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4章 大正時代の上富良野 第2節 大正期の農業と林業

390-397p

2、稲作の本格化と土功組合

 

 水利をめぐる対立

 明治40年代に始まった上富良野の造田は、大正期に入るとさらに本格化していった。表4−4はこれまで掲げてきた表と同様、岩田賀平が作成、所蔵していた統計資料をもとに、明治40年から大正年間における水田耕作反別の推移を表したものだが、中富良野分村後の8年以降の水田面積は、飛躍的に急増している。しかし、水田に欠くことのできない水は限られたものであり、造田の広がりとともに大正期の上富良野では、富良野盆地全体の動きともからみながら、水利をめぐる新たな問題も起き始めていた。

 富良野盆地における初期の水田は、空知川の支流である富良野川、ヌッカクシフラヌイ川、ベベルイ川、これらの支流を含む3河川流域に発達していった。もちろん上富良野の造田もこの流域を中心に進められていったのだが、そこに持ち上がったのが、北海道拓殖十五年計画に盛り込まれていたにもかかわらず、着手されていなかった中富良野から下富良野にかけて広がる泥炭地の大排水事業を実現し、耕作地化しようという動きであった。これは大正2年頃から下富良野の兜谷徳平などが中心になって運動を始め、大正6年10月の富良野土功組合設立につながるのである。

 なお、『島津家農場沿革』には同じ6年の記録のなかに、「十二月二十日富良野水田用水組合会ヲ組織シ農場モ加入ス」という記述がある。これは前章で述べた富良野川用水組合からさらに団結を強め、この富良野土功組合に対抗するために設立された団体の可能性もあり、後の草分土功組合との関連でも注目してよいと思われる。また、『上富良野町史』や『富良野地区土地改良区史』では、この泥炭地改良をめぐる起債問題が、中富良野との分村を決定づけるひとつの要素であったことを強く示唆している。

 大正10年7月には富良野用水土功組合が設立されている。これは富良野土功組合の泥炭地改良の第2段階とでもいうべきもので、排水事業によって耕作可能になった土地を造田するためには、既存の富良野川、ヌッカクシフラヌイ川、ベベルイ川の水だけでは足りないので、空知川に水源を求めようという潅漑事業であった。この富良野用水土功組合も兜谷徳平などに加え中富良野の人々が中心になって設立が進められたが、問題はこれら改良事業によって整備される耕作地の上流域、とくに富良野川の支流など上流域に上富良野の用水組合の多くが、既に水利権を設定していたということである。つまり、一連の土功組合設立の動きに対し、上富良野側が既得権の侵害であると受け止めたとしても不思議ではなかったのである。

 一方、富良野用水土功組合が新たな水源を求めた設立であったことからも分かるように、下流域でも水不足が次第に問題になっていたと考えられる。とくに水利権者の多かった富良野川流域などは、開拓が進み水量自体が減りつつあった上に、上流域には無願造田などもあり、その年の気象条件によっては上流が水門を閉めてしまうために水が涸れることもあったといわれる。そのため中富良野など下流域の水利権者は上流域、つまり上富良野側に対する不満が蓄積していたと思われるのである。こうした双方の不満が爆発した一例が、『上富良野町史』などに記されている大正12年7月の「三十一号の石合戦」である。連日の好天で富良野川の水が涸れてしまったために、中富良野の農民たちが水門を破りながら上流に迫り、31号の水門で上富良野の農民たちと集団で激突したという事件であった。これは富良野川流域上・下流の水利をめぐる対立の根深さを示すと同時に、後の草分土功組合設立にも微妙な影を落とすことになるのである。

 

 表4−4水田耕作反別

 

