郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

3章 明治時代の上富良野 第10節 開拓期の宗教

344-346p

1、神社の創祀

 

 開拓地の神社

 日本の民族宗教の中で神社も育まれてきたので、開拓に入り農業に着手した人々がまず必要としたのは神社であり、神を祭る場であった。作物の生成をつかさどる神を祭り、豊作を祈願し収穫を感謝するために神社が設けられるようになる。また、神社は地域の人々をを守護する産土(うぶすな)神であり、人々の心のよりどころであると同時に地域住民の結集の場であった。開拓が進み入植者が増えて地区が形成されていくにつれ、神社は必ず設けられていくのである。

 以上は農業、社会心理的な面であるが、次に政治思想の面から考えると、近代の日本は国家神道の制度下にあった。とくに日露戦争の頃から国家神道は強まり、敬神思想は祖先崇拝と皇室崇拝が一体のものとして強調されるようになっていった。すなわち、神社へ参拝することが皇室を崇拝することとみなされたのであり、神社は皇室崇拝への通路となったのである。そのために、「臣民の熱誠」を示す場として神社の設置が必要であったのである。

 皇室崇拝は学校、青年会、軍人会などの機関・団体を通して教化されていったが、国家神道のネットワークをはたす神社、それが政治思想の上でも各地域に必要であった。

 開拓地に神社が設置されていったのも、以上の複合的な理由からであったが、もうひとつは後述の上富良野神社の創設にみられるように、地域の政治社会との関係である。神社はいうならば地域のシンボルの役割をもっていた。役場が行政・政治のシンボルならば、神社は国民精神のシンボルであった。それ故に神社をもち、それを荘厳化し官社として社格を得ることがその地域の「村勢」を示すことであったのである。また、国家・皇室への忠誠を示すことでもあった。近代の地域社会にあって神社の役割は大きく、また複雑で微妙な問題も多くかかえていたのである。

 

 上富良野神社

 『上富良野志』(明42)には上富良野神社の創祀につき、以下のような「紀元」が記述されている。

 

  市街地に祭神なく為めに祭典を行ふこと能はざるを遺憾とす。折から構山丈太郎氏、時の戸長に談じ自ら首唱者となり、有志者を役場内に集会せしめしは明治三十五年三月三日の事なりとす。衆議の結果三重団体、島津農場、永山農場へ移牒し、再び集会を重ね協議を遂げ直ちに社殿を建築することに決し、其委員として境柳助、金子庫三の両氏を挙げて其任に当らしめ、一面祭典の事を司る為め青年会を組織し、同年七月廿五、六の両日を祭典日と定め、始めて祭礼の挙を行ふに至る。

 

 これによると上富良野神社は市街地の祭神として祭典を挙行するために、横山丈太郎が首唱者となって35年3月3日に協議されたものであった。この後、三重団体、島津農場、永山農場など上富良野内の有力な団体・農場とも協議を重ねられることとなり、村全体の鎮守神として創祀される方向に発展していくのである。すなわち、単なる市街地という1地区の神社ではなく、上富良野村を代表する「村社」としての性格付けが与えられたのであった。この協議の過程は上富良野神社が後々までもつこととなる二面的な性格、すなわち、市街地の地区神社であると同時に村全体を代表する「村社」という性格を、既にここで示していて興味深いものがある。

 協議の結果、社殿建築委員、祭典執行の青年会などの組織もつくられ、天照大神を奉祀する社殿も竣工し、35年の7月25、6日に初の祭典が行われた。祭典には競馬、相撲、芝居などがなされ、「頗る盛大にして壮観を極」めたものであったという。また、祭典執行の青年会は会長、幹事などがあって、「万事を処理し祭典を主として交誼を温めり」とされており、村内でも有数の社交団とされていた(『上富良野志』)。

 創立当初の社殿は「神祠の程度」であったようであるが、明治42年に本殿1坪、拝殿6坪半の社殿が建設されている。

 

