郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

4章 大正時代の上富良野 第1節 分村と大正期の村政

366-371p

2、中富良野村の分村

 

 分村への動き

 明治36年に富良野村が上富良野、下富良野の2村に分けられたが、ここにきて中富良野の分村への動きが表面化してきた。

 明治45年の『小樽新聞』(明45・4・10)は、「上中富良野分村請願」と題して中富良野住民の加藤源太郎(村会議員)ほか61名による上川支庁長への請願を紹介している。

 

  中富良野村民総代加藤源太郎外六十一名連署し、去る八日上富良野より分村請願書を上川支庁長に提出せり。理由の概要は現在戸数約二千戸人口一万の処、中富良野は一千二百戸六千人を包容し、水田一千町歩の内その八割は中富良野に属する結果、反別割其他納税額に於ても上富良野より多く負担し居るに拘らず、村役場を上富良野市内に位置するは比較多数の村民に不便を来し、且つ教育費其他の支出に於て中富良野村民は永久に此の不便不利に堰へざる事情あり。今分村するも上富良野は現在の東川に、中富良野は永山に匹敵し充分独立経営に堪へ得る資格を有せり。尚ほ両部落今後の人口増殖は未開地の現存するに徴し炳[あきらか]なるものありと云ふに在り。

 

 これによると分村の理由は中富良野側が、@役場の位置で不便なこと、A財政負担で不利なこと、B2村は分村しても「独立経営に堪へ得る」ことなどが挙げられている。この中でも1番の理由となったのはやはり@であり、「分村調査書」(『分村書類』上富良野町蔵)に挙げられている理由も、以下の通り役場への遠距離と出頭の不便であった。

 

  上富良野村ノ総面積ハ二十一万里強ニシテ東西五里二十町、南北五里二十町有之、上富良野及中富良野ノ二字ヲ以テ上富良野村卜称ス。

  而シテ両字ニハ各停車場アリテ字中富良野ニ関スル物資ノ集散ヲ為スハ中富良野市街ニシテ、同市街ハ基線北十三号ニ位置シ総テノ交通ハ中富良野市街ヲ中心ト為シ居レリ。字中富良野市街ヨリ上富良野市街ニ至ル汽車哩数ハ四哩七ニシテ路程二里ヲ距リ居リ候。為メニ字中富良野住民中、下富良野村界ニテ住スル者ハ三里以上四里ノ遠距離ニシテ、公課租税ノ納付及一定ノ期間ニ定メラレタル戸籍ニ関スル諸届願書等ニ至リテハ、家政ノ関係貧富ノ程度ニヨリ不知不識法定ノ期日ニ届出ヲ為シ不得ノ状況ニシテ、遂ニハ納税ノ督促手数料、戸籍ニ於ル期間懈怠科料等ノ費用ヲ罪セラルヽモノ間々アリ。兵事事務ニ関スル重用事件ノ伝達等ニ於テモ遠住者ニアルモノハ自然其ノ通達ノ遅達ヲ免レズ。故ニ同方面ニ住スルモノハ不便ハ冗費ヲ支出スルノ己ムナキニ到ルモノアルノ現象ニシテ、之迄公務ノ為メ上富良野村役場ニ出頭ヲ為スモノ(印鑑証明願、諸証明願、納税及公務ノ為メ呼出ニ応スル等)一日平均十人以上ノ汽車往復ヲ為スモノニシテ、其他農繁季節ニ於テモ之ガ諸弁ノ為メ遠距離ヲ徒行シ、遂ニハ貴重ナル一日間ヲ空費スルノ已ムヲ得サル実例ニシテ、之ガ為メ同方面ノ住民ハ役場所在地ノ関係上、毎年多額ノ出費卜日子トヲ要スルヲ以テ、別村ヲ為シ独立セントスルノ希望ニ之有候。

 

 分村反対の意見

 おそらく中富良野側では明治45年の先の請願以後も、何度か分村への請願が行われたと思われる。『中富良野村史』では、分村化は上川支庁の意向であり、中富良野の方からの運動ではなかったとするが、新聞報道の通り中富良野側より要望したものであった。