耕作反別

反収

収穫高

明治38

125町

160升

2,000石

明治39

128町

170升

2,180石

明治40

128町

140升

1,790石

明治41

188町

100升

1,880石

明治42

240町

130升

3,120石

明治43

466町

120升

2,880石

明治44

500町

150升

7,500石

明治45

550町

100升

5,500石

大正2

735町

15升

1,100石

大正3

782町

120升

9,380石

大正4

806町

110升

8,870石

大正5

806町

140升

11,280石

大正6

280町

100升

2,800石

大正7

350町

110升

3,850石

大正8

750町

73升

5,480石

大正9

1,112町

120升

13,340石

大正10

1,399町

140升

19,590石

大正11

1,488町

132升

19,640石

大正12

1,672町

135升

22,570石

大正13

1,682町

143升

24,050石

大正14

1,775町

145升

25,740石

大正15

1,501町

60升

9,010石

   元農会技術員岩田賀平がまとめた統計表より作成。

 

 東中富良野土功組合の設立

 大正6年の富良野、10年の富良野用水と、富良野盆地には既に2つの土功組合が設立されていたわけだが、土功組合というのは明治35年制定の北海道土功組合法に基づく北海道独特の組織であった。その目的を『北海道土功組合史』(昭13)は「市町村又は市町村組合の事業と為すことを得ざる場合之を設立し、其の事業は農業上必要なる道路・橋梁・用水・排水又は堤塘を施設維持することに在る」と記しているが、なかでも最大の目的は水田開発であり、明治35年の空知郡角田土功組合などの設立以降、稲作の拡大とともに道内各地に広がり、大正15年までに全道で168組合、上川で45組合が発足することになる。

 上富良野における最初の土功組合は大正11年2月に設立・認可を受けた東中富良野土功組合(以下東中土功組合)である。この東中土功組合も全道における他の組合同様、水田開発が最大の目的であったことはいうまでもないが、設立以前の様子について『北海道土功組合史』は次のように記している。

 

  明治四十一年に至り水稲の確実なるを認め、偶々日露戦争の関係上企業熱勃興し、ベヽルイ川並に其の支流に数組の私設潅漑溝の許可を受け水田として開発するもの相次いで起こり、何れも良好なる成績を収むるに至りたり。組合設立以前に許可を受けたる私設潅漑溝にして、本組合の地区に編入せられたる団体は四団体にして其の戸数百二十戸に算す。

 

 このなかの4団体とは、設立時点では別の名義だった可能性もあると思われるが、『富良野地区土地改良区史』及び『東中郷土誌』によれば、安井慎一ほか26名(指令6853)、五十嵐ほか26名(指令7736)、松岡勘蔵ほか25名(指令1369)、安井新右衛門ほか36名(指令5752)の、いずれもベベルイ川から引水する4つの用水組合である。東中土功組合の設立はこれらの水利を統合し、さらには拡張することによる新たな水田開発だったのである。「事業計画書」(『富良野地区土地改良区史』)には「工事施行ノ箇所及目的」が次のように記されている。

 

  本工事ハ石狩国空知郡上富良野及中富良野村ノ一部東中富良野土功組合ノ区域一、二〇二町二反一畝九分ノ内ニ於テ、新規二五一〇町歩ノ水田造成ヲ目的トスルモノニシテ、水源ヲヌモッペ川ニ求メ、富良野町、中富良野、上富良野ノ三町村ニ渉リテ潅漑溝掘鑿工事ヲ施行セントスルモノナリ。

 

 組合設立の大正11年というのは、後に触れる豆景気も終わり告げ、再び稲作への関心が高まりをみせた時期である。「新規二五一〇町歩ノ水田造成」のなかには畑として耕作されていた面積もかなり含まれると思われるが、この新規造田の水源を「富良野町字ベベルイ原野七線地先ヌノッペ川に求め、自然流下に依り毎秒二七立方尺五を引水するの許可を受け」(『東中郷土誌』)潅漑溝を掘削するところに組合設立の最大の眼目があったといえるわけである。基本工事は11年5月1日に着手、12年4月20日に竣工している(『富良野地区土地改良区史』)。なお、13年には同じヌノッペ川に水利権をもっていた前田金右エ門ほか16名の用水を編入し、水利はさらに拡大することになる。

 役員は組合長には上富良野村長が就任、吉田貞次郎が金子浩と交代する昭和10年まで在任したほか、昭和期のものを含めると理事としては西谷元右エ門、安井慎一、議員としては十川茂八、早坂清五郎、坂本清太郎、岩田長作、谷口恒次郎、岩山雅太郎、渡辺栄太、金作長吉といった人たちが記録に残されている。