 草分神社

 「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」(若林功『北海道開拓秘録』第1編、昭24)には、草分神社の創祀につき以下のように語られている。

 

  移住当時は田中が最初に野宿した楡樹を神社代用として礼拝してたが、後郷里の大神宮の分神を勧請し野宿の楡樹の辺に仮祠を建て社内に最初移住者六名の履歴書を納めて原野開墾の祈誓を立てた。神社は後に移転新営したが、四月十二日を移住記念日、十月十六、七日を祭日と定め、当日は村民集って米飯を炊き、兎を獲って料理し、終日遊び暮らし住い日となった。

 

 これによると30年4月12日に「探倹」の一夜を明かした楡樹を御神木として奉祀したものであったが、間もなく伊勢神宮の分霊を受けて「仮祠」を建立したという。これはおそらく35年のことであろう。

 草分神社からは昭和44年に84枚の木札が発見されたが(岩田賀平「三重団体草創の人々」『郷土を探る』第5号、昭60)、これらは開拓五周年を記念して社殿が新築された落成式の35年10月16日に、草分神社に奉納されたものであった。このことから草分神社の社殿創建は、35年10月16日であったことが判明する。10月16日も例祭日であった。これも伊勢神宮の例祭日を1カ月繰り上げて定められたという。

 なお、『北海道開拓秘録』で「移転新営」のことに触れられているが、現在地に移転されたのは明治末期だという(『上富良野町史』)。

 

 地区神社の創祀

 島津神社は島津農場の農神、守護神として明治32年(『旧村史原稿』、『上富良野町史』では33年)に創祀された。32年は島津農場が開かれた年であり、開場早々、天照大神を祭神とする神社が設置されたわけである。社殿は当初、1坪の小祠であったという。例祭は9月4、5日であったが農場ではこの例祭日には、「小作人一般に酒を饗応」する慣わしであった(「上富良野島津家農場」『殖民公報』第77号、大3)。

 東中神社は『東中郷土誌』によると明治34年(『旧村史原稿』では35年)に、9線17号に「鎮座」されたという。創祀者として神田和蔵、岩崎虎之助、安井新兵衛、桜坂源七、安井新右衛門、中野常蔵、湯浅伊蔵、鹿島亀蔵の名前が伝えられている。『旧村史原稿』に記述されている、明治期に創祀された地区神社をまとめると以下のようになる。

 

神社名

地区

祭神

創祀年

例祭日

島津神社

島津

天照大神

32年

9月3、4日

東中神社

東中

応仁天皇・神功皇后、事代主命

35年

9月4、5日

江幌神社

江幌

天照大神

43年9月

9月13日

滋賀神社

江幌

天照大神

41年7月1日

7月1日

滋賀団体移住記念日

江花神社

江花

天照大神

43年

9月20日

八幡神社

旭野(山加農場)

石清水八幡神

46[ママ]年10月

10月15日

 

 このうち江幌神社の起りは、岐阜団体が明治42年に創祀した白山神社と地神を合祀したものという。地神は鶴野作五郎を中心としたものというが神名を記した木柱であり、これを神体、小祠代わりに奉祀していたようである。地神といっても後述する徳島系統の五神名を記す地神とは異なった性格であろう。祭神は現在、大国主大神とされている。江花神社は当初、村木農場の神社として創祀されたが、阿部藤太郎の呼びかけにより地区神社となったようである。

 この他にも『上富良野志』に、「農場或は一小地域に地神と称して何れも祭礼の行はざるなし」とされているように、農場・牧場、移住団体、部や組を単位とした地区割りによる「一小地域」では、必ず何らかの小祠、地神、山神、あるいは神名を記した木柱を奉祀した施設があって祭礼が行われていた模様である。地神、山神については後述するが、神名を記した木柱は江幌神社に関して述べたが、静修でも福島団体の伏見乙五郎等が天照皇大神を中心とする地神が奉祀されており、大正7年頃に熊野神社へ合祀になったという。