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3章 明治時代の上富良野 第10節 開拓期の宗教

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3、民間信仰

 

 山神

 上富良野町内には現在22基の山神碑、21基の地神碑が現存し地元の人たちにより奉祀されている。いずれも作神・農神として祭られるほか、地区の守護神・産土(うぶすな)神としても祭られている。信仰上の心意は両者に差は認められないようである。山神には、「開墾し定着を目指した農民が農業のための利益を期待して、部落を基盤にして祭を行う型」と「山仕事に従事する人々が(その多くは近隣の農民であった)入山の儀礼として行う型」(滝沢正「北海道農村の部落祭祀」〔『北海道の研究』第7巻、清文堂、昭60〕の2型があるが、上富良野の場合はもっぱら前者の奉祀が行われていた。

 町内の山神で最も古いものは明治33年に建碑されたもので草分1、富原3の2基がある。草分1の山神は「山神」と刻銘され、33年10月15日に建碑された。三重団体の副団体長であった田中常次郎が創設し、三重団体の代表的な山神であり、11月7日が祭日であったという(『上富良野町史』)。富原3の山神は「山神大権現」と刻銘され、33年10月17日に建碑されている。

 日の出2上(東町4丁目)の東2線会館敷地内にある山神碑も、同じく33年の建碑である(『上富良野郷土誌』『上富良野町史』は35年とする)。この碑は西川牧場主西川竹松の発起により東組中の西川作松、渡辺清蔵ほか2名が同11月7日に建てられた。もと天理教教会地に所在したものを移設したものである。西川竹松は三重県河芸郡玉垣村出身で31年に三重団体に一員として移住していた。

 続いて30年代に建碑されたものでは、日新3の日新神社鏡内にある山神は、35年12月の創祀である。新井牧場の時期に建てられ、もとは白井宅の近くにあり、昭和34年6月16日に移設・再建された。日の出6の山神は39年に久野伝兵衛など三重団体の人々によるものである。他に2体の山神碑があるが、これらは昭和2年に部落内にあった碑を移設したものである。東中11西の山神は39年10月12日に奉納とされ、石工阿部朝五郎と刻まれている。西谷元右エ門の創祀ともされているが(『上富良野町史』)、元右エ門も三重県多気郡西外城田村出身で27年に幌向村に移住し、東中には40年に転住していた。山神創祀年と元右エ門の転住年に齟齬がみられる。島津1の丸一山公園にある山神も、30年代の創祀と伝えられている。もと本田家の山にあったものを大正年間に移設したという。

 40年代の山神では、日新5の佐川家地内に中央に八将金神、右に山神、左に熊野神の三神名を記す山神碑が、42年10月24日に「奉祀草創」と建立されている。山の上から現在地へ移設されたもので、三神名を記す点で他の山神碑とは異なっている。

 岩手県から入植した佐川団体が郷里の山神として伝えたものであろうか。草分の二区更生の山神は、43年11月に建立された。碑の文字は作佐部牧場主であった作佐部蔚の筆によるものであった。もと篠原家付近に所在していた。

 年次は不明ながらも明治期の建碑とされているのは、草分の三重二の山神である。西4線北28号の十字路(落合勇宅前)にあり、三重二部落で奉祀している(昭和23年までは一部落も参与)。草分2の山神は草分2部落で奉祀し、石碑としたのは立野作之助であり大正期であった。草分3南の山神は大正5年に御堂が建てられ、昭和9年10月3日に「氏子中」によって再祀されたものである。日の出4東の山神は、明治末期から大正初期の創祀とされ、もとは西1線北28号にあり日の出4東、4西部落で共同で祭られていた。造田のために西1北29号に移設となった。

 山神はこの時期、草分、日の出、日新の地区に多く建立されていることに特徴があり、しかも三重団体、三重県出身者により建立されていた。このことから山神を祭る信仰、民俗文化は三重県移民により持ち込まれ、町内へ普及していったものとみられる。

 日新神社は大山津見命を祭神としているように、もとは山神を奉祀したものである。日新神社は大正7年頃に新井牧場と細野農場、作佐部農場の山神を合祀して創設されており、新井牧場では明治36年に木柱を神体とする山神が創祀されていた。細野農場、作佐部農場の山神は現在社殿の右脇に移設されている山神碑であり、建立は碑銘によると34年6月14日であった。

 なお、町内の石碑の創祀年、建碑年、移設・改祀年は実地に碑文調査で判明したものもあるが、その他は『上富良野郷土誌』(昭42年)、『上富良野町史』(昭42年)。上富良野高等学校郷土史研究会「富良野盆地の農民信仰碑」(『フラヌイ』第8号、昭56)、上富良野町郷土館『石碑・祠・社の謎』(昭57)、上富良野町史編纂室『上富良野町石碑類宗教施設調書』(平9)に依拠して記述している。

 

 写真 富原三の地神と山神

  ※ 掲載省略

 