 これに対して上富良野側では大多数が反対の立場をとったようであるが、やがて上川支庁でも中富良野の分村の必要性を認めるようになり、大正4年頃から上富良野村との調整に入ったようである。そして上川支庁の意向が村民の間にも伝聞され、村内に分村をめぐる問題が表面化してくるのは5年からであった。

 まず分村反対の意見であったが、「分村調査書」には「反対ノ請願」の概要が以下のようにまとめられている。

 

  上富良野村ハ明治三十年ニ始メテ上富良野村設置以来、既ニ二十余年間各其ノ人情風俗ヲ同シクシ各種団体ヲ組織シ、今ヤ秩序的ノ発展ノ域ニ進行シツゝアルモノニシテ、漸ク一村ノ長計ヲ確立セントスルノ今日ニ於テ分村ヲ得サシカ、鞏固ナル団結ノ下ニ成立シタル水利組合、信用組合、青年団、少年団、部落規約、其他各種ノ団結及部落民ノ一家ノ如キ情義ヲ根底ヨリ云テ破壊セラレ、之迄ノ苦辛考慮ヲ為シタル実績ヲシテ遂ニ水泡ニ期〔帰〕シ、村ノ発展ヲ阻害シ人民ノ負担ヲ増加シ甚ダ村ノ為メ□□□ニ堪へザル儀ナリトテ…

 

 ここで反対理由として分村は、これまでの村民同志の「団結」「情義」を破壊し、「村ノ発展ヲ阻害シ人民ノ負担ヲ増加」するものであるとしている。上富良野側の960人が署名に及んだ5年3月の反対の請願書では、

 

 一 分村を希望するのは二二〇〇戸中、中富良野市街周辺の第一部から第五部の七〇〇戸に過ぎないこと。

 二 学校の通学区域が分割されること。

 三 上富良野市街二〇〇戸の商店の得意先が西中、東中であること。

 四 上富良野は高台が多く畑作農家は貧困であること。

 

などを挙げて、こぞって反対を表明していた。

 また、中富良野側でも分村を危倶する動きがみられていた。例えば大正5年2月に、現在の新田中に所在していた新田中農場、東農場は第五部となっていたが、そこの住民たちは第二部への編入換えを陳情していた。

 この地区では山越えしなければならない中富良野市街よりも、上富良野市街の方が近距離で交通に便利であったからである。この陳情は結局認められなかったのであるが、こうした動きも実は分村と関係があったのである。すなわち、新田中では分村によって従来の上富良野との関係が絶たれるようになる。そのために新田中は、中富良野の第五部から上富良野の第二部へ入ることによって、上富良野村に留まろうとしたものであった。

 なお、分村問題の焦点は役場との距離ということであったから、その影響を最も受けている北8号以南を下富良野村に編入し、分村を回避する意見も出されていた。

 

 書類写 分村の答申書

  ※ 添付省略

 

 両村の村界

 しかし、道庁・上川支庁では分村を既定の方針として進めていき、そして最後に、両村の村界が問題となった。当初、村界として村側では「境界ノ表示」として、

 

  東三線北二十号ヲ起点ニシ東三線ヲ北十五号ニ直進シ「ポロピナイ川」ニ達シ、同川ヲ遡リ分水山嶺ニ拠リテ「ペナクシホロカメトクヌプリ山」ニ達シ、西北方ハ東三線北二十号ヲ西五線交接点ニ直進シ、西五線ヲ北十六号ニ進ミ同十六号ノ延線ヲ直進シ芦別村境界二至ル。

 

と、@東3線より以東は北13号のポロピナイ川、A東3線と西5線の間は北20号、B西5線より以西は北16号という具合に、上富良野と関係の深い東は東中、西は奈江の上富良野編入を図っていたようである。しかしながら、村界が複雑なこともあってBは撤回して、北20号の延長線に置き直している。

