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4章 大正時代の上富良野 第2節 大正期の農業と林業

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1、農業の伸展と苦境

 

 大正2年の大凶作

 明治後期に至って畑作を中心にようやく基礎固めを終えた上富良野の農業だったが、大正期に入って間もなく農民たちには大きな苦難が待ちかまえていた。それは大正2年の大凶作である。この年は6月中旬から7月上旬、8月中旬から9月中旬と連日にわたって低温が続き、さらに暴風雨もあり、しかも初霜は各地とも平年より1週間から2週間ほど早かったといわれる。そのため農作物に与えた影響は大きく、大豆や小豆、稲作などをはじめとして多くの作物に被害は広がり、北海道では開拓が始まって以来の大凶作になったのである。

『上川開発史』によると、「上川地方においても平年作に比して水稲は8厘7毛作、大豆2分5厘作、小豆1分1厘作という減収を示し、その被害見積高は約550万円(前年の農産総額は1,220万円余である)に達し」たとあるが、上富良野においても収穫の減少と被害は明らかであった。表4−2、3は農会技術員だった岩田賀平が、在職中に役場資料などをもとに作成し所蔵していた統計資料から、主な作物の大正年間におけるものを作付面積と反収、収穫高をまとめたものだが、大正2年の反収は一部の例外を除きことごとく大幅な減少をみせている。

例えば、小麦は明治45年(大正元年)の反収が150升に対し大正2年が10升だから、前年比わずか6.6lの収量しかなかったことになる。同様に小豆は前年に比べ22.2l、大豆が前年比40l、蕎麦が57.1l、玉蜀黍が50lなどと大幅な減収となっているほか、水稲も明治45年(大正元年)の反収が100升に対し大正2年が20升とわずか5分の1に減少している。なお、10月8日付けの『小樽新聞』では小麦同様、燕麦も収穫皆無と報道しているが、岩田賀平の統計資料ではほぼ平年作である。

当然、全体の収量が落ちたといっても、地域によって作況の違いはあるわけだが、被害のひとつの目安となるのは3年1月30日付けの『小樽新聞』の報道である。ここでは上川支庁調査による上富良野の窮民状態が伝えられているが、それによると農家総戸数2300戸のうち、収穫5分作以下となる農家が1573戸、収穫皆無が462戸とある。凶作によるダメージは相当なものだったと考えてよいだろう。

こうした被害に対し、道庁は罹災救助基金法による対策を講じ、国費及び地方費による土木工事をはじめとする救済事業を起こしていくわけだが、上富良野に関する救済対策については、本章第7節「大正期の社会」に詳しい。

 

 表4−2 主要作物の反別及び収穫高

 (小麦)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

1,620町

150升

24,300石

10.70円

大正2

1,243町

10升

1,240石

11.15円

大正3

1,615町

30升

4,850石

10.00円

大正4

1,750町

40升

7,000石

11.00円

大正5

550町

80升

4,400石

12.50円

大正6

250町

85升

2,130石

16.50円

大正7

145町

110升

1,600石

26.00円

大正8

230町

100升

2,300石

20.00円

大正9

332町

100升

3,320石

18.00円

大正10

367町

100升

3,670石

13.00円

大正11

444町

89升

3,950石

13.75円

大正12

320町

83升

2,660石

14.50円

大正13

181町

80升

1,450石

15.20円

大正14

198町

80升

1,580石

18.00円

大正15

207町

80升

1,660石

18.00円

 (裸麦)

 

