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4章 大正時代の上富良野 第2節 大正期の農業と林業

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5、大正期の農業団体

 

 産業組合設立の奨励

 産業組合はドイツの協同組合事業をモデルに明治33年3月、産業組合法が公布され、さらに同年6月、北海道には特例を認めた勅令「北海道ニ於テ農業者ノ設立スル産業組合ニ関スル件」が公布(翌34年6月施行)され、その設立が奨励されたが、まだ経済基盤の弱い北海道ではその動き鈍く、設立は一部に限られていた。38年の時点で道内で設立された数は、37年の中富良野信用販売購買組合をはじめ勅令組合、普通組合を合わせ35組合と記録されている(『新北海道史』第4巻)。

 その後、39年と42年の産業組合法改正により、他種事業の兼営や産業組合連合会及び中央会の設立が認められ、大正2年には北海道に特例を認めていた勅令も廃止されるなど、法制面での整備や系統化の方向がより進んでいったのだが、組合の重要性がますます強調されるひとつのきっかけになったのが、大正2年に北海道を襲った大凶作であった。道庁や上川支庁などの積極的奨励もあり、翌3年には上川地方だけで産業組合の数は28組合に達し(『上川開発史』)、上富良野でもこの年、無限責任上富良野信用販売購買組合が設立されたほか、5年には無限責任東中産業組合が設立されている。

 また、産業組合設立の動きとは別に、上富良野では大正期に入ると肥料の共同購入など農場単位、地域単位での互助組合の発足をみている。主なものとしてはまず大正7年設立の島津組合(理事長・海江田武信)がある。『組合の歩み』(上富良野町農協、昭45)によれば信用事業と購買事業が行われていたとあるが、購買事業については次のように記している。

 

  購買事業としては、生産資材として肥料、叺、筵などが主であり、生活資材としては味噌・醤油などとなっている。肥料は過燐酸などは札幌日の丸商店、後には函館の五稜郭工場と直接取引する(当時島津家ゆかりの方が工場にいた)。特別価格の取引なので格安であった。魚粕はにしんの留萌、いわしの苫小牧、硫安の室蘭など生産現地と取引、上富産組の組合員もこの安い肥料はほしかった。

 

 ほかには、新井農場に大正5年頃設立された新井保合会(理事長・及川寓次郎)、広瀬七之亟が東中で神谷清五郎などとともに組織し、大正3年から7年頃まで運営された倍本組合、発足年次は分からないが、里仁と静修の人々20数名によって組織された肥料共同購入組合(組合長・佐藤喜代之進)、などが『上富良野町史』『東中郷土誌』には記録されている。

 

 上富良野信用販売購買組合の設立

 既に触れたように、上富良野では最初の産業組合として大正3年に無限責任上富良野信用販売購買組合が設立されている。関連資料としては、『上富良野信用販売購買利用組合事業報告書』(大正3年度〜昭和12年度、上富良野農協蔵)と、これをもとに執筆されたと思われる『組合の歩み』があるが、この2つを参考に書き進めると、発足当初、組合事務所は吉田貞次郎宅に置かれた。組合員は31名。出資払込金は120円。同年2月10日には組合員全員が参集の上、創立総会が開催され、総会では次のような事業施行計画が議決されている。

 

 一、信用事業ニアリテハ組合員資金ノミノ運用ニ止ムルコト。

 二、購買事業ニアリテハ物資ノ融通ヲ□メ農業ニ必要ナル物資ノ購買ヲナスコト。

 三、販売事業ニアリテハ各自生産物中ノ一、二種類ヲ選択シ試売ヲナスコト。

 四、本事業年度最高借入金額ノ限度、金参千円。

 五、同上最高貸付金額ノ限度、一人ニ付金五拾円。

 

 ここでは信用、購買、販売それぞれの事業方針が示されているわけだが、発足にあたり北海道拓殖銀行から1口、280円(金利年5分3厘)の借り入れが行われている。これをもとに事業が進められたなか、まず信用事業では事業施行計画でも示されているように、その取り組みは極めて慎重なもので、初年度は「自己所有ノ資金ヲ貸付クルニ止メ事業モ微々タル状態ヲ以テ経過セリ」とある。貯金も行われていなかったようだ。また、販売事業は病害虫による不作と、相場の低落のため開始できなかったことが初年度『事業報告』には記されている。そのなかで唯一、具体的な成果をみせたのが購買事業である。

 

