郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

3章 明治時代の上富良野 第9節 開拓期の生活

332-337p

2、開拓期の住まい

 

 島津農場の住居配置図

 島津農場の農場図は上富良野と尚古集成館(鹿児島市)に保存されている。同館所蔵の『富良野農場図』Aは「小作人家屋」、「牧草畑」、「道路」が彩色された区分で和紙に記載されている。島津農場管理人であった海江田家に保存されている『富良野農場図』Bには「小作小屋」「小作人耕作畑」「牧草畑」「風防薪炭林」「既設道路」「官設風防林地」などが彩色して図解されている。A・Bともに制作年の記載はないが、Bは「明治40年度牧草収納反別調」図(海江田家所蔵)より管理人事務所付近の「小作小屋」が少なく、40年以前と思われる。島津農場が、水の便が悪く小作人が居なくなってしまうほどで、牧草ならば大倉組を通して第七師団に納入し収益をあげることができた時期、30年代中頃であろう(海江田武信談「古老のテープ」昭55年)。

 農場図Bは、風防林の3方と西山に囲まれ、「牧草庫」が3棟点在し、西1線沿いに「事務所」(3棟)、○印の小作人住居が東へ向かった3本の道路(東1線と基線と西1線)に沿って50戸、東1線の各号に向かい合って入地しているが、基線はまばらで、西1線は東側片方に並んでいる。また、○印以外の住居も8軒あり、印はないが記名のある区画もある。大きな区分は上富良野市街地、三重県団体移民、石川県団体移民の区域であり、上富良野停車場が示されている。大正7年には「小作人居小屋」が76戸、農場は畑と水田となった。

 農場図Aには、「富良野農場排水溝堀鑿図」「富良野寺院敷地予定図」「富良農場放水路溜池」「富良野農場地目別図(用水溝)」「富良野農場新設道路図」「富良野農場水田用水溝水門口図面」「富良野農場築堤、溜池、橋、水路図」などが含まれ、農場の生活基盤づくりを知ることができる。

 

 図・写真 尚古集成館所蔵の島津農場図

  ※ 掲載省略

 

 「拝み小屋」

 入植時の住まいについて、明治30年、三重団体一行の1人吉沢くら(当時14歳)の体験では、旭農場(現美瑛町)に1週間滞在しているうちに、「世帯主や若い人達が住宅をたてる準備」として建てられた家は「堀立て小屋ではありません。カヤで葺いたオガミ小屋だった」という。その小屋は荷物を解いた縄でしばりつけた小屋組で、これでは冬が越せないので、秋に建てた堀立て小屋からは「野地スゲをカゲ干にして叩いたスゲ縄を使い、藁縄は米俵を解いたものを使ったものです。家の出入口にはヨシをあみつけたヨシ戸だった」(町報『かみふらの』29号、昭36)。また、広瀬七之丞ら東中の古老たちも「入った時には縄なんかあるじゃなし、縄の代りにぶどうづるで縛り、床には草を敷いてむしろ代りにしたものだ」(『東中郷土誌』昭27)と回顧している。土間に積んだ柔らかい草の中は暖かく、ふとん代りともなった。「拝み小屋」は移住地へ到着するなり、建てたもので、未墾地への入植では明治30年代に限らず、大正、昭和期でも同様であった。

 昔がたりに、小作に入った農民が一時しのぎに「拝み小屋」を建てたけれども、建築資金がたまらず、ついつい5年、10年と住み続けてしまうことを「仮末代の小屋」といったという(『かみふ物語』昭54)。冬には、ことぼしの白灯油が凍って火が消えたり、雪が布団の上に積もった朝をむかえるのは珍しいことではなかった。

 

 「堀立て小屋」

 「堀立て小屋」を「拝み小屋」と混同することがあるが、「堀立て小屋」は華奢な住まいとは限らない。草屋根、草囲いの小屋を建て、中央の土間に幅4尺余りの大きな囲炉裏、火を焚く場所を設定し、ここで、暖をとり、煮物や乾物にも利用した。