 一方、支庁では北16号、北18号、北20号の3案をあげ、中でも北20号案を有力視したようであった。しかしそれでは上富良野村は東中を失うこととなるので反対し、結果的には@は、東4線より以東は北15号と元風防林の間として決着をみたのであった。

 こうして中富良野村の分村が決定し、同村は大正6年4月1日に設置となった。中富良野村との境界については以下のように告示された(道庁告示第150号)。

 

  北二十号東四線ヲ基点トシ、同線ニ拠テ東ハ北十五号ト元風防林間ノ堺ヲ東十線ニ出テ、同地点ヨリ直進シテ北十九号ベベルイ零号線ノ接合点ニ至リ、更ニ北十九号ヲ直進シテ下富良野界ニ至ル。西ハ北二十号ヲ直進シ上川郡ニ界ス。

 

 部の改正

 大正6年4月に中富良野村が分村したので、分村後の新たな行政区域に対応した部の編成が必要となり、同年10月15日に14部に新編成した部長設置規則が設けられた。

 

第一部

西二線西一線ノ中間ヲ基点トシ、北三十号ヲ東四線ニ直進シ、同東四線ヲ北三十二号延線迄直進シ、同三十二号ヲ硫黄山ニ直進、以北一円。西方ハ基点ヨリ西二線西一線中間ヲ本村郡界迄直進、以東一円。但、西一線北三十三号ニ至ル旧区画地ヲ除ク。

第二部

西方ハ西三線北二十五号北二十六号間ノ風防林ヲ基点トシ、西四線迄直進シ、北二十六号北二十七号ノ中間ニ折レ、同中間ヲ西五線ニ進ミ北二十九号ニ折レ、北二十九号北三十号中間ニ出、西八線北三十一号ニ斜行シ、西八線ヲ鉄道線路ニ〔至ル。以北ハ郡界迄デアル。東方ハ西三線北二十五号、北二十六号間、元風防林ヲ基点トシテ西三線ヲ北二十八号マデ進ミ、同二十八号ヲ西二線ニ出、同西線ヲ北三十号ニ出、三十号ヲ西一線西二線ニ進ミ、同中間ヲ直進シ郡界ニ至ル一円。但、第一部ニ突出シタル西一線北三十三号ニ至ル旧区画地ヲ含ム。〕

第三部

北三十一号西八線ヲ基点トシ、西十三線北三十三号ニ斜行シ、北三十三号ヲ郡界迄直進シ一円。

第四部

西四線北二十五号北二十六号間、元風防林ヲ基点トシテ同西四線ヲ北二十六号北二十七号ノ中間ニ進ミ、西五線ニ出同西五線ヲ北二十九号北三十号ノ中間ニ進ミ、同中間ヨリ同延線ハ西十三線北三十三号ヲ本村郡界迄直進ス。南方ハ郡界ヲ北二十五号北二十六号間、風防林ノ延線迄一円。

第五部

西三線北二十五号北二十六号間ノ元風防林ノ中心ヲ基点トシ、同西三線ヲ北二十号ニ直進シ、同北二十号ヲ本村西北端ニ至ル。北方ハ西三線北二十五号北二十六号間ノ風防林ノ中心ヲ本村西北端ニ至ル一円。

第六部

西三線北二十五号ヲ基点トシ、西三線ヲ北二十八号ニ直進シ、同西二線ヲ北三十号迄直進シ、同三十号を東四線延線ノ交接点ニ直進シ、同東四線ヲ北二十六号北二十七号ヌッカクシフラヌイ川東北岸ニ至リ、同東北岸ヲ下行シ北二十五号ニ至ル間、上富良野新旧両市街ヲ除ク一円。

第七部

上富良野新旧両市街地一円。

第八部

西三線北二十五号ヲ基点トシ、同北二十五号ヲ東三線東二線間ノヌッカクシフラヌイ川右岸迄直進シ、同右岸ニ沿ヒ下行シ北二十号ニ至り、同二十号ノ西三線ニ至ル上富良野市街地ヲ除ク一円。