 

 草分土功組合の設立

 東中土功組合に続き大正14年4月には草分土功組合が設立されている。しかし草分土功組合の場合は、先に述べた富良野川の水利をめぐる対立もからみ、設立の動きから実際の認可までには様々な曲折が伝えられている。設立の経緯を『北海道土功組合史』は次のように記す。

 

  明治四十年に至り造田熟勃興し、私設潅漑溝の許可出願者続出して百数十町の造田を得、水利不足に伴ひ時として紛争なきに非ざりしも、明治四十一年富良野用水土功組合設立するや、本組合の区域に属する各権利者相謀り、富良野原野水田発祥の歴史を貽すと共に巳成[ママ]水田の水利統一を図り、無願造田四百町歩を統制し、以て公益を増進し、永久の安全と上富良野・中富良野両村の水量配分の円滑を目的として、大正十四年四月茲に本組合の設立を見るに至れり。

 

 『北海道土功組合史』の文章は各組合の台帳などの記録をもとに執筆されているのだが、『富良野地区土地改良区史』には「草分土功組合台帳」に記された設立の経緯が引用されている。そのほぼ同じ趣旨の文章のなかで「明治四十一年富良野用水土功組合設立するや、本組合の区域に属する各権利者相謀り」の部分は次のように記されている。なお、富良野用水土功組合の設立は大正10年であり、明治41年というのは前章で述べた「富良野川用水組合」との取り違えによる誤りと思われる。

 

  …明治四十一年ニ至リ、富良野用水土功組合ノ設立セラレントスルヤ、何等関係ヲ有セザル本組合区域ヲ強制加入セシメントノ議アリ。本組合ノ地区ニ属スル各権利者ハ茲ニ相謀リテ別ニ草分土功組合ヲ組織シ…

 

 ここで注目したいのは、富良野用水土功組合が「何等関係ヲ有セザル本組合区域ヲ強制加入セシメント」したことに対し、「各権利者ハ茲ニ相謀リテ別ニ草分土功組合ヲ組織」したというところである。やはり背景にあったのは、既に述べたように水利をめぐる厳しい対立があったためであろう。だからこそ「水利不足に伴ひ時として紛争なきに非ざりしも」「永久の安全と上富良野・中富良野両村の水量配分の円滑を目的として」草分土功組合は設立されることになったのである。

 

 認可までの曲折

 『富良野地区土地改良区史』によれば草分土功組合は12年2月10日に創立総会を開催し、組合事務取扱者に上富良野村長吉田貞次郎を選出、7月6日に認可申請書を提出したとある。しかも創立総会と相前後しての「三十一号の石合戦」も起きている。水利をめぐる争いが最も激化した時期に設立が申請されたことになるが、それから約2年、14年4月になってようやく認可される。

 この間の推移についての史料は残されていないが、冷却期間も必要であったということなのであろう。14年4月2日付け『旭川新聞』には次のような解決を伝える記事が掲載されている。

 

  上川管内上富良野に於ける草分土功組合は、潅漑反別一千四百十二町歩にして、之が水利権を富良野用水土功組合の余水に持つ事とし、用水組合と協議の結果、該水利権獲得に関し予て道庁へ認可申請中であったが、道庁にては草分土功組合と其見解を異にし、富良野用水組合の水量を草分組合に割譲することは、自然用水組合の潅漑水量を不足ならしむるものなりとて容易に指令を与えず。為めに用水、草分、西山三土功組合に於いて紛擾を醸し居たる所、今回上川支庁の調停となり、□□三組合の□□及菅野一課長が帯同して道庁当局と打合す所ありしが、道庁に於て大いに□解する所あり。為めに今二日午後一時より、上川支庁会議室に於いて富良野用水土功組合は議員の協議会を開き、引続き議員会を開き、議席上にて草分土功組合に対する潅漑水量割譲の承諾書を作製し、之を道庁に□附するに於ては、道庁は直ちに指令を交付し、□にて従来の紛擾が無事解決を見る訳であると。