耕作別

反収

収穫高

単価

明治45

630町

120升

7,560石

13.00円

大正2

788町

100升

7,880石

12.45円

大正3

1,024町

100升

10,240石

7.50円

大正4

1,180町

40升

4,720石

4.50円

大正5

900町

90升

8,100石

8.40円

大正6

360町

82升

2,950石

15.50円

大正7

294町

100升

2,940石

23.00円

大正8

650町

90升

5,850石

23.00円

大正9

528町

80升

4,220石

20.00円

大正10

485町

80升

3,880石

12.50円

大正11

457町

83升

3,790石

13.00円

大正12

329町

80升

2,630石

14.80円

大正13

349町

50升

1,750石

14.20円

大正14

308町

60升

1,850石

15.00円

大正15

248町

80升

1,980石

15.50円

 (小豆)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

177町

90升

1,590石

10.70円

大正2

287町

20升

570石

15.00円

大正3

301町

120升

3,610石

11.30円

大正4

326町

120升

3,910石

9.00円

大正5

285町

110升

3,140石

10.80円

大正6

150町

95升

1,430石

15.00円

大正7

81町

100升

810石

16.00円

大正8

130町

65升

850石

26.50円

大正9

386町

56升

2,160石

10.00円

大正10

434町

82升

3,560石

14.00円

大正11

352町

90升

3,170石

14.70円

大正12

309町

80升

2,470石

15.20円

大正13

192町

85升

1,630石

25.00円

大正14

555町

85升

4,720石

18.00円

大正15

355町

70升

2,490石

21.00円

 (大豆)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

120町

60升

720石

6.80円

大正2

50町

24升

120石

9.00円

大正3

82町

90升

740石

7.75円

大正4

75町

100升

750石

7.50円

大正5

72町

90升

650石

8.50円

大正6

35町

80升

280石

20.00円

大正7

85町

30升

260石

21,00円

大正8

90町

64升

580石

17.50円

大正9

229町

52升

1,190石

8.75円

大正10

344町

100升

3,440石

12.25円

大正11

370町

80升

2,960石

14.30円

大正12

290町

70升

2,030石

12.50円

大正13

257町

70升

1,800石

18.50円

大正14

187町

70升

1,310石

16.00円

大正15

159町

50升

800石

15.00円

 (莱豆類)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

294町

100升

2,940石

9.00円

大正2

407町

95升

3,870石

11.00円

大正3

950町

110升

10,450石

8.00円

大正4

1,241町

71升

8,810石

12.30円

大正5

3,587町

100升

35,870石

29.00円

大正6

2,760町

63升

17,390石

32.00円

大正7

3,027町

114升

34,510石

22.20円

大正8

2,100町

62升

13,020石

13.25円

大正9

623町

37升

2,310石

11.25円

大正10

407町

110升

4,480石

14.50円

大正11

629町

75升

4,720石

18.78円

大正12

437町

75升

3,280石

11.35円

大正13

350町

75升

2,630石

22.25円

大正14

515町

75升

3,860石

20.00円

大正15

451町

70升

3,160石

18.50円

 (豌豆)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

544町

140升

7,620石

10.20円

大正2

1,169町

100升

11,690石

9.00円

大正3

2,020町

120升

24,240石

8.15円

大正4

1,770町

110升

19,470石

14.40円

大正5

1,220町

120升

14,640石

30.00円

大正6

213町

80升

1,700石

25.00円

大正7

202町

60升

1,210石

27.00円

大正8

215町

64升

1,380石

17.50円

大正9

179町

41升

730石

8.75円

大正10

48町

80升

380石

23.50円

大正11

205町

69升

1,410石

16.25円

大正12

194町

74升

1,440石

21.70円

大正13

135町

60升

810石

24.50円

大正14

178町

70升

1,250石

25.60円

大正15

270町

77升

2,080石

19.25円

   元農会技術員岩田賀平がまとめた統計表より作成。

 