  本組合設立ノ動機中、物品購買上ノ不利救済ハ最モ切実ニ感シタル事項ニシテ、創立初年ニアリテモ主トシテ努力ヲ此ノ方面ニ集中シタル結果、事業ノ範囲広カラサリシモ概ネ良好ノ成績ヲ挙グルヲ以テ、次年度以降更ニ大ニ発展の素地ヲ形作ルヲ□タリ。

 

 また、購買事業の組合員の支払いについては、次のように記されている。

 

  売却ノ方法ハ現金売及掛売ヲ併用シ、何レモ市価ヲ標準トシ売価ヲ定メ、夏季収穫後第一着ニ償還セシムルノ方法ヲ取リタリ。

 

 この初年度の購買事業で取り扱ったのは、普通過燐酸などの肥料、筵・縄などの農用消耗品、大根種子であったが、売り上げは1,800円余り。売却益も61円ほどである。ここでもまた堅実さが目立つスタートだったといえるだろう。

 設立時の役員については、組合長理事が吉田貞次郎、理事は高士仁左衛門、増田嘉太郎、監事は高田治郎吉、田村岩蔵の人たちであったと考えられている。また、設立後、10月1日には産業組合中央会に加入している。

 

 組合事業の展開

 大正3年の設立時は31人の組合員で出発した上富良野信用販売購買組合だったが、表4−9の事業実績からも分かるように、8年には組合員数100人を突破、15年には360人と、設立以降、着実に産業組合事業の理解を広げていった。

 そのなかで最も順調に推移したのはやはり購買事業である。表4−9の購買売り上げ高からも分かるように、多少の変動はみられるが、組合員の増加とともに順調に売り上げを伸ばしている。

 これに伴い購買品目も初年度の肥料や農用消耗品、種子類から、4年度にはプラオなど農機具や造林用苗木などの取り扱いが加わり、さらに7年には味噌、メリヤスなどの食料・衣類の取り扱いが見られるなど、より多様なものになっている。

 また、販売事業については具体的な取り組みが始まったのは6年になってからである。この年の『事業報告』には次のように記されている。

 

  農産物中玄米ヲ試験的ニ組合ニ於テ特約店ヲ設ケ販売ヲ試ミタルモ、年末ニ際シ充分成果ヲ見ルヲ得スシテ終了セリ。

 

 この玄米の取り扱いは翌7年にも行われているが、利益は全く上がっていない。8年には取り扱いが中止され、続いて受け入れが始まったのが軍用燕麦である。明治期の農業でも述べられているように、軍用燕麦は農会主導のもと燕麦共同販売会が組織され、陸軍糧秣本廠を通して納入が行われてきた。組合長の吉田貞次郎はこの時期、農会長でもあった。燕麦の取り扱いには何らかの調整が行われたと考えられる。さらに11年の『事業報告書』には次のような記述がある。

 

  本年度ニ於テ燕麦一万貫ヲ陸軍糧秣本廠ニ、亜麻茎二万斤ヲ製麻会社ニ、大麦弐百石ヲ大日本麦酒会社に委託販売ヲナシタルモ、販売事業奨励ノ意味ニ於テ委託手数料ヲ全免シ、直接会社ヨリ本人ニ販売価額ノ全額ヲ交付セシメ、組合ノ帳簿記入ヲ省略シタルニ依リ本表ヲ作製セス。其取扱金高六千弐百八拾円ニ達セリ。

 

 翌12年にはこの燕麦、大麦、亜麻に甜菜が加えられ同様の処置がとられたと思われるが、事実上どれも成功を収めていない。

 結局、大正年間における販売事業は試行錯誤の時代であったといえるだろう。

 一方、大きな変動に見舞われたのが信用販売事業であったといえる。設立から間もなく上富良野には豆景気の時代が到来し、表4−9からも分かるように好況のなかで出資金の払い込みや貯金も順調に進んだ。だがやがて戦後不況による反動、さらには15年の十勝岳大爆発、絲屋銀行破綻という二重の打撃を受けるのである。とくに十勝岳災害では被災組合員が105名にも及び、これに対し組合は貯金の払い戻しという応急処置を取ったが、道庁へ低利資金の借り入れを要請、起債による上富良野村への転貸資金として3万9,850円(20年賦)が導入され、短期復興資金の導入とともにようやく苦境を脱したのである。

 なお、上富良野信用販売購買利用組合への名称変更は昭和2年だが、大正末期には既に倉庫事業及び利用事業がスタートしていた。まず、設立時からの懸案であった農業倉庫が14年12月に事業を開始している。この年の総会で「農業倉庫一棟六六坪、島津農場敷地ヲ借リ入レ建築スルノ件」(『事業報告』大14)として原案可決されていたものである。また、この年、セパレーターと大豆粕削機も設置されたが、「本年度ニ於テハ奨励上、料金ヲ徴収セズ」(同)とあり、まだ試用段階であったと思われる。