 

 両組合の対立に対し上川支庁が調停に乗り出していたことがここから分かるが、和解の決め手となった承諾書の内容については『旭川新聞』(大14・4・8)が再び報道しているほか、『富良野地区土地改良区史』にも次のように記されている。

 

 一、草分土功組合ノ造田反別及潅漑施設ハ、大正十三年度作付反別ノ現状ヲ以テ限度トスルコト。

 二、本組合ガ大正十年十月二十四日許可ヲ受ケタル、フラヌイ川及ヌッカクシフラヌイ川ヨリ引水量ノ内十立方尺(一秒時)ノ水利権ハ之ヲ放棄シ、同時ニ之ヲ補フタメ空知川ヨリ新ニ十立方尺引用ノ受クルコト。

 

 なお『旭川新聞』では、この水利権の放棄に対する補償として、草分土功組合が富良野用水土功組合へ2万円を提供したことも併せて紹介している。

 役員は東中土功組合同様、組合長に上富良野村長が就任、吉田貞次郎が金子浩と交代する昭和10年まで在任したほか、理事には田中勝次郎、久野春吉、杉本一安、議員には伊藤市次郎、坂治三郎、松藤宇吉、古川吉之助、村上源蔵、荒周四郎、荻子信次、金山作次郎、塚本弥作などの名前が記録されている。

 

 十勝岳爆発の被害

 このような曲折を経てようやく認可された草分土功組合だが、既に水利権を得ている用水組合の整理統合と水利権出願中の造田、つまり無願造田を編入しての組合設立であり、潅漑溝の開削など基礎工事はほとんど行われていない。これが起債によって新たに水田開発を行う多くの土功組合と違うところであった。しかし、認可から1年も過ぎない15年5月24日、十勝岳大噴火のため区域内の水田や潅漑溝の多くは泥流によって埋め尽くされてしまうのである。『北海道土功史』は被害などを次のように記録している。

 

  大正十五年五月二十四日、十勝岳の爆発に遭遇し組合区域中、富良野沿線屈指の美田約半数は根底より破壊せられ経営十数年の苦心、一朝にして水泡に帰したり。其の被害状況は路線第一水路より第十一水路に至る間、全長三十六里に及び災害面積五百三十余町歩に捗れるを以て、直に北海道庁より夫々専門技術官の派遣を乞ひ鋭意復旧に務め、特に災害後の水量に意を注ぎ、被害区域中十二町歩を除く他は、自然流下の水量不足を生ぜし為、貯水池の計画を樹て工費約十三万七千円を投じて国庫補助に依り之を築設せり。

 

 組合設立当初の潅漑反別だった1,229町のうち530町余りが被害を受けたわけで、「被害区域中十二町歩」というのは復旧の見込みのない水田であった。また、潅漑溝の被害も大きく、復旧後の水量にも問題が出てきたため、組合として江幌貯水池の建設に取り組むこととなるのである。その意味では十勝岳噴火以降が草分土功組合の実質的な創設といっても間違いではないであろう。なお、噴火災害による復旧工事、及び江幌貯水池については本章第9節「十勝岳大爆発」に詳しい。

 

 直播器の普及

 土功組合による水田開発で大きく伸展をみせた大正期の稲作だが、稲は本来、南の作物である。上富良野でも三重団体における最初の稲作が「明治三十五年ハ本道一般凶作ニシテ不幸結実スルニ至ラス」と「草分土功組合資料」(『上富良野町史』)に記されたように、上富良野などに本州での稲作をそのまま持ち込んでも「結実スルニ至」ることは難しいことだったのである。そうしたなか、稲を気象条件の厳しい北の土地に根付かせ、造田の広がりに大きな役割をはたすことになったものに、直播器の使用と、寒冷地に適応した品種選別、改良の営みがあったことも見逃せない。