 表4−3 主要作物の反別及び収穫高

 (蕎麦)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

200町

140升

2,800石

6.00円

大正2

150町

80升

1,200石

7.00円

大正3

540町

120升

6,480石

5.70円

大正4

225町

110升

2,480石

6.00円

大正5

200町

120升

2,400石

3.00円

大正6

85町

150升

1,280石

12.00円

大正7

85町

140升

1,190石

28.00円

大正8

195町

210升

4,100石

16.00円

大正9

158町

90升

1,420石

5.00円

大正10

165町

120升

1,980石

7.60円

大正11

206町

100升

2,060石

11.35円

大正12

105町

95升

1,000石

9.10円

大正13

192町

80升

1,540石

11.00円

大正14

161町

80升

1,290石

12.00円

大正15

150町

75升

1,130石

12.00円

 (玉蜀黍)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

450町

120升

5,400石

5.00円

大正2

220町

60升

1,320石

6.00円

大正3

440町

180升

7,920石

4.70円

大正4

353町

150升

5.300石

4.00再

大正5

315町

100升

3,150石

7.00円

大正6

138町

160升

2,210石

20.00円

大正7

186町

150升

2,790石

22.00円

大正8

147町

210升

3,090石

16.00円

大正9

144町

180升

2,590石

7.13円

大正10

140町

150升

2,100石

7.75円

大正11

126町

130升

1,640石

7.55円

大正12

121町

120升

1,450石

7.50円

大正13

182町

120升

2,180石

9.00円

大正14

89町

100升

890石

10.00円

大正15

81町

90升

730石

10.00円

 (燕麦)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

162町

200升

3,240石

3.25円

大正2

200町

200升

4,000石

3.35円

大正3

250町

220升

5,500石

2.50円

大正4

280町

180升

5,040石

2.70円

大正5

310町

120升

3,720石

3.50円

大正6

340町

160升

5,440石

6.50円

大正7

771町

150升

11,570石

7.00円

大正8

950町

150升

14,250石

10.00円

大正9

869町

150升

13,040石

4.00円

大正10

997町

150升

14,960石

4.50円

大正11

922町

145升

13,370石

5.00円

大正12

845町

180升

15,210石

6.40円

大正13

1,042町

130升

13,550石

6.60円

大正14

948町

130升

12,320石

7.40円

大正15

872町

150升

13,080石

6.50円

 (馬鈴薯)

 

耕作反別

反収

収穫高

単価

明治45

340町

320〆

1,088,000〆

0.45円

大正2

340町

368〆

1,251,200〆

0.45円

大正3

430町

360〆

1,548,000〆

0.30円

大正4

510町

420〆

2,142,000〆

0.45円

大正5

560町

400〆

2,240,000〆

0.57円

大正6

217町

300〆

651,000〆

1.20円

大正7

304町

360〆

1,094,400〆

2.70円

大正8

445町

300〆

1,335,000〆

1.20円

大正9

292町

144〆

420,480〆

0.38円

大正10

135町

240〆

324,000〆

0.53円

大正11

154町

170〆

261,800〆

0.53円

大正12

107町

288〆

308,160〆

0.83円

大正13

140町

250〆

350,000〆

1.20円

大正14

126町

250〆

315,000〆

1.20円

大正15

96町

240〆

230,400〆

1.20円

 (菜種)

 

耕作反別

反収

収穫高

明治45

294町

75升

2,210石

大正2

447町

11升

490石

大正3

480町

80升

3,840石

大正4

410町

90升

3,690石

大正5

314町

80升

2,510石

大正6

188町

80升

1,500石

大正7

212町

50升

1,060石

大正8

195町

45升

880石

大正9

319町

53升

1,690石

大正10

192町

70升

1,340石

大正11

222町

52升

1,150石

大正12

171町

大正13

119町

大正14

82町

大正15

63町

50升

320石

 (亜麻)

 

耕作反別

反収

収穫高

大正6

6町

350听

21,000听

大正7

30町

320听

96,000听

大正8

21町

430听

90,300听

大正9

64町

360听

230,400听

大正10

154町

280听

431,200听

大正11

71町

362听

257,000听

大正12

118町

342听

403,600听

大正13

70町

327听

228,9bo听

大正14

75町

303听

227,300听

大正15

54町

407听

219,800听

   元農会技術員岩田賀平がまとめた統計表より作成。

 

 畑作と豆景気

 大正期に入って間もなく、このような苦境にあえいだ上富良野の農民だったが、歴史は思わぬ展開を見せた。翌3年にヨーロッパのバルカン半島から勃発した第一次世界大戦は、一般には「豆景気」と呼ばれる好況を生じさせたのである。その展開と北海道の農民に与えた影響について『新北海道史』(第4巻)は次のように記している。

 

  3年8月の開戦当初はヨーロッパはもちろん東アジアの海上輸送も不安になり、事態の進展にたいする見通しもたたなかったから、輸出は停滞し物価は低落し一時は恐慌状態を呈したが、やがて戦局の推移が見通されるようになると、4年から回復に転じ、5年にかけて好況がおとずれてきた。農産物を中心とする海外輸出は急激に増進し、生産物価格は高騰し、3年以降農産物が豊作だったこともあって農村は異常な好景気につつまれたのである。

 

 このとき価格も高騰し、生産も急増した農産物の主なものは豆類、亜麻、澱粉の原料である馬鈴薯ということになるが、上富良野の農民たちに最も大きな利益をもたらしたのは菜豆や豌豆などの豆類であった。