 掘立て小屋の支柱に地元の太い材木を用いると、楢・槐(えんじゅ)・桑などの木は数10年、オンコ(いちい)は50年持ち、しな(菩提樹)や樺の木は腐るのが早く、柱を5〜60p掘った地面に埋めた。さらに、掘った穴に石を砕いて入れて柱を補強して立てると、強度は増した(竹内正夫からの聞き取り、平8)。また、砕いた石を地面に埋めて土台を固めて小屋を丈夫にすることが出来た。「掘立て小屋」はくらしを営む家であった。土間は地面そのままの作業場や納屋であり、馬小屋が一角にあると「愛馬と同居の状態で、天井がないので、囲炉裏の煙で茅の穂に煤が真っ黒に下がっていた」(水谷甚四郎『寡黙の足あと』昭56)。こうした住まいは火災にあいやすかった。

 開拓期の住まいについて海江田武信が前述の「古老のテープ」で語るには、土間に乾燥した藁をたくさん敷き込む生活は「最も暖かく暮らせる生活の知恵」であったが、やがてそれが「不衛生」ということで床板を張るようになると、冬は「寒くてかなわん」といわれたものだった。そして、土間続きにある囲炉裏は土足のまま踏み込めるだけでなく、長い薪を焚きやすく、その大きさは2bに1b半位あった。

 さらに、農場開墾の時期には「成功普請」と呼ばれた簡単な小屋が建てられた。開墾を終えて成功検査に合格するために、3間×4間の12坪の家が必要であった。「屋根を葺き、外回りの戸をたてて、床を半分張れば住宅と認めた。それで土地はその人のものになり、その家をまた隣の土地へよっこするわけで、1戸の家で3回も移した事もあった」という。この「成功普請」については佐藤敬太郎も語っている(「古老のテープ」昭55)。

 

 「土台付きの家」

 「堀立て小屋」の次に建てるのは「土台付きの家」で、移住者たちの誇りでもあった。太い樹木を角材にして、土台とした。角材は大きな石を要所、要所に置いた上に乗せ、柱を角材の上に立て安定を図ったのだった。「土台付きの家」は平屋だけでなく2階建てもある(里仁・数山家)。住まいが手狭になると、丸ごと移動し納屋に替えたりもした。また、解体して移動した神田家もある。東中1西の神田家(大正4年建築265平方b)は10室のほか縁側、床の間、仏間、囲炉裏のある土間があった、現存する家の中でも大きな「土台付きの家」である。「昭和四年春先に、家をほぐして中富良野から馬に引かせて、雪野原をバチバチで引っ張ってきた」(神田武からの聞きとり、平8)のだった。納屋もまた堅牢な建物で、ガラス窓を付け、屋根裏を使えるように戸口や階段を付けて改造し、今日まで使用されている。

 

 江幌の農家・中瀬家

 移住者の中には、大木を倒して開墾しながら、家づくりに使えそうな木々を除けておき、成功の暁に家を建てることができた人々もいた。江幌、静修、豊里(郷)は市街地や東中、島津、草分などの地域より100bほど高い山間部である。江幌は明治30年代後半から三井物産株式会社の造材が盛んであった。

 上富良野町で現存する最も建築年度の古いものの中に、明治43年に建築された家屋(66平方b)で江幌3の中瀬家がある。

 中瀬善夫の祖父伝吉(14年生まれ)が自ら伐採し、木挽きのこで挽いた材木が使われ、柾屋根であった。善夫の実父に当たる長男伝次郎が明治43年、2年後に正次郎が誕生した。正次郎の記憶によると、「一回も改造しなかった」中瀬家ではあったが、初めて昭和61年に土台替えと土間を取り壊し3分の2ほどに縮小し、壁にベニヤを張り断熱材も入れて、外観は変わった。だが、内部は昔の面影を伝えている。間取りは図3−2のようで、家族は多い時には、正次郎兄弟のほか、曽祖母、祖母、父母、叔父ら14人でくらし、働いた。家の周囲には、馬屋、納屋、味噌小屋、鶏小屋、便所など図3−4のように戦前まで配置されていた。中瀬家はエホロカンベツ川の川沿いにあり、川魚に恵まれ重宝したという。ストーブの使用開始ははっきりしないが、「力持ちの伝吉爺さん」が旭川から米を担ぎ、「面白いものがあると言って」角ストーブを下げてきたので、図3−2の堀込みには角ストーブが大正の初めには置かれたようである。現在の図3−3では善夫の親子3人がくらした。玄関を入ると、右手の仏間に滋賀県から荷造りして送ったという1間幅の手製の仏壇があり、奥の部屋との間仕切りは海老茶色の帯戸4枚人である。

 また、江幌に入植した岐阜団体長の家が明治42年に2年ががりで「ただ一つ土台付の本格的建築」として建てられ、昭和42年頃は原形のまま使用されていた(『上富良野町史』)。