 地神

 『上富良野志』は、「其の他団体、農場或は一小区域に地神と称して何れも祭礼を行はざるなし」と、明治42年頃に各団体、農場、地区などで地神の祭祀が広く一般的に行われていたかのように伝えている。だが、実際には町内にこの時期、建碑された地神は少なく、むしろ先述した山神の方が一般的であり、地神祭祀をとる方は少数であった。

 町内地神の碑文にはパターンがあり、「地神」「地神社」と記すもの〔A〕、五角形の石柱、ないし木柱の正面に天照皇大神、右廻りに忍穂耳命、彦火火出命、大己貴命、瓊瓊杵命と五神名を記すもの〔B〕に分かれている。いずれも作神、農神として奉祀・信仰され、農作物の豊穣を祈願、奉謝して3月の春分、9月の秋分に近い戊(つちのえ)の日、すなわち社日に祭りが行われる。上富良野での地神信仰は後述のように主に徳島県、兵庫県淡路地方の移民により招来された。

 上富良野町内で現存する地神碑で最も古いのは、富原3(ホロベツナイ川右岸)に所在するものである。火山岩に「地神社」と刻銘され、「明治三十三年庚子十月十七日」と建碑時が刻まれている。隣の山神碑と同年月日に建碑されたものである。もとは斜線北23号の旧永山農場内にあったが、明治44年に新たに〔B〕型の碑(後述の共同地神)が作られたので不要となり、しばらく放置されていたものを、大正10年2月に第二安井農場の小作者(約20戸)により勧請されてここに移設されたという(滝沢正「北海道農村の部落祭祀」『北海道の研究』第7巻、清文堂、昭60)。

 この地神碑は共同地神の前身であったが、共同地神は後述のように永山農場に入った淡路島出身の屯田兵により建てられていたので、同じくこの碑も彼らが建碑したものとみてよいであろう。

 この地神碑は上富良野高等学校郷土研究会が明らかにしたように、富良野盆地の中でも数多い地神碑のうち最古のものであり(『フラヌイ』第8号、昭56)、その文化財的な価値が認められて隣の山神碑と共に、昭和55年12月9日に上富良野町文化財史跡に指定された。

 次に古いのは富原にある「共同地神」である(斜線道路北22号、23号中間)。形状はBであり台座には「明治四十四年」(これまで42年とされてきているが、視認した限りは44年である)、世話人として中尾伝七、樋口和三郎、城越文吉の名が刻まれている。

 創建の古いことが知られているのは、現在は東中神社に所在する形状〔B〕の地神碑である。この地神は、

  @明治39年     東6線北19号の中間、風防林

  A43年       東6線北20号、角の三角地点

  B大正5年     東6線、同7線中間北20号、風防林

  C昭和10年     東中神社(五十嵐農場開放時)

と、四度も位置を変えたという(『上富良野町史』)。当初の位置は中島農場内(明治40年に五十嵐農場となる)であった。現在の碑は、「大正五年九月建之」と記されているので、Bのときに新調されたものであろう。

 この時期に建碑されたものとして伝えられているのは、東中の田中農場(大正6年に安井農場となる)の地神である。碑は農場事務所の筋向いに所在していたという。建碑年は不明であるが、富原3の地神に近い年代観が考えられている(滝沢正「富良野地方の地神・山神信仰」『フラヌイ』第6号、昭54)。

 また、江幌3の地神も明治43年に建碑されたとされている(現在、江幌会館の横に所在)。

 明治期における建碑の動向と特質を探ると、まず江幌の地神を除き4碑はすべて隣接した富原、東中地区に集中していることである。しかもそのうち3碑までもが永山、中島、田中の各農場単位で奉祀されていたことである。さらには、これらが徳島県、香川県、兵庫県淡路地方の出身者たちによりまつられ始めた可能性が高いことである。

 永山農場は永山西兵村のもと屯田兵8人が共同で貸付けを開いた農場であるが、彼らは共に徳島県と兵庫県淡路地方、旧徳島藩の出身であった(第3章第1節参照)。「共同地神」も永山農場と関係をもつようであり、ここに記された3人の世話人は永山農場の関係者であり、中尾伝七は兵庫県三原郡倭文村、城越文吉も同村出身の城越茂吉との関係者であろう。樋口和三郎は同郡榎並村であり、淡路島の出身であったのである。中島農場は場主の中島覚一郎は長野県の出身であったが小作には当初、徳島県からは和田富蔵・住友与平・十川茂八、香川県からは有塚利平・森田喜之八らが入場し、松原勝三も淡路島の出身であり、両県の出身者が多かったとみられる。田中農場は場主の田中亀八・米八兄弟が徳島県の出身であったが、小作の和田富蔵も同県の出身であった(以上は『上富良野志』による)。

 ところで徳島県、香川県、兵庫県淡路地方は地神信仰が盛んなところで、徳島県では各集落ごとに地神碑があるほどである。地神碑は県内に約2000基ほど存在していると見込まれている。

 淡路地方も同様であり、淡路島内には269基の地神碑が確認されている(田村正『淡路島の社日信仰』平元)。このように郷里での盛んな信仰が持ち込まれ実践されていたのである。