 これは「従来豆類の輸出国であったオーストリア、ドイツはアメリカ、イギリスをはじめとする輸入国と交戦状態に入り、そのため西欧諸国間の豆類の輸出入が中絶或いは激減した。さらにまたアメリカ、イギリスでは、軍隊の食糧としての豆類の需要が急増」(『北海道農業発達史』)、連合国側の一員であった日本からの輸出が激増したためであり、菜豆類では「鶉」「金時」「大福」など、そして豌豆が海外へと送り出されていったのである。先に掲げた表4−2を見ても、菜豆類の価格の高騰と作付けの拡大には目をみはるものがある。

 しかも、戦争による好況は経済のあらゆる側面に波及したこともあり、農産物全体の国内需要も拡大した。これは表4−2からをはじめとする各表の単価からもその一端が窺える。輸出の拡大で価格が急騰した菜豆などはもとより、それ以外についても、大正5年前後から数年間、そのほとんどの作物が価格を上昇させているのである。このように豆景気は畑作農民たちはもちろんのこと、一時的とはいえ上富良野全体の経済も大いにうるおすことになったのである。

 

 耕作地拡大と地力の低下

 豆景気は農民たちの生活にうるおいを与えただけでなく、もうひとつ耕作地の拡大も伸展させた。上富良野では一時、停滞していた開墾が再び急激に進み、牧場貸し下げ地など山岳寄りの高丘地などが、次々と耕作地化されていったのである。『旧村史原稿』によれば、豆景気の真っ直中にあった大正6年の耕作地面積は、田が267.1町歩、畑が6,825.9町歩、合計7,093町歩とある。中富良野との分村があるため、拡大前の面積と直接、比較することはできないが、好況も終わりを告げた時期の統計資料を参照することで、当時の拡大の様子を知ることができる。

 『大正十三年村勢要覧』によれば、大正10年の耕作地は田が1,399.8町歩、畑が4,739町歩、不作付け地が1,113.4町歩、合計7,252.2町歩とある。6年以降、耕作地全体としてはほとんど増加していないのである。しかも、畑面積については6年が6,825.9町歩なのに対し10年は4,739町歩と、大幅な減少すら見せている。なかには田へと転換されたものもあったと思われるが、豆景気のなかでいかに畑の拡大が大きなものであったかが、ここから分かる。

 また、さらに注目したいのは10年の耕作地のなかの1,000町歩以上が不作付け地になっていることである。豆景気は大正7年の戦争終結とともに終わりを告げる。だが、農民たちには再び天国と地獄とでもいうべき状況が待ちかまえていたのである。戦争終結とともに、例えば菜豆類は、最大の輸出先だったアメリカが輸入禁止的関税を課し輸出が激減、価格も暴落するなど、畑作農民たちは戦後不況とでもいうべき状況に追い込まれていったのである。つまりこの時期、1,000町歩以上の不作付け地が存在したということは、こうした畑作物の暴落のなか、豆景気時代における耕作地拡大が高丘地や痩地などが中心だったため、好況の終わりとともに再び打ち棄てられてしまったと考えられるのである。

 しかも、ここで新たな問題が明らかになってきた。『旧村史原稿』には次のような記述がある。

 

  (大正)末期に至りては従来の金肥のみの使用による地力減耗に鑑み、自給肥料の増産施用運動盛んとなり、農家も漸くこの方面の関心を払うに至れり。

  

  先に掲げた表4−2から3の各表における反収の推移でも分かるが、大正10年前後を境にほとんどの作物の反収が減少を示している。これはそれまでの農業生産拡大のなかで地力の低下が進んだためである。明治期の開墾以来、北海道の畑作農業は無肥料、連作の地力掠奪的耕作が中心だったといわれる。『旧村史原稿』も述べているように、やがて過燐酸石灰などの化学肥料も使用されるようになったが、その多用はむしろ地力を奪い、また、土地投機が目的で地力回復に関心が薄い地主層の存在や、小作人たちの定着率の低さも、地力低下をさらに助長したと考えられる。この結果、病害虫発生の多発などとともに収量は低下し、農民たちは厳しい対応に迫られることとなったのである。

 

 新たな作物への取り組み

 こうしたなか農会などの指導もあり、農民たちは少しでも多くの収入を得ようと、大正期に入ってからいくつかの新しい畑作物への取り組みを始めている。主なものとしては亜麻、甜菜、ホップなどである。