 直播器は明治28年、東旭川屯田兵村の末武安次郎がタコ足型籾播器を考案し試用したのが始まりといわれるが、この試作器を製作した旭川村の板金業・黒田梅太郎が明治38年に権利を譲り受け、専売特許を得てタコ足型の黒田式直播器として販売するようになってから全道に普及した。直播きは移植より種籾を多く必要とし、除草に労力が多く、ドロツトムシの被害を受けやすいなどの欠点はあったが、播種期の労力の節約、普通苗代栽培に劣らない、あるいはそれ以上の収穫を上げることから多くの稲作農民が取り入れることになったのである(『上川開発史』『北海道農業発達史』)。

 この直播器には黒田式以外にも通称「カチカチ」と呼ばれた寺門式、あるいは細川式廻転直播器などもあったが、上富良野では黒田式を中心に「大正時代になって普及した」(『上富良野町史』)といわれる。

 床鍋正則「水田作業の移り変り」(『郷土をさぐる』第5号)にはその様子が次のように記されている。

 

  直播器は、「たこ足」と称して、トタン製の浅い籾箱の底から八本のパイプ二列が、たこの足状に伸びているものである。種下ろしは籾箱に取り付けられた均し板と、セキ板をカタン、カタンと一回操作する毎に、七寸五分角に十六株分が点播されていく。

 

 この作業は大抵女の人が受け持ったが、1人1日5反歩から田んぼが大きいと8反歩も播くことが出来た。

 『上川開発史』によると、昭和7年の時点で上川では直播きが98.6lを占めていたとある。上富良野でも普及が進んだ大正後期にはこれに近い数字で定着していたと考えられるが、やがて昭和6、7、9、10と続いた冷害の対策として奨励され、普及した温冷床苗代に代わるまで、直播器は稲作の主流にあったのである。

 

 写真 当時の直播器

  ※ 掲載省略

 

 耐冷品種の導入

 一方、当初は東北や北陸地方から移入した晩熟種で失敗をくりかえしていた北海道の稲作も、明治6年に札幌郡広島村字島松で中山久蔵が「津軽早稲」から早熟耐冷性の「赤毛」選出、成果を上げたことから、大きな可能性が見え始めた。『上川の米作』によれば上富良野の稲作の始まりとされる田中常次郎、山口五平の試作も「神楽村西御料地より赤毛種を移入」したものであり、やがてこの「赤毛」から更に「坊主」「黒毛」「魁」など優良品種が選出され、造田の拡大とともに北海道の米作りも本格化していったのである。これら主要品種の全道での作付け比率は、大正3年で「赤毛」33.1l、「坊主」29.1l、「黒毛」19.4lなどであった(『新北海道史』第5巻)。

 ところで、『上富良野町史』には稲作の草創期に富良野地方で多く作られた品種が「赤毛」と「黒毛」であったことを述べた文章に続き、次のような記述がある。

 

  農民、ことに米作農民が農事試験場上川支場に注目し始めたのは大正十五年頃で、系統分離育種法によって生まれた防主[ママ]二号や防主[ママ]五号がよい成績をおさめてからである。チンコ防主[ママ]一号や同二号がよろこばれ、全面積これを耕作する者も出たが、食味もよいという防主[ママ]六号は普及しなかった。

 

 『上富良野町史』の記述はとくに年代を限定したものではないが、ここで述べられているのはほぼ大正期から昭和初期のことと考えられる。「坊主二号」「同五号」「同六号」「チンコ坊主一号」「同二号」は、いずれも大正になってから分離育種法によって育成、優良品種に指定されたもので、明治から大正初期の「赤毛」に代わり、昭和初期まで主力品種となったものだからである。とくに「坊主二号」は北海道農事試験場上川支場が大正5年に「坊主」から分離育種を始め、大正8年優良品種に決定、耐冷性が多少強いことから、「坊主五号」が空知地方以南で普及したのに対し、上川地方で多く栽培されたといわれる。また、「チンコ坊主一号」「同二号」も同支場によって大正13年優良品種に決定されている。ただ、「坊主六号」は「同二号」よりも「さらに五日ほど早熟であったうえに、当時としては品質や食味もよかったので、とくに旭川附近の銘柄品種」(『上川開発史』)であったとされるが、なぜ上富良野で普及しなかったのかは不明である。