 

 図3−2 中瀬家(明治43年建築)

 図3−3 中瀬家(昭和61年改造)

 図3−4 中瀬家(改造前)

  ※ いずれも掲載省略

 

 日の出の農家・武田家

 日の出は市街地から日新に続く、広やかな地域である。日の出3の武田家は大正元年建築され、馬小屋・作業場が住宅の土間続きにある162平方bの家である。武田高雄(昭和4年生まれ)の祖父母、松次郎・さとは50歳を過ぎた昭和3年に現在の家付きの既墾地基線北22号を購入して入地した。遡ること9年間、松次郎夫妻は島津農場で働き、日の出に移り住んだ。

 高雄の記憶によると、間取りは4室、床の間、仏壇、玄関、囲炉裏のある板敷き、流し、風呂そして、作業場には馬小屋が2つ、馬栓棒、牛と鶏小屋があり、つるべのついた井戸が外にあった(図3−5)。作業場の馬小屋側が南に面し、家族は4世代10人ほどが住んだ時期もあった。家屋の土台替えはしていない。図3−6は昭和30年頃に作業場を取り壊し、外回りはトタンを壁に張り、現在は屋根が赤色、壁が黄緑色に変わっている。昔の作業場の屋根の部分が住居の屋根の高さより低いので段差があって、家の変化を伝えている。造作は台所が最初だった。井戸から家のなかに「ポンプを取り付けたり、しばれるので壁をブロックで囲ってもらった」という(武田孝子からの聞き取り、平8)。その次の昭和35年頃の造作は大黒柱のある家の中央に廊下をつけて各部屋の使い勝手を考慮し、3世代8人でくらしてきた。

 

 図3−5 武田家(大正元年建築)

 図3−6 武田家(昭和30年改造)

  ※ いずれも掲載省略

 

 市街地の石蔵・幾久屋呉服店

 市街地に残る石造倉庫の1つ、丸一十字街の幾久屋(前幾久屋呉服店跡、錦町2)は大正3年建築である。その石蔵は、間口4間と奥行3間の12坪、2階建て総床面積40平方b。2階へ上る階段が1つあるだけで、間仕切りはない。外壁の石は美瑛軟石を使用し、内部は木材とトタンを使用している。地盤が弱い市街地での建築はまず、地盤固めから始まった。砂利をまいた地面をドンドンと突いて固めたものだった。明治41年生まれの金子全一は就学前だったので、「もんきつき」という4人以上もの男たちが「ヨウーイとまけ」「ヨウーイとまけ」と声かけながら丸太を綱で引っ張るのを終日見入ったことを語っている。石蔵は商品の安全管理にこの上ない、耐火建築であった。

 幾久屋を開いた金子庫三は、『上富良野志』『上富良野町史』によると明治25年岩手県から移住し、旭川の商家に入り31年には草分に開店以来、「日一日に商運興隆」として「本村第一の資産家」というだけでなく、「十勝線屈指の成功者」といわれた雑貨商であった。こうした勢いの頃に石蔵は建てられた。

 また、幾久屋呉服店には初代の志を継ぐために、明治31年当時の店舗を現在も倉庫として使っている。「つかえ石」を要所要所において、梁の丸太はカンチャで留めた造作であった。平屋で間口5間、奥行3間の店内には「ミニ農協のような役割を果たしていて、品物も小規模ながらなんでも扱うようになった」(金子全一『郷土をさぐる』4号)。雑貨には生活に必要な米・酒・塩・砂糖などの調味料、いりこ・みがき鰊・塩鱒・乾鱈・昆布などの干物、農機具・縄・筵などの農作業用品、衣料品も次第に品数を増すようになった。店舗の前に荷車が並び、ガラス戸越しに品物が整然と積まれ働く人たちなど店の賑わいを伝える写真もある。大正期になると、「呉服買うならこのお店で」と先生と生徒の描かれた看板が掲げられた(岩田賀平からの聞き取り平8)。

 上富良野の開拓期は、役場資料や上川支庁町村戸長会議資料では住居が課題となっているのは教員、医師の住宅くらいのもので、役場、学校、駐在所、隔離病舎など公的な建物の建築を急ぎ、住宅は移住者自身が解決することであった。

 上富良野には開拓期の住居、納屋など記録すべきものがほかにもあるが、貴重な数件を取り上げた。

 

 写真 幾久屋呉服店の石蔵

  ※ 掲載省略