 まず、亜麻は製品が帆布など軍需品であることから、豆類同様、第一次世界大戦中に価格の暴騰もあり、北海道では作付けが飛躍的に増加している。大正6年、下富良野に帝国製麻の製線工場が設立されたこととの関連と思われるが、『島津家農場沿革』の同年の記録には「本年度より小作人等帝国製麻会社と契約、亜麻を耕作す」とあり、上富良野でもこの時期に多少の増加は見られる。

 だが、表4−3からも分かるように、むしろ本格化したのは日本麻糸会社などの製線工場設立が決まった大正9年以降のことである。

 亜麻は豆類などと違い、戦後も西欧諸国からの引き合いは途絶えることがなく、さらに増産が続いていたのである。こうした需要の増大を背景に、9年には全道で5万町歩、総畑面積の10l近くが亜麻の作付けだったといわれ(『北海道農業発達史』)、上富良野でも耕作が次第に本格化していったのである。『上富良野町史』では亜麻について次のように記している。

 

  農家としては最初よろこんでつくらぬ作物だったから会社によって耕作組合がつくられ、静修方面で盛んになったが反収四百ポンド弱、昭和十一年頃四百町歩までなった。

 

 甜菜も上富良野では大正期に取り組みが始まった作物である。岩田賀平の統計資料には大正10年20町歩、11年32町歩、12年41町歩、13年66町歩、14年160町歩、15年190町歩と作付け面積のみ記載があるが、耕作に至る直接のきっかけは、9年に日本甜菜製糖(旧日甜、12年に明治製糖との合併により消滅)が十勝の人舞村清水村(現清水町)に製糖工場を設立した(『北海道農業発達史』)ことが始まりである。そして、11年4月には原料調達のため同工場上富良野派出所が開設、甜菜耕作組合が設けられ(『上富良野町史』)契約栽培による耕作が本格化していったのである。

 一方、甜菜の導入にはもうひとつの側面があった。この時期、地力の低下が深刻になっていたことは既に述べたが、酪農が地力維持の手段として考えられ、甜菜トップ・甜菜パルプが乳牛の飼料となることから、酪農と甜菜の組み合わせによる新しい寒冷地農業が奨励されるようになったのである。さらに甜菜は深耕が必要であることから地力の維持に役立ち、麦や豆類などとの長期輪作を確立することで、地力低下の弊害を打破することも期待された。そのため道庁は補助金制度を設けるなど、大正末期から昭和初期にかけて保護奨励策を打ち出したのだが、実際には期待通りの成果は上がらなかったようである。

 上富良野を代表する特用作物であるホップも、12年の試作を経て、その取り組みが始まっている。前サッポロビール株式会社植物工学研究所ホップ研究部所長の谷越時夫は「ホップの由来と栽培歴史」(『郷土をさぐる』6号)のなかで、上富良野にホップ園が設立される経緯を次のように記す。

 

  大正十二年におこなった上富良野村、夕張町、遠別村などの試作の結果、気候、風土、土質、成育状況、さらに収量、品質などを総合して上富良野村が最も優れている事が判明、大正十四年当時の大日本麦酒株式会社の重役が視察した際、地形がドイツの産地『ハラタウ』地方に似ていることから最適地と決定(後略)。

 

 また、元上富良野ホップ作業所長である畠山司は「サッポロビールと上富良野」(『郷土をさぐる』第14号)のなかで次のように記している。

 

  上富良野では大正十二年野崎孝資氏(旭野)、一色仁三郎氏(草分)、五十嵐富一氏(江花)の三氏に試作を委託、大正十四年吉田貞次郎元村長のお骨折りで、富原の本間牧場跡三十ヘクタール弱を購入し、翌十五年札幌工場から御子柴卓が、菊池謙三郎と職工二名を伴って赴任、村の御協力を得てホップ園と乾燥場を設け、直営と契約栽培に当った(後略)。

 

 『サッポロビール札幌工場年表』(昭51)によれば、契約農家が植え付けを開始したのは大正15年。一方、直営ホップ園初年度植え付けは昭和2年で、翌3年に4町6反歩から1万2,200`cの収穫があったとある。なお『上富良野町史』は、「大正十五年十二月札幌麦酒株式会社上富良野ホップ園のホップ栽培組合設立」と記している。

 

 写真 完成間もないホップ園乾燥作業場

 写真 ホップ畑風景(昭和2年)

  ※ いずれも掲載省略