 

 表4−9 大正期上富良野信用購買販売組合事業実績(単位・円)

 

組合員

出資金

借入金

貸付金

貯金

購買売上高

販売売上高

余剰金

大正3

31人

120

 

 

0

1,819

0

20,105

大正4

56人

570

 

569

245

4,178

0

53,870

大正5

70人

1,515

1,000

3,016

1,185

5,732

0

316,440

大正6

81人

2,061

1,000

4,420

3,059

12,118

1,704

616,440

大正7

90人

4,063

962

5,991

5,647

21,551

2,642

983,110

大正8

111人

5,600

5,883

16,100

14,209

18,662

6,157

1,656,230

大正9

126人

6,405

5,528

17,457

14,770

33,762

5,787

1,638,950

大正10

128人

7,193

8,152

23,475

25,649

14,612

2,700

1,651,515

大正11

146人

8,467

7,523

28,382

32,303

20,932

2,280

2,588,729

大正12

156人

9,482

6,862

30,474

40,488

22,446

11,850

2,746,474

大正13

200人

11,269

6,161

32,254

60,009

34,004

11,820

2,783,612

大正14

325人

14,166

5,421

48,722

80,470

49,910

13,715

3,294,338

大正15

360人

15,380

15,919

45,193

57,278

60,971

19,730

3,718,850

   『組合の歩み』(上富良野農協)より転載

 

 東中信用購買販売組合の設立

 上富良野信用販売購買組合に続き、無限責任東中購買販売組合が設立されたのは大正5年である。同組合については『事業報告』等の資料を確認できなかったので、前出の『組合の歩み』と、同書が参考にしたと思われる『東中郷土誌』をもとに書き進めることとする。『東中郷土誌』には設立の経緯は次のように書かれている。

 

  東中にも愈々農民組織による農家の共通の利益を護る為に是非必要なる事が痛感され、当時の指導者西谷元右エ門氏並に松岡百之助氏、堀田常次氏、森田喜之八氏、尾崎政吉氏は同憂共患の士を糾合して大正5年12月10日東中産業組合として認可をへて発足をしたのである。

 

 ここから発足は5年12月10日であることが推察されるが、この文章に続けて創立当時の組合員総数は42名、出資口数100口、出資金は200円であったことが記されている。『組合の歩み』には、昭和12年東中産業組合が解散のとき建立した碑文の内容が引用され、そこには「大正四年末同志四十七名と総合無限責任東中産業組合を組織、翌十二月六日付認可」とあることから、設立までには1年以上の時間を費やしたことが考えられるのである。

 また、事業内容については「購買に重点を置き肥料ムシロ叺[かます]の共同購入」(『東中郷土誌』)が行われ、産業組合より「組合を信用組合と呼ぶ事が農民の間には通りが良かった」(同)という逸話が紹介されていることを考えると、信用事業もかなり広範に行われていたと思われる。なお、販売事業については「左程手を差し延べていなかった」(同)とある。

 設立当時の役員は、組合長が西谷元右エ門、理事に松岡百之助、堀田常次、監事に森田書之八、尾崎政吉という人たちの名前が記録されている。また、組合事務所は上富良野信用販売購買組合同様、組合長宅に置かれていたという。

 

 農会と農友会

 明治43年の農会法と農会令の改正以降、帝国農会を頂点とする系統化がほぼ完成し、大正期に入っても系統下部機関として農事指導や農政の補助伝達に大きな役割をになってきた町村農会であったが、大正11年には旧来の農会法と農会令が一本化、新しい農会法が公布され、さらに系統の陣容が整備されることになった。このなかで大きく変わったことのひとつに、農会費の強制徴収が認められたことがある。そのため財政の基礎も固まり、事業の拡大や専任技術員を置く町村農会が急増したといわれている(『新北海道史』第4巻)。だが、『上富良野町史』には、上富良野農会がこうした動きによりさらに早く専任技術員を置き、農事指導を行っていたことが記録されている。

 この時期、専任の技術員を置く町村農会は全体の1割にも達しなかった(『新北海道史』第4巻)というから、驚くべきことだが、最初の着任は「北大出身で荒井[ママ]牧場主の息子であった」(『上富良野町史』)新井純一とされ、大正5年までの勤務だったという。また、6年から7年にかけて小田島俊造、8年には沢西武雄、12年には平井正治と須藤進が着任、農会法が一本化され財政基盤が強化されたなかでは、上富良野農会は2名体制をとったということになる。

