、大正10年の場合、電柱材130石、下駄材820石、柾用材184石で、数値に含まれていないものとしては枕木500丁(『旧村史原稿』)、大正15年(昭和元年)の場合、下駄材750石、車橇用材100石、柾用材1,000石、樽桶用材500石(『自昭和二年統計報告控』)とある。
国有林と造材
ところで、明治期の上富良野では、当初は造材目的で貸し下げられた牧場地などから材木は切り出された。だが、これら多くの牧場などの樹木が失われた後、やがて造材の主役は官林、つまり国有林へと移っていった。
大正期に入っても資源が極めて豊富だった新井牧場など一部を除くと、造材の中心は国有林であったと考えられる。それは次のような古老の証言からも明らかである。
昔はこの村も材木の搬出が多く、高等科に通っていた頃は、駅構内には、三、四尺もある立派な木が桟橋に積んであり、次々と十勝岳や御料地から運び出されていた。ことに大正十二年の関東大震災の翌年からは、大量に造材されたようだ。∧七伊藤木材と一山本木工場だけでも五万石ずつ出したと聞く。(佐川亀蔵「開拓と造林」『郷土をさぐる』四号)
十勝岳の山林が国有林であることはいうまでもないが、ここでいう御料地は美瑛の留辺薬などのことであろう。『上富良野町史』には次のようにある。
鉄道と国道を界にして町を東西に二分して見るとき東にあった木材の産地は新井であったが、西は、江幌、静修だった。
この地方は東部より開発がおくれたので、おそくまで木材を出したが、ここも限界があったのである。美瑛町のルベシベは御料地なので最後まで原木があった。
なお、『自昭和二年統計報告控』によれば、大正15年(昭和元年)に産出された1万375石の角材のうち、トドマツ、エゾマツといった針葉樹5,220石の全てが公有林のもので、ナラ、シナ、セン、ヤチダモなど濶葉樹(広葉樹)5,155石については7割が公有林、3割が民有林の産出だったとある。
このように上富良野の林業に大きな意味をもっていた当時の官林だが、大正期についてはその詳細は分からないところが多い。
表4−10 大正期木材生産高
|
角材 |
丸太 |
その他 |
薪炭材 |
合計 |
|
大正10 |
材積(石) |
17,646 |
2,382 |
1,134 |
54,920 |
76,082 |
金額(円) |
− |
− |
− |
− |
119,435 |
|
大正11 |
材積(石) |
− |
− |
− |
− |
52,312 |
金額(円) |
− |
− |
− |
− |
134,990 |
|
大正12 |
材積(石) |
26,970 |
7,700 |
800 |
17,355 |
52,825 |
金額(円) |
75,395 |
14,950 |
1,200 |
37,692 |
129,237 |
|
大正13 |
材積(石) |
68,585 |
3,550 |
700 |
70,004 |
142,839 |
金額(円) |
271,005 |
8,900 |
2,100 |
32,448 |
314,453 |
|
大正15 |
材積(石) |
10,375 |
3,000 |
2,350 |
4,365 |
20,090 |
金額(円) |
29,162 |
2,870 |
11,120 |
12,270 |
55,422 |
『旧村史原稿』『大正13年村勢要覧』『大正14年村勢要覧』『自昭和2年統計報告控』より作成。一部資料の合計が数値合計と一致しないものがあったが、この表では数値の合計を表示した。大正15年の薪炭材は薪材のみ。
そのなかで、『旧村史原稿』によれば「大正八年一月より旭川営林区署管轄に属し上富良野村市街地に担当区員駐在所を置き」という記述がある。正確には旭川営林区署上富良野保護区員駐在所であろうが、『旭川営林局史』第1巻には「大正七年度事業拡張計画によって森林看守を森林主事と改め(大正六年十二月勅令第二二一号)、翌年七月勅令第二七八号をもって従来の駐在所を保護区員駐在所と改称のうえ、これを全道三〇〇カ所に増大」とあるから、このときに新設されたものであろう。業務内容は同じ旭川営林局史』第1巻に、当時はまだ「依然として良木選伐時代の域を脱せず」「立木の収穫処分としては、地元製材工場の特売と官行斫伐[しゃくばつ](注・伐木)が主であった」とあり、これら払い下げの管理が中心であったと考えられる。
なお、『旧村史原稿』では当時もしくは昭和初期の、上富良野に関連する国有林として次の3カ所を掲げている。
国有林名 |
面積 |
林相 |
フラヌイ国有林 |
3,013陌 |
針濶混淆林 |
ペペルイ国有林 |
1,938陌 |
針濶混淆林 |
江幌完別国有林 |
300陌 |
濶過針混淆林 |
造林と森林経営の始まり
開拓の始まり以来、上富良野では造材のため山林から材木を切り出し、開墾のために焼き払うなど、森林や樹木は失われる一方ともいえた。だが、「明治三十七年故河村善次郎氏が、東三線北二十五号付近に落葉松の苗圃を設け、苗木を仕立て、八段歩の落葉松林を造りたるは本村の先鞭をなす」(『旧村史原稿』)という動きも既にあり、大正期に入るとようやく造林への関心が広がり始めた。
そのなかで注目したいのは、大正3年に設立された上富良野信用販売購買組合が、購買事業のなかで設立の翌年から植樹用の苗木を取り扱っている点である。とくに、豆景気の時代に山岳・丘陵地帯へ急速に拡大した耕作地は、景気の失速とともに打ち捨てられ、荒廃地に帰したといわれている。これらの土地の山林への復旧が意図されたものであろう。
同組合の12年度『事業報告』には、購買事業における造林用苗木の販売と、植樹に関する呼びかけについて「本組合ノ宣伝大ニ其効ヲ奏シ傾斜セル荒蕪地等漸次落葉松ノ植付ケヲ見ルニ至り。組合ノ事業トシテ将来大ニ見ルベキモノニ至ルベシ」と報告されており、造林への関心の高まりを窺わせる。ちなみに、同組合の購買事業で販売された苗木の数量は、販売開始の大正4年が2,847本なのに対し、この12年は落葉松53万8,800本が取り扱われている。
また、その他この時期の森林経営の動きとしては、当時の村有林が大正11年に施業案を編成したことが、『上富良野町史』には記されている。「市町村林については大正8年以降、道庁林務課地方林業係が市町村の申請に応じて施業案の編成と指導にあたった」(『新北海道史』第5巻)とあるから、このときの方針や指導に基づくものであったと思われる。『新北海道史』第5巻には多くの町村で「伐採も相当量に達した」と記されているが、上富良野における収支は不明である。また、この時期の村有林に含まれるものとして、学校運営費用の一部に充てるため、村民などが各校に寄贈した学校林の存在も知られているが、大正期についての詳細は確認できない。