第九部

東四線北三十二号ヲ基点トシ、同東四線ヲ北二十六号ニ直進シ、同北二十六号ヲ直進シ、第一安井牧場ト岡部牧場トノ境界線ヲ境トシ、東九線ノ延線ニ出テ東九線ヲ北二十四号ニ進ミ、同北二十四号ヲ直進シテ本村東端ニ至ル。東北方ハ東四線北三十二号ヲ直進シテ硫黄山ニ至ル一円。

第十部

東四線北二十六号北二十七号間ヌッカクシフラヌイ川ノ左岸ヲ基点トシ、同左岸ニ沿ヒ下行シ北二十号ニ至り、同二十号ノ東三線ニ進ミ、同東三線ヲ北二十二号ニ進ミ、同二十二号ヲ東九線ニ進ミ、同東九線ヲ直進シ、第一安井牧場ト岡部牧場トノ境界線ヲ境トシ、北二十六号北二十七号ノ中間ニ至ル一円。

第十一部

東三線北十八号ヲ基点トシ、東三線ヲ北二十二号ヲ東九線迄一円。

第十二部

東九線北二十四号ヲ基点トシ、同北二十四号ヲ本村東端迄直進シ中富良野村境迄、西南北ハ東九線北二十四号ヲ基点トシ東九線ヲ北二十号ニ直進シ、同二十号ノ本村東端ニ直進シ中富良野村境ニ至ル一円。

第十三部

東九線北二十号ヲ基点トシ、同二十号ヲ本村東端ニ直進シ中富良野村境迄、西南北ハ東九線北二十号ヲ基点トシ同東九線ヲ北十八号ニ直進シ、同十八号ヲ東十線ニ進ミ、東十線ヲ北十五号北十六号間ノ風防林ノ南端ニ直進、中富良野村境ニ至ル一円。

第十四部

東三線ヲ北十六号北十五号間ノ元風防林ノ南端ヲ基点トシ、東三線ヲ北十八号ニ進ミ、同十八号ヲ東十線ニ至ル間一円。

 

 人口の推移

 大正期に入ってからも上富良野村の戸数、人口は順調な伸びをみせていた。

 大正元年から中富良野村が分立する六年までの戸数・人口を示すと、以下の通りである(『北海道戸口表』)。

 

 

合計

戸数

元年

7,662

5,587

13,249

2,335

2年

7,354

6,581

13,935

2,347

3年

8,222

6,822

15,044

2,426

4年

8,827

7,796

16,623

2,522

5年

8,955

7,800

16,795

2,584

6年

5,168

4,618

9,786

1,702

 

 この時期に最も人口の増加をみたのは3、4年であって3年は約1000人、4年は実に1600人も増えている。激増の原因は、各地で土功組合を設置して造田化に取り組んだ結果であり、多くの移住者を迎え入れる余地が生じた結果であった。こうした戸数、人口の急増が逆に中富良野村を分立する要因となっていき、分立後の上富良野村は前年に比し戸数で3分の2、人口で5分の3の割合となる。

 続いて7年以降の戸数、人口の推移を示すと以下の通りである(13年まで『北海道戸口表』。14、15年は『昭和二年上富良野村勢要覧』)。

 

 

合計

戸数

7年

5,188

5,130

10,318

1,902

8年

5,500

5,466

10,966

2,108

9年

6,331

5,734

12,065

2,106

10年

5,895

5,364

11,259

1,985

11年

5,963

5,381

11,344

2,017

12年

5,776

4,913

10,689

2,058

13年

5,321

5,118

10,439

1,998

14年

5,123

4,904

10,027

1,712

15年

5,116

4,948

10,064

1,710

 

 この時期は9年が約12,000人、10、11年が11,000人台であった他はみな10,000の3桁台であり、ほぼ横ばいから微減の状況であった。

 上富良野村は既に入植可能な原野は切り開かれて移民の来住もなくなり、大規模な産業振興もみられなかったので、このような静態的な傾向を示すに至ったのである。