 一方、『上富良野町史』には「専任技術員をおくと同時に部落単位の農友会をつくって下部組織とし、指導普及事業の浸透をはかった」という記述がある。こうした地域単位の農事改良を目的とした農事小組合の設置は、農会活動の強化のため、明治期からその必要性が認識されてきたもので、大正6年に道庁は全道的にその設立を奨励する内務部長通牒を出している(『新北海道史』第4巻)。しかし、実際に設立が本格化するのは、昭和期に入って全道的に展開された農事実行組合の設立以降ということになる。専任技術員や農友会の組織化などこれらの動向から考えると、大正期における上富良野農会の活動は、極めて積極的で活発なものであったと思われるのである。

 

 北海道農産物検査所上富良野派出所の設置

 大正期になって農業生産が拡大し、国内外への移出や輸出が増加するにしたがい、次第に品質管理の問題が浮上してきた。雑穀についていえば、北海道から出荷された農産物の変質や腐敗が目立つため、買い入れ先の本州大手商人から強い要求があり、大正2年、小樽、函館など4地区の雑穀商同業組合が北海道雑穀商同業組合連合会を設立、道内で検査事業を行うことになったのである。これに対し米穀については大正6年、郡農会が産米検査を始めている(『新北海道史』第4巻)。

 畑作物を中心に生産を拡大しつつあった上富良野でも、同様の問題が明らかになっており、大正4年に北海道雑穀商同業組合連合会の雑穀検査上富良野出張所が新設されたのである。新設までの経緯を『旧村史原稿』は次のように記している。

 

  大正四年上富良野村雑穀商組合の請願に依り、雑穀検査所を新設せられたる当時、検査事業は北海道雑穀商同業組合連合会之れを掌り、主として雑穀の移輸出検査を施行し、検査品目は大豆、小豆、小麦、豌豆、壼V、菜豆等にして出張所主任として山田長吉氏任命され、大正五年より初めて産地検査を(今の生産検査類似)施行することとなり検査員一名増員を見たり。

 

 北海道雑穀商同業組合連合会による検査事業が行われていた時期は、ほぼ豆景気の時代に当たるのだが、やがて第一次世界大戦終結とともに好況も終わり、不況のなかで北海道の農産物が諸外国の農産物や、国内他地域との競争にうち勝つためには、より高い品質管理が求められるようになってきた。そのため大正8年3月、道庁は北海道農産物検査規則(庁令第31号)を公布して、これまで別個に行われてきた雑穀と米穀を統合するなど、18品目に及ぶ道営検査を開始、北海道農産物検査所上富良野村派出所が設置されたのである。

 ただし、検査制度の確立を目指したこの道営検査も、実施面において大きな問題を抱えていたようである。『旧村史原稿』には次のような記述もある。

 

  而して当時村内各部落に一名宛の嘱託検査員を配置し、検査上の便宜を図りたるも、当時の検査事業は頗る幼稚にして不備の点多く、検査不統一にして非難の声少からざりしを以て集合検査制度を採用し東中、三重団体に駐在所を置き、市街地派出所と連絡して、検査の統一を図り農産物の品位茲に声価の向上を見るに至れり。

 

 道営検査の内容はかなり厳しいものであったのだが、各地域に多数の嘱託検査員を置いたことが問題の原因だったのであろう。駐在所を東中と三重団体の2カ所に絞り、集合検査に切り替えることで検査内容も徹底してきたと考えられる。なお、『旧村史原稿』には同派出所の位置が後の渋江医院の場所から、大正10年、桐野歯科医院(現栄町2丁目)のところに移転したこと、また稲作の本格化とともにこの時期から、上富良野でも精米検査が始まったことが記されている。

 

 上川畜産組合上富良野支部

 明治33年に公布された産牛馬組合法によって、40年、上川地方においても上川産牛馬組合が設立されたことは、「明治期の農業と林業」でも触れられている。当時、上富良野からは新井牧場主の新井鬼司の加入が分かっているが、大正4年の畜産組合法施行以降、馬、牛の生産者に加え、牛、羊、豚などの飼育者、大正14年から馬の飼育者も加わった上川畜産組合に改編された。

 この組合自体が上川支庁内に置かれていたのだが、『旧村史原稿』によれば、同上富良野支部は大正8年に設立され、支部長には村長が就任したとあり、官庁主導の色彩が濃い組合だったことが分かる。

 大正期の詳しい事業内容についての資料は残されていないが、『上富良野町史』には「役場設立以来馬籍が設けられ、戸籍係、兵事係がよくこれを兼任してきたが、馬行政に関連をもち、去勢のような重要事項や衛生面も扱った